Palazzo della Cancelleria
カンチェッレリア宮

046-100教皇庁尚書院、内部見学不可。

1485年にラファエレ・リアリオ枢機卿が金に糸目をつけずに造らせたルネッサンス建築の代表である宮殿。レオ10世が、自分への陰謀を企てた枢機卿からこの館を没収し、以降、高位聖職者の住居となった。教皇の証書類を作成する尚書院も収容し、ヴァチカン直轄となり、治外法権を持つ。
ベルニーニが改築した部分は不明。死の直前の仕事
地球p137、ROMAp249

この中に、S.Lorenzo in Damaso がある。

Basilica di Sant’Andrea della Valle
サン・アンドレア・デッレ・ヴァッレ教会

045-1007:30~12:00、16:30~19:30

1591年にG.F.グリマルディとG.デッラ・ポルタによって設計された。その後カルロ・マデルノに引き継がれクーポラが付け加えられた。このクーポラはローマで2番目に高いものである。先のジェズ教会に影響を受けたバロック様式のファサードは、17世紀半ばにカルロ・ライナルディが完成したものだ。ファサードの右側の天使像がかけているのは、作者E.フェッラータが1体目を作り終えたとき、支払われた報酬が少なすぎたためとも、依頼主の教皇アレクサンデル2世が作品の出来にケチを付けたためともいわれている。
この教会はオペラ「トスカ」の舞台として有名。



045-101バルベリーニ礼拝堂 cappella barberini

045-104


045-105洗礼者ヨハネの像」San Giovanni Battista
父親の作 1615
入口より左側のバルベリーニ礼拝堂にはP.ベルニーニによる「洗礼者ヨハネの像」がある。


045-102左右の壁のキューピッド
右 父親  左 ベルニーニ
左右の壁のキューピットは右が父ピエトロ作、左がジャン・ロレンツォ作である。
右がジャン・ロレンツォ1618年作、左がベルニーニの工房のAndrea Bolgi作という説もあり。
いろんなものが一致しない。
どこの壁のキューピッドなのか?もう一度よく見たい!

 
045-008右の壁のキューピット045-007左の壁のキューピット

Pasquino
パスクィーノ

044-100パスクイーノ
この彫像は、ギリシャのヘレニズム期の「メネラオスとパトロクロス」像の部分で、パスクィーノ通りとサン・パンタレオ通りの角にある。ベルニーニが特に愛したこの像は長い間ローマの「物言う像」の中でも、一番有名でおしゃべりだった。

マダーマ・ルクツィア Madama Lucrezia、マルフォリオ Marforio、パスクイーノ Pasquino、聖職者ルイジ Luigi、バブイーノ Babuino、ファッキーノ Facchinoらが「物言う像 statue parlanti」と呼ばれ、かつては権力者や高位聖職者に対する風刺や罵倒を浴びせる対象となっていた。

Piazza Navona
ナヴォーナ広場

043-100

ベルニーニとボッロミーニというバロック芸術の巨匠が、才能を競っているようなこの広場は、ローマ屈指の魅力を誇る。ドミティアヌス帝(81~96年)が建設したローマ最初の競技場のトラック跡である。1645年に即位した教皇イノケンティウス10世は、出身のパンフィーリ家の栄誉のために広場を改修した。ウルバヌス8世がバルベリーニ家をたたえてクィリナーレの丘を改修した例に倣ったのである。パンフィーリ宮とサンタニューゼ・イン・アゴーネ教会を再建、グレゴリウス13世の噴水2基を改修し、大規模な「4大河の泉」を建設した。





