1485年にラファエレ・リアリオ枢機卿が金に糸目をつけずに造らせたルネッサンス建築の代表である宮殿。レオ10世が、自分への陰謀を企てた枢機卿からこの館を没収し、以降、高位聖職者の住居となった。教皇の証書類を作成する尚書院も収容し、ヴァチカン直轄となり、治外法権を持つ。
ベルニーニが改築した部分は不明。死の直前の仕事
地球p137、ROMAp249
この中に、S.Lorenzo in Damaso がある。
1485年にラファエレ・リアリオ枢機卿が金に糸目をつけずに造らせたルネッサンス建築の代表である宮殿。レオ10世が、自分への陰謀を企てた枢機卿からこの館を没収し、以降、高位聖職者の住居となった。教皇の証書類を作成する尚書院も収容し、ヴァチカン直轄となり、治外法権を持つ。
ベルニーニが改築した部分は不明。死の直前の仕事
地球p137、ROMAp249
この中に、S.Lorenzo in Damaso がある。
1591年にG.F.グリマルディとG.デッラ・ポルタによって設計された。その後カルロ・マデルノに引き継がれクーポラが付け加えられた。このクーポラはローマで2番目に高いものである。先のジェズ教会に影響を受けたバロック様式のファサードは、17世紀半ばにカルロ・ライナルディが完成したものだ。ファサードの右側の天使像がかけているのは、作者E.フェッラータが1体目を作り終えたとき、支払われた報酬が少なすぎたためとも、依頼主の教皇アレクサンデル2世が作品の出来にケチを付けたためともいわれている。
この教会はオペラ「トスカ」の舞台として有名。
「洗礼者ヨハネの像」San Giovanni Battista
父親の作 1615
入口より左側のバルベリーニ礼拝堂にはP.ベルニーニによる「洗礼者ヨハネの像」がある。
左右の壁のキューピッド
右 父親 左 ベルニーニ
左右の壁のキューピットは右が父ピエトロ作、左がジャン・ロレンツォ作である。
右がジャン・ロレンツォ1618年作、左がベルニーニの工房のAndrea Bolgi作という説もあり。
いろんなものが一致しない。
どこの壁のキューピッドなのか?もう一度よく見たい!
ベルニーニとボッロミーニというバロック芸術の巨匠が、才能を競っているようなこの広場は、ローマ屈指の魅力を誇る。ドミティアヌス帝(81~96年)が建設したローマ最初の競技場のトラック跡である。1645年に即位した教皇イノケンティウス10世は、出身のパンフィーリ家の栄誉のために広場を改修した。ウルバヌス8世がバルベリーニ家をたたえてクィリナーレの丘を改修した例に倣ったのである。パンフィーリ宮とサンタニューゼ・イン・アゴーネ教会を再建、グレゴリウス13世の噴水2基を改修し、大規模な「4大河の泉」を建設した。
4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi
1648-51
バロック時代の君侯が、ベルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス10世も4年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。
ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、15世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッッォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自家の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッッォとサン・タニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は70代半ぱの老人であり、まもなくボルロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。噴水はすでにグレゴリウス13世の時代に広場の両端に2基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行に移すには、まず多量の水が必要であり、そのためにはトレヴィの泉から水を引いてこなけれぱならなかった。この仕事は、本来ならぱ「ナヴォナ広場の水道・噴水監督官」および「アックワ・ヴェルジネの建築家」の二つの称号をもつベルニーニに任されるべきであった。