043-1014大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi
1648-51
バロック時代の君侯が、ベルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス10世も4年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。
 ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、15世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッッォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自家の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッッォとサン・タニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は70代半ぱの老人であり、まもなくボルロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。噴水はすでにグレゴリウス13世の時代に広場の両端に2基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行に移すには、まず多量の水が必要であり、そのためにはトレヴィの泉から水を引いてこなけれぱならなかった。この仕事は、本来ならぱ「ナヴォナ広場の水道・噴水監督官」および「アックワ・ヴェルジネの建築家」の二つの称号をもつベルニーニに任されるべきであった。だがここでもベルニーニに代ってボルロミーニが登用され、彼は1644年から3年かかってこの工事を完成させている。一方ずっと以前から、アッピア旧街道のマクセンテイウス帝の円形競技場跡にオベリスクの断片があるのが知られていた。そこで、このオベリスクを広場に運んで噴水の装飾に用いてはどうかということになり、その噴水装飾のプランを決めるコンクールが開かれたが、今度もやはりボッロミーニの案が選ばれた。ベルニーニはこのコンクールに招待すらされなかったのである。しかしベルニーニにも味方がいた。伝記作者の伝えるところによれぱ、ルドヴィーシ家の当主で、パンフィーリ家の女宰相オリンピアのむすめ婿であった旧友ニコロ・ルドヴィーシが、ベルニーニにも噴水のモデルを作るよう勧め、オリンピアにとりなしたのである(ある資料によれぱ、ベルニーニはオリンピアの気を惹くよ099-005四大河の噴水のモデルう精巧な銀のモデルを作ったという)。オリンピアもこのモデルがいたく気に入ったので、ニコロ・ルドヴィーシはそれを教皇が食事の後に通る部屋に置いておいた。聖母の被昇天祭の日(8月15日)に祝祭行列を終えて食事に寄った教皇は、食事の後でモデルを見つけ、半時間もうっとりと眺めて、このデザインはベルニーニより他に考えられない。そしてこれはプリンチペ・ルドヴィーシのたくらみにちがいない。こうなっては、それを望まない者もいるようだが、ベルニーニを用いなけれぱなるまい。彼のプランを役立てまいと望む者は、これを見てはならないからた」と言った。そしてその日のうちにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の制作を命じたのである。こうしてボルロミーニは再び苦杯をなめ、ベルニーニはようやく第一線に復帰することとなった。
 ベルニーニがナヴォナ広場に制作した《四つの河の泉》は、二つの構想から成っている。一つは、オベリスクの台座を中が空洞になった岩山にするというアイディアであり、もう一つは、それを四大河川の寓意像で飾るという「着想」である。マクセンティウス帝の円形競技場跡で見つかったオベリスクは、6つの断片に分かれていたので、つないで修復する必要があったが、そのかわりそれを立てるのには他のオベリスクほどの困難はなかったと思われる。それでもこの噴水の制作が大へんな作業だったことは、当時の資料が「その非常な困難と苦労とは、実際の作業を見た者でなけれぱ分からないと思う」と伝えていることからも想像できる。しかし不思議なことに、現実にこの噴水を前にしてこうした困難を感じることはほとんどないといってよい。我々はむしろべルニーニがやすやすとこれを成したように思うであろう。それは、実際には非常に重いにもかかわらず、オベリスクの重さがほとんど感じられないことに起因している。そしてこれは、オベリスクという幾何学的で無機的な物体の台座に自然のままの岩山を導入し、しかもその岩山の中を空洞にするという、いかにもベルニーニらしい卓抜なアイディアの賜物である。「魔術師」ベルニーニならではのすぱらしい「舞台装置」だといえよう。