だがここでもベルニーニに代ってボルロミーニが登用され、彼は1644年から3年かかってこの工事を完成させている。一方ずっと以前から、アッピア旧街道のマクセンテイウス帝の円形競技場跡にオベリスクの断片があるのが知られていた。そこで、このオベリスクを広場に運んで噴水の装飾に用いてはどうかということになり、その噴水装飾のプランを決めるコンクールが開かれたが、今度もやはりボッロミーニの案が選ばれた。ベルニーニはこのコンクールに招待すらされなかったのである。しかしベルニーニにも味方がいた。伝記作者の伝えるところによれぱ、ルドヴィーシ家の当主で、パンフィーリ家の女宰相オリンピアのむすめ婿であった旧友ニコロ・ルドヴィーシが、ベルニーニにも噴水のモデルを作るよう勧め、オリンピアにとりなしたのである(ある資料によれぱ、ベルニーニはオリンピアの気を惹くよう精巧な銀のモデルを作ったという)。オリンピアもこのモデルがいたく気に入ったので、ニコロ・ルドヴィーシはそれを教皇が食事の後に通る部屋に置いておいた。聖母の被昇天祭の日(8月15日)に祝祭行列を終えて食事に寄った教皇は、食事の後でモデルを見つけ、半時間もうっとりと眺めて、このデザインはベルニーニより他に考えられない。そしてこれはプリンチペ・ルドヴィーシのたくらみにちがいない。こうなっては、それを望まない者もいるようだが、ベルニーニを用いなけれぱなるまい。彼のプランを役立てまいと望む者は、これを見てはならないからた」と言った。そしてその日のうちにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の制作を命じたのである。こうしてボルロミーニは再び苦杯をなめ、ベルニーニはようやく第一線に復帰することとなった。
ベルニーニがナヴォナ広場に制作した《四つの河の泉》は、二つの構想から成っている。一つは、オベリスクの台座を中が空洞になった岩山にするというアイディアであり、もう一つは、それを四大河川の寓意像で飾るという「着想」である。マクセンティウス帝の円形競技場跡で見つかったオベリスクは、6つの断片に分かれていたので、つないで修復する必要があったが、そのかわりそれを立てるのには他のオベリスクほどの困難はなかったと思われる。それでもこの噴水の制作が大へんな作業だったことは、当時の資料が「その非常な困難と苦労とは、実際の作業を見た者でなけれぱ分からないと思う」と伝えていることからも想像できる。しかし不思議なことに、現実にこの噴水を前にしてこうした困難を感じることはほとんどないといってよい。我々はむしろべルニーニがやすやすとこれを成したように思うであろう。それは、実際には非常に重いにもかかわらず、オベリスクの重さがほとんど感じられないことに起因している。そしてこれは、オベリスクという幾何学的で無機的な物体の台座に自然のままの岩山を導入し、しかもその岩山の中を空洞にするという、いかにもベルニーニらしい卓抜なアイディアの賜物である。「魔術師」ベルニーニならではのすぱらしい「舞台装置」だといえよう。
ウィルゴ水道から水を引き、トレヴィの泉から給水されている「4大河の泉」は、1651年ベルニーニの作である。イノケンティウス10世の希望は、全体の統一感を損ねることなく、横長の空間に中心となる建造物を与えることであった。そこで、チルコ・マッシモからオベリスクが運ばれた。そこにはヒエログラフでドミティアヌス帝が81年に権力の座に就いたという公的記録が刻まれている。ベルニーニは、オベリスクの上に十字架を立て、全世界を象徴する4大河像が座る岩の上にそびえ立たせた。これはキリスト教の勝利を意味する。オベリスクはまるで宙に浮かんでいるように見え、大変印象深い。沸き上がるような躍動感はベルニーニ芸術の本領である。岩を背にする4大河像は、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川及びナイル川を表す。4大河の間には、洞窟が口を開き、ライオンやカバなどが見え隠れしている。噴水にはオリーブの小枝をくわえた鳩のデザインの教皇の紋章があしらわれている。 人物像はベルニーニの設計により助手たちが制作。オベリスクはローマ時代の模刻である。この噴水の建造費はパンを含む様々な日用品への課税によって調達されたので、当然広汎な抗議を招いた。
四大河の噴水第一デッサン
オベリスクは対角に置かれている。
所蔵不明
四大河の噴水第二のデッサン 390.