Disegno per la Fontana dei Quatro Fiumi 1650

Disegno per la Fontana dei Quatro Fiumi 1650

これに対して、四大河川の寓意像を噴水の装飾に用いるというアイディアは、ボルロミーニがすでに考えていたともいわれる。けれども1つだけ現存するボルロミーニのデッサンを見ると、彼が実際に立てたプランは、オベリスクの台座に簡単な浮彫の装飾を施して流出口から水を流出させるだけという、全く簡素なものだったことが分かる。そもそもこうした舞台美術的な感覚を必要とする仕事で、ベルニーニに太刀打ちできる者はない。ベルニーニはまずオベリスクの台座を岩山にし、噴水の四隅に4つの大陸を象徴する四大河川の寓意像を、ミケランジェロを思わせるダイナミックな肉体をもって表わした。このうちドナウはオベリスクを見上げ、ナイルは目をおおってその水源が神秘なことを示し、ガンジスは水の豊かさを表わすオールをもち、モール人のラプラタはかたわらにコインを散らしてその金銀の豊かさを示している。これらの主役に加えて、ベルニーニはシュロ(ナィル)やサボテン(ラプラタ)などの植物と、四大河川を表わす動物として馬(ドナウ)、ライオン(ナィル)、蛇(がンジス)、アルマディロ(ラプラタ)を添えている。馬は洞窟から顔をのぞかせ、ライオンは水を飲もうとかがみ込み、蛇は岩をはい、アルマディロは岩陰からひょうきんな顔をのぞかせて、見る者を楽しませてくれる。さらにベルニーニは、水を岩の間から噴き出させることによって、その戯れに変化をつけている。こうして出来上がった噴水は、全体がまるで生き物のようであり、自然とフアンタジーとの絶妙の融合体だということができる。その意昧でこの噴水は、ベルニーニの作品の中でも最も催物的な作品であり、彫刻作品というよりむしろ木や紙やストウッコで作られる祝祭の装飾装置に近いといえよう。祝祭の装飾はその時限りのものだったが、彫刻よりも一層自由なファンタジーの表現が可能である212-001四大河の噴水の習作ため、美術家にとってまたとない実験の場となった。ベルニーニの《四つの河の泉》はそうした実験から生まれたものであり、失われた祝祭の都市ローマをしのぱせる最高の遺品だといってよいであろう。ところでこの噴水のプランにおいて、ボルロミーニがベルニーニに太刀打ちできなかったことがもう一つある。それは17世紀の権力者や宗教者の心を捉える「着想」でもって作品を意昧づけるという才能である。この点でもベルニーニに並ぷ者はない。そもそもプロパガンダの具としての美術というバロック的概念は、ハスケルが指摘するとおり、ウルバヌス8世とベルニーニによって打ち立てられたといってよいからだ。その意味でベルニーニは優れた宮廷人だったわけである。だから最初のうち彼を冷遇していたイノケンテイウス10世も、胸襟を開いてからは、「騎士ベルニーニは偉大な君侯と交わるべく生まれた男だ」と常々口にしたと伝えられる。このように宮廷人としての感覚にたけていたベルニーニにとって、教皇やパンフィーリ家の人々が何を求めているかは自明のことだったはずである。その彼らを捉204-002四大河の噴水のモデルえたベルニーニの「着想」とは、四つの河、つまり四つの大陸に君臨する教会とパンフィーリ家を称讃するために、オベリスの頂にオリーヴの小枝を口にした鳩をすえるというものであった。周知のとおり鳩は聖霊の象徴だが、同時にそれはパンフィーリ家の紋章でもあったからである。シクストウス5世以来、オベリスクはしばしば広場の装飾に用いられてきたが、その頂にはいつも十字架がすえられ、オベリスク、すなわち異教に対する教会の勝利が表わされた。その伝統をベルニーニは破ったのである。
この噴水は着工から3年ほどで完成されたが、実際の制作は4体の寓意像をはじめとして、ほとんどすべて弟子たちの手で行われた。けれどもバルディヌッチによれぱ、馬とラ212-003四大河の噴水モデルイオンとシュロの木はベルニーニ自身が制作したという。それを裏づける資料はないが、それらは確かに生き生きとした作品である。また伝記作者は、この噴水に関して次のようなエピソードを伝えている。この噴水は1651年6月14日に除幕されたが、その少し前に教皇が50人ほどの供をつれて見に寄ったことがあった。教皇は半時間ほど噴水を見て楽しんだが、やはり水がないのをもの足りなく思060-003四大河の完成式典のベルニーニい、水はいつ出るのか、とベルニーニに尋ねる。するとベルニーニは、出来るだけ早くしたいと思います、と答えた。やむなく教皇は祝福を与えて立ち去るが、建物1つも進まないうちに水音が聞こえた。ベルニーニが合図して水門を開かせたのである。振り返る一行の目に映ったのは、「皆をうっとりとさせるスペクタクルだった」。教皇は「予期せぬ喜びで寿命が10年延びた」と手を打って喜び、すぐさまオリンピアに使いをやって100ドブレとり寄せ、それを噴水工事に当たった下級の職人たちに与えた、というのである。演劇とスペクタクルの17世紀に生き、芸術と現実との境を取り除こうとした、ベルニーニの面目躍如たるエピソードではないか!
 さて、こうして完成した《四つの河の泉》は非常な称讃を集め、たちまちローマの名所の1つになった。フランチェスコ・アルビッッィは当時アーヘンにいたファビオ・キジ(後のアレクサンデル7世)に、「まったくそれは世の奇跡だ…ベルニーニは1つは宗教的、他は世俗的な記憶さるべき2つの作品を作った。前者はサン・ピェトロの聖者の墓をおおうバルダッキーノを支える柱であり、世俗の作品とはこの噴水である。それは古代の最も美しい建造物をも凌駕している」と書き送っている。また今日では信じ難いことだが、1年ほどの間に、この噴水を称讃する書物がつづけて8冊も出版された。けれどもベルニーニ自身は、晩年ここを通り過ぎる時に馬車のとぱりを閉め、「こんな貧困な仕事をして何と恥ずべきことか」と洩らしたと伝えられる。
 しかし、この噴水を見物するためにナヴォナ広場に集まったローマの市民たちは、その出来映えに感嘆するとともに、それをうらめしく眺めたことであろう。なぜなら、この噴水建設のために教皇は新たな税金を課したからである。こうしたことを人々は嘆いた。小麦の価格は日に日に上がっているからだ……」とジルリは記し、ナヴォナ広場に運ぱれたオベリスクの石片には次のような落首が貼られていたと伝えている。「我々はオベリスクや噴水などは欲しない。我々はパンが欲しい。パン、パン、パン」。こうしたことからも推察できるように、ローマの社会・経済状況は諸要因が重なってますます悪化していたのである。
 ところで、こうして再起したベルニーニを、イノケンティウス10世は毎週のように招いて、数時間歓談するのを常とした、と伝記作者は伝えている。教皇は「四つの河の泉」に続いて、ナヴォナ広場のいわゆる「モーロの泉」の改造やサンタ・フランチェスカ・ロマーナの修復、そして実現は見なかったが、コンスタンティヌス帝の像の制作などをベルニーニに依頼した。    BERNINI p115