オベリスクが正面を向いて、河の神が教皇の紋章を支えている。
ムーア人の泉(モーロの泉) Fontana del Moro
ほかの2つの噴水は、いずれもジャコモ・デラ・ポルタが1575年に水盤のみ作り、19世紀に完成した。
南側の「ムーア人の泉」では、ベルニーニのデザインをもとにG.A.マーリが、イルカと闘うエチオピア人像(「黒人」モーロ)を水盤の中心に建てる。(ベルニーニ自身がモーロ像を制作したという説もある)水盤を縁取るデッラ・ポルタの装飾(4体の「勝利」の像、仮面の彫刻)は複製で、オリジナルはボルゲーゼ公園内の湖の庭園に移されている。さらに外側の水受け盤はボッロミーニのデザインに基づいて、ベルニーニが造ったものである。
第一のデッサンでは、パンフィーリ家の紋章を掲げるデザイン。第二のデッサンでは、いるかが貝を支えるデザイン。
北側の「ネプチューンの泉」は1878年に完成した。
かつてはこの広場でラーゴを楽しみ、そのプロデュースもベルニーニがやった。
Piazza di Sant’Agostino Roma, Italia
+39 06 6880 1962
8:30~12:00、16:00~18:30
アンジェリーカ図書館は裏にある?
聖アウグスティヌスに捧げられたこの教会は、1483年に後期わずか4年でG.ダ・ピエトロサンタが完成したもので、ローマにおける初期ルネッサンス様式の教会建築の好例である。内部は18,19世紀の改修でルネッサンスの雰囲気はあまり残っていない。内部の側廊の天井だけが、青星でミネルヴァのよう。20の柱の「出産の聖母」ヤコポ・サンソヴィーノの像と「預言者イザヤ」ラファエッロのフレスコ画、18の礼拝堂の「巡礼の聖母」カラヴァッジョは有名。
3.Chapel of St.Catherine
4.Chapel of St.Joseph
5.Chapel of St.Rita
6.Chapel of St.Peter
7.Chapel of St.the Crucifix
8.Chapel of St.Augustine
9.Chapel of St.Nicholas of Tolentine
10.Main aitar
11.Chapel of St.Monica
12.Chapel of St.William
13.Chapel of St.Thomas of Villanova
14.Chapel of St.John and St.Fecundus
15.Chapel of St.Apollonia
16.Chapel of St.Claire of Montefalco
17.Pius’ Chapel
18.Chapel of Our Lady of Loreto
19.Our Lady of Stone(or of Childbirth)
10.主祭壇
天使像のデザイン
トッリアーニの主祭壇は、ベルニーニの素描に基づく1628年制作の天使像2体と、ビザンティン様式の聖母子画を戴く。
17.ピオ礼拝堂
16世紀の後半に、ファルネーゼ枢機卿がイエズス会の母教会として創建した。ヴィニョーラが設計し、ジャコモ・デッラ・ポルタが完成させた盛期ルネッサンス建築。内部はヴィニョーラのプランどおりに完成され、その後バロック時代に壁面や天井を装飾した。
ベルニーニが通った教会である。
ベルラルミーノ枢機卿の記念碑
Monument to Cardinal Roberto Bellarmine
モントーヤの肖像と並ぶ初期肖像の代表作
ベルニーニは40年間イエズス会の総本山ジェズに出かけて善き死(ヴォナ・モルテ)同信会が主催して毎週金曜日に行われた祈とうに参加し、また週に一度は聖体を拝受したのである。この善き死同信会というのは1648年に創設された信者の集まりだが、これが組織された背景には、1620年に出版されたイエズス会の総長を務め神学者としても名高かったベルラルミーノの著書「善く死する術について」の影響があるといわれる。
BERNINI p218
天井画「イエスの御名の勝利」
1679 弟子のジョヴァンニ・ヴァティスタ・ガヴァッリの作
昔のミネルヴァ神殿の上に立てられたこの教会はドミニコ会に属し、1280年頃に再建された、ローマで例外的なゴシック建築である。シエナのカテリーナの遺骸が主祭壇下の石棺に安置されている。
http://www.basilicaminerva.it/visita/visita.htm