ウィルゴ水道から水を引き、トレヴィの泉から給水されている「4大河の泉」は、1651年ベルニーニの作である。イノケンティウス10世の希望は、全体の統一感を損ねることなく、横長の空間に中心となる建造物を与えることであった。そこで、チルコ・マッシモからオベリスクが運ばれた。そこにはヒエログラフでドミティアヌス帝が81年に権力の座に就いたという公的記録が刻まれている。ベルニーニは、オベリスクの上に十字架を立て、全世界を象徴する4大河像が座る岩の上にそびえ立たせた。これはキリスト教の勝利を意味する。オベリスクはまるで宙に浮かんでいるように見え、大変印象深い。沸き上がるような躍動感はベルニーニ芸術の本領である。岩を背にする4大河像は、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川及びナイル川を表す。4大河の間には、洞窟が口を開き、ライオンやカバなどが見え隠れしている。噴水にはオリーブの小枝をくわえた鳩のデザインの教皇の紋章があしらわれている。 人物像はベルニーニの設計により助手たちが制作。オベリスクはローマ時代の模刻である。この噴水の建造費はパンを含む様々な日用品への課税によって調達されたので、当然広汎な抗議を招いた。


299-010四大河の噴水第一デッサン四大河の噴水第一デッサン
オベリスクは対角に置かれている。
所蔵不明


299-009四大河の噴水第二のデッサン四大河の噴水第二のデッサン 390.
オベリスクが正面を向いて、河の神が教皇の紋章を支えている。




043-011ムーア人の噴水ムーア人の泉(モーロの泉) Fontana del Moro 
ほかの2つの噴水は、いずれもジャコモ・デラ・ポルタが1575年に水盤のみ作り、19世紀に完成した。
南側の「ムーア人の泉」では、ベルニーニのデザインをもとにG.A.マーリが、イルカと闘うエチオピア人像(「黒人」モーロ)を水盤の中心に建てる。(ベルニーニ自身がモーロ像を制作したという説もある)水盤を縁取るデッラ・ポルタの装飾(4体の「勝利」の像、仮面の彫刻)は複製で、オリジナルはボルゲーゼ公園内の湖の庭園に移されている。さらに外側の水受け盤はボッロミーニのデザインに基づいて、ベルニーニが造ったものである。043-012ムーア人の噴水
第一のデッサンでは、パンフィーリ家の紋章を掲げるデザイン。第二のデッサンでは、いるかが貝を支えるデザイン。
北側の「ネプチューンの泉」は1878年に完成した。
かつてはこの広場でラーゴを楽しみ、そのプロデュースもベルニーニがやった。
314-010ムーア人の噴水デッサン314-011ムーア人の噴水デッサン

314-0012ムーア人の噴水のデッサン335-001ムーア人の噴水デッサン


099-004ムーア人の噴水のデッサン316-001ムーア人の噴水の習作ブロンズ099-008ムーア人のブロンズ068-001ムーア人のテラコッタ

Basilica di Sant’Agostino in Campo Marzio
サンタ・アゴスティーノ教会

042-100
Piazza di Sant’Agostino Roma, Italia
+39 06 6880 1962
8:30~12:00、16:00~18:30
アンジェリーカ図書館は裏にある?

聖アウグスティヌスに捧げられたこの教会は、1483年に後期わずか4年でG.ダ・ピエトロサンタが完成したもので、ローマにおける初期ルネッサンス様式の教会建築の好例である。内部は18,19世紀の改修でルネッサンスの雰囲気はあまり残っていない。内部の側廊の天井だけが、青星でミネルヴァのよう。20の柱の「出産の聖母」ヤコポ・サンソヴィーノの像と「預言者イザヤ」ラファエッロのフレスコ画、18の礼拝堂の「巡礼の聖母」カラヴァッジョは有名。



042-004Sアゴスティーノ見取り図3.Chapel of St.Catherine
4.Chapel of St.Joseph
5.Chapel of St.Rita
6.Chapel of St.Peter
7.Chapel of St.the Crucifix
8.Chapel of St.Augustine
9.Chapel of St.Nicholas of Tolentine
10.Main aitar
11.Chapel of St.Monica
12.Chapel of St.William
13.Chapel of St.Thomas of Villanova
14.Chapel of St.John and St.Fecundus
15.Chapel of St.Apollonia
16.Chapel of St.Claire of Montefalco
17.Pius’ Chapel
18.Chapel of Our Lady of Loreto
19.Our Lady of Stone(or of Childbirth)

20.St.Anne and Isaiah the Profhet
21.Sacristy
22.Organ



042-10110.主祭壇
天使像のデザイン
トッリアーニの主祭壇は、ベルニーニの素描に基づく1628年制作の天使像2体と、ビザンティン様式の聖母子画を戴く。
042-005Sアゴスティーノ天使像042-003ピオ礼拝堂の祭壇の天使




17.ピオ礼拝堂
042-011アゴスティーノ6042-010アゴスティーノ5

042-008アゴスティーノ3042-106

Chiesa del Gesù – Il Gesù
イル・ジェズ教会

041-1006:00~12:30,16:00~19:00

16世紀の後半に、ファルネーゼ枢機卿がイエズス会の母教会として創建した。ヴィニョーラが設計し、ジャコモ・デッラ・ポルタが完成させた盛期ルネッサンス建築。内部はヴィニョーラのプランどおりに完成され、その後バロック時代に壁面や天井を装飾した。
ベルニーニが通った教会である。



041-002ジェズ教会見取り図

041-005ジェズ1ベルラルミーノ枢機卿の記念碑
Monument to Cardinal Roberto Bellarmine
モントーヤの肖像と並ぶ初期肖像の代表作
ベルニーニは40年間イエズス会の総本山ジェズに出かけて善き死(ヴォナ・モルテ)同信会が主催して毎週金曜日に行われた祈とうに参加し、また週に一度は聖体を拝受したのである。この善き死同信会というのは1648年に創設された信者の集まりだが、これが組織された背景には、1620年に出版されたイエズス会の総長を務め神学者としても名高かったベルラルミーノの著書「善く死する術について」の影響があるといわれる。
BERNINI p218


041-101041-004ロベルト・ベラマイン枢機卿の記念碑041-102




041-008ジェズ天井画2天井画「イエスの御名の勝利」 
1679 弟子のジョヴァンニ・ヴァティスタ・ガヴァッリの作

身廊の床に鏡をおいて見せている。041-003ジェズ聖堂の天井画

Basilica di Santa Maria sopra Minerva
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

040-1008:00~19:00

昔のミネルヴァ神殿の上に立てられたこの教会はドミニコ会に属し、1280年頃に再建された、ローマで例外的なゴシック建築である。シエナのカテリーナの遺骸が主祭壇下の石棺に安置されている。



http://www.basilicaminerva.it/visita/visita.htm
040-002SMソプラミネルバ図


3.Cappella del Fonte Battesimale
040-1013.ヴァージニア・プッチ-リドルフィの記念碑
Memorial bust of Virginia Pucci-Ridolfi
3.とは言い難い、入り口入ってすぐ右手の壁にある。

040-011SMミネルヴァ1040-009ヴァージニア・プッチ-リドルフィの記念碑




26.Monumento di Suor Maria Raggi
040-003マリア・ラッジの墓26.マリア・ラッジの墓
1643
左身廊奥から2番目の柱にマリア・ラッジの墓.彼はこの墓を設計するのに、通常の墓に用いられる建築的構造を拒否し、柱にまず垂れ幕をつけ、その幕の上でマリア・ラッジを表したメダイヨンをプットーが支え持つという趣向を用いた。マリア・ラッジは臨終の床で十字のしるしを求め、「主イエスよ、私の魂をお受けください」と言って、3度イエスの名を口にして静かに息を引き取ったと伝記は伝えている。ベルニーニはこの臨終の場面を表そうとしたと考えられ、メダイヨンに描かれた修道女は胸に手を当てて、最後の言葉を口にしているかのようだ。そしてあたかも彼女の幻視であるかのような十字架が現れ、それが垂れ幕を柱につなぎ止めている。この垂れ幕が風にたなびいているのは、死が人を吹き去ることを象徴したものと解釈されている。この作品も弟子の手で仕上げられたものだが、その水準は非情に高い。

Disegno per la memoria a Suor Maria Raggi 1645 :ヴァチカン美術館所蔵

Disegno per la memoria a Suor Maria Raggi 1645
:ヴァチカン美術館所蔵

Medaglione per la memoria di Suor Maria Raggi:ヴァチカン美術館所蔵

Medaglione per la memoria di Suor Maria Raggi:ヴァチカン美術館所蔵

ことに黒大理石の布に黄色の石を用いてふちをとり、メダイヨンとプットーには鍍金を施したブロンズを用いるという、ベルニーニ一流の技法の混用と色彩主義は驚くべき成功を収めている。そして石で表現されたたなびく布の質感は、素材を自分のアイディアに従わせようとする、彼の異常なまでの執念を感じさせる。小さいが独創性に富む、忘れがたい墓だ。この作品はつい最近まで、その銘文から1643年に制作されたと考えられてきたが、ごく最近の研究によって、1647年から53年の間の作であることが判明している。その超越的、神秘的「着想」と表現の点から見ても、このより遅い年代が妥当であろう。




30.Sepolcro di Giovanni Vigevano
040-006ヴィジェーヴァノの胸像30.ヴィジェーヴァノの胸像 Giovanni Vigevano

040-005ヴィジェーヴァノの胸像040-102




22-A)Sala dei Papi
040-10322-A.未完の母子像
Large unfinished statue (The Virgin and Child)
attributed to Gian Lorenzo Bernini
非公開




325-002ドメニコ・ピメンテル枢機卿の墓ドメニコ・ピメンテル枢機卿の墓
Progetto per la tomba del cardinale Domenico Pimentel
モーガン・ライブラリー所蔵




040-013SMミネルヴァ3どこの天井だったか、要確認

Piazza della Minerva
ミネルヴァ広場

039-100


039-001像のオベリスク象に乗ったオベリスク  
Obelisco della Minerva,particolare del basamento con I’elefante
B.C.6のオベリスクを象の上にのせた。
象の制作は、弟子のE.フェッラータ 1667年
「充実した教養を維持するためには、強固な意志が必要である」ということを意味する。
非情に小さいので「ミネルヴァのひよっこpulcin della Minerva」の愛称を持つ。
アレクサンデル7世の在位を記念するモニュメントとしてデザインした。
象がつけている長すぎる鞍おおいは、象の腹の下が空いていると安定感が損なわれると、ある修道士が主張したために追加されたものである。

アレクサンデル7世は、ベルニーニのフランスからの帰りを待ちかねたように、帰国すると早々に一つの仕事を依頼した。それは、少し前にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァの修道院で発見された小さなオベリスクを、同教会前の広場に装飾として立てるという仕事である。このオベリスクの装飾についてはさまざまなプランか検討されたことが、現存するいくつかのデッサンから知られる。その中には、ヘラクレスがオベリスクを斜めに支えもつというユニークなプランもあったが、それは机上のプランのままで終わり、結局今日見るような、象の背中にオベリスクをのせるという形式が採用された。この形式は、先に述べた1651年のスペイン皇女誕生を祝う花火の趣向を思い出させるが、実はそれより先の1632年に、バルベリーニ家の庭園にやはり装飾として立てるオベリスクのプランを練った折に、すでにこのアイディアを得ていたのだ。だがこの計画はなぜか実行されず、その後スペイン皇女の花火を経て、ここで復活したわけである。象とオベリスクというこの変わった組合わせは、もともと1499年に出版されたフランチェスコ・コロンナの『ポリフィルスの夢』に由来すると考えられるので、これを熟知していた教皇自身の示唆によって生まれたアイディアではないかといわれる。が、いうまでもなく、それが具体化したのは本物の象が刺激となったからであろう。すでに述べたように、1630年には象が100年ぷりにローマにもたらされたし、また1655年にも牝の象が人々の好奇心を満足させている。そしてこうした出来事からベルニーニが強い印象を受けたことは、パリへの旅を象の行列にたとえていることにもうかがえよう。この作品は例によって弟丁たちの手で完成されたために、出来映えは幾分生彩を欠くが、それでも小さなオベリスクと象の姿には何ともいえない面白味がある。だがここで象のモティーフが用いられているのは、先に述べた経緯や形の面白さのためたけではない。そのことは、アレクサンデル7世自身の手に成る銘文が物語っている。この教養あふれる銘文は、まず「古代のオベリスク、エジプトのパラス(イシス)の記念碑、それは地から発見されて、かつてミネルヴァに捧げられ、今日神の母に献ぜられる聖堂の広場に立てられたが、1667年にアレクサンデル7世は、それを神の英智に捧げる」とオベリスクとこの場所の由来を説き、次にその意味を説いて、「おお、ここに最も強い動物に支えられた英智あるエジプトの象形文字を見る汝よ、その訓戒を解したまえ。確固たる英智を支えるには頑強な心が必要だという」と述べているのである。つまり象は「頑強な心」のシンボルとして選ぱれたのだ。

Obelisco della Minerva,particolare del basamento con I’elefante ヴァチカン美術館所蔵

Obelisco della Minerva,particolare del basamento con I’elefante
ヴァチカン美術館所蔵

このオベリスクを背中にのせたエキゾチックな象の彫刻は、ベルニーニの無尽蔵の想像力から生まれた典型的な作品だ。オベリスクはこの教会の修道院の庭から発掘されたので、修道士たちは自分たちの広場に建てようとした。象がつけている長すぎる鞍おおいは、象の腹の下が空いていると安定感が損なわれるとある修道士が主張したために追加されたものである。しかし、ベルニーニの想像力のほうが正しかったであろうことは、ナヴォーナ広場の4大河の噴水の空間の利用の仕方を見れば明らかである。古代から知性と信心の象徴だったこの象は、キリスト教徒がその上に真の知恵を作り上げるべき徳の象徴として選ばれたものである。                               白ローマp108

こうしたユーモアは他の作品にも見られる。例えばサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会の前にある象の像である。この象は背中にオベリスクを背負っているが、顔を教会とは反対側に向け、長い鼻をねじっている。つまり依頼主に尻を向けたポーズをとっているのだ。このポーズにサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会の修道士たちは怒ったといわれているが、ベルニーニは知らん顔をしていたらしい。
 ベルニーニには心の広さと余裕が感じられるところがある。私はそれまでは彼を教皇に仕えた体制的な芸術家というイメージで見ていた。
 ローマに住んで、バロックの芸術に魅せられたが、私のお気に入りはカラヴアツジョであり、ボッロミーニだった。二人とも、劇的な生涯を送り、作品もそれに輪をかけて劇的で、ぎりぎりのところまでものごとを極めようとする真撃さに満ちていて、いかにもバロックを代表する芸術家と思えた。
一方ベルニーニはこの二人に比べるととらえどころがなかった。サン・ピエトロ教会のバルダッキーノを見ると、その壮大さと、カトリック教を讃える尊大さが目につき、あまり好きにはなれなかった。だがサンタ・マリーア・デッラ・ヴィツトリア教会の「聖女テレーザ・