3.Cappella del Fonte Battesimale
3.ヴァージニア・プッチ-リドルフィの記念碑
Memorial bust of Virginia Pucci-Ridolfi
3.とは言い難い、入り口入ってすぐ右手の壁にある。
26.Monumento di Suor Maria Raggi
26.マリア・ラッジの墓
1643
左身廊奥から2番目の柱にマリア・ラッジの墓.彼はこの墓を設計するのに、通常の墓に用いられる建築的構造を拒否し、柱にまず垂れ幕をつけ、その幕の上でマリア・ラッジを表したメダイヨンをプットーが支え持つという趣向を用いた。マリア・ラッジは臨終の床で十字のしるしを求め、「主イエスよ、私の魂をお受けください」と言って、3度イエスの名を口にして静かに息を引き取ったと伝記は伝えている。ベルニーニはこの臨終の場面を表そうとしたと考えられ、メダイヨンに描かれた修道女は胸に手を当てて、最後の言葉を口にしているかのようだ。そしてあたかも彼女の幻視であるかのような十字架が現れ、それが垂れ幕を柱につなぎ止めている。この垂れ幕が風にたなびいているのは、死が人を吹き去ることを象徴したものと解釈されている。この作品も弟子の手で仕上げられたものだが、その水準は非情に高い。
22-A)Sala dei Papi
22-A.未完の母子像
Large unfinished statue (The Virgin and Child)
attributed to Gian Lorenzo Bernini
非公開
ドメニコ・ピメンテル枢機卿の墓
Progetto per la tomba del cardinale Domenico Pimentel
モーガン・ライブラリー所蔵
どこの天井だったか、要確認
象に乗ったオベリスク
Obelisco della Minerva,particolare del basamento con I’elefante
B.C.6のオベリスクを象の上にのせた。
象の制作は、弟子のE.フェッラータ 1667年
「充実した教養を維持するためには、強固な意志が必要である」ということを意味する。
非情に小さいので「ミネルヴァのひよっこpulcin della Minerva」の愛称を持つ。
アレクサンデル7世の在位を記念するモニュメントとしてデザインした。
象がつけている長すぎる鞍おおいは、象の腹の下が空いていると安定感が損なわれると、ある修道士が主張したために追加されたものである。
アレクサンデル7世は、ベルニーニのフランスからの帰りを待ちかねたように、帰国すると早々に一つの仕事を依頼した。それは、少し前にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァの修道院で発見された小さなオベリスクを、同教会前の広場に装飾として立てるという仕事である。このオベリスクの装飾についてはさまざまなプランか検討されたことが、現存するいくつかのデッサンから知られる。その中には、ヘラクレスがオベリスクを斜めに支えもつというユニークなプランもあったが、それは机上のプランのままで終わり、結局今日見るような、象の背中にオベリスクをのせるという形式が採用された。この形式は、先に述べた1651年のスペイン皇女誕生を祝う花火の趣向を思い出させるが、実はそれより先の1632年に、バルベリーニ家の庭園にやはり装飾として立てるオベリスクのプランを練った折に、すでにこのアイディアを得ていたのだ。だがこの計画はなぜか実行されず、その後スペイン皇女の花火を経て、ここで復活したわけである。象とオベリスクというこの変わった組合わせは、もともと1499年に出版されたフランチェスコ・コロンナの『ポリフィルスの夢』に由来すると考えられるので、これを熟知していた教皇自身の示唆によって生まれたアイディアではないかといわれる。が、いうまでもなく、それが具体化したのは本物の象が刺激となったからであろう。すでに述べたように、1630年には象が100年ぷりにローマにもたらされたし、また1655年にも牝の象が人々の好奇心を満足させている。そしてこうした出来事からベルニーニが強い印象を受けたことは、パリへの旅を象の行列にたとえていることにもうかがえよう。この作品は例によって弟丁たちの手で完成されたために、出来映えは幾分生彩を欠くが、それでも小さなオベリスクと象の姿には何ともいえない面白味がある。だがここで象のモティーフが用いられているのは、先に述べた経緯や形の面白さのためたけではない。そのことは、アレクサンデル7世自身の手に成る銘文が物語っている。この教養あふれる銘文は、まず「古代のオベリスク、エジプトのパラス(イシス)の記念碑、それは地から発見されて、かつてミネルヴァに捧げられ、今日神の母に献ぜられる聖堂の広場に立てられたが、1667年にアレクサンデル7世は、それを神の英智に捧げる」とオベリスクとこの場所の由来を説き、次にその意味を説いて、「おお、ここに最も強い動物に支えられた英智あるエジプトの象形文字を見る汝よ、その訓戒を解したまえ。確固たる英智を支えるには頑強な心が必要だという」と述べているのである。つまり象は「頑強な心」のシンボルとして選ぱれたのだ。
このオベリスクを背中にのせたエキゾチックな象の彫刻は、ベルニーニの無尽蔵の想像力から生まれた典型的な作品だ。オベリスクはこの教会の修道院の庭から発掘されたので、修道士たちは自分たちの広場に建てようとした。象がつけている長すぎる鞍おおいは、象の腹の下が空いていると安定感が損なわれるとある修道士が主張したために追加されたものである。しかし、ベルニーニの想像力のほうが正しかったであろうことは、ナヴォーナ広場の4大河の噴水の空間の利用の仕方を見れば明らかである。古代から知性と信心の象徴だったこの象は、キリスト教徒がその上に真の知恵を作り上げるべき徳の象徴として選ばれたものである。 白ローマp108こうしたユーモアは他の作品にも見られる。例えばサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会の前にある象の像である。この象は背中にオベリスクを背負っているが、顔を教会とは反対側に向け、長い鼻をねじっている。つまり依頼主に尻を向けたポーズをとっているのだ。このポーズにサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会の修道士たちは怒ったといわれているが、ベルニーニは知らん顔をしていたらしい。
ベルニーニには心の広さと余裕が感じられるところがある。私はそれまでは彼を教皇に仕えた体制的な芸術家というイメージで見ていた。
ローマに住んで、バロックの芸術に魅せられたが、私のお気に入りはカラヴアツジョであり、ボッロミーニだった。二人とも、劇的な生涯を送り、作品もそれに輪をかけて劇的で、ぎりぎりのところまでものごとを極めようとする真撃さに満ちていて、いかにもバロックを代表する芸術家と思えた。
一方ベルニーニはこの二人に比べるととらえどころがなかった。サン・ピエトロ教会のバルダッキーノを見ると、その壮大さと、カトリック教を讃える尊大さが目につき、あまり好きにはなれなかった。だがサンタ・マリーア・デッラ・ヴィツトリア教会の「聖女テレーザ・ダヴィラの法悦」を見れば、その繊細さと、魂を天上にいざなうような表現に圧倒され、ベルニーニに魅了されざるを得なかった。
ローマの泉の物語 竹山博英
8:30~19:30
日9:00~18:00
祝9:00~13:00
列柱の上にマルクス・ヴェスパシアヌス・アグリッパが建てたと刻まれているが、実際にはアグリッパの造ったパンテオン(前27年)は80年に火災で焼失し、現在の物は118年にハドリアヌス帝が建て直したものである。
毎月、第一日曜のみ、ガイド付き見学で公開。無料。
10:00~18:00
建築設計
1650
現在下院が置かれているこの宮殿は、イノケンティウス10世の依頼でルドヴィージ家のパラッツォとして1650年ベルニーニよって設計されたが工事がほぼ完成した1655年に途中で中断し、これを教皇の裁判所として使うことを希望したイノケンティウス12世の意向を組み入れ、カルロ・ファンターナが1694年に完成させた。適度に押さえられた装飾とやや前方につきだした中央部分と後退する両翼、鐘楼をかねた最上部の気品ある曲線など、ベルニーニにとっては初めての一般建築であったにも関わらず、やはり天才の光ものがある。ファンターナは工事にあたり、バルコニーに若干の手を加えたほかは、この巨匠のプランを忠実に再現した。時計の上の鐘塔はフォンターナ。
この宮殿は1871年イタリア議会の本部になり、ガラスの天井に覆われていた広い中庭に、半円形の会議場が設けられた。その優雅な内部は、アールヌーボー様式(フロレアーレ様式)で装飾されている。世紀の変わり目、エルネスト・バージレによる1918年の作品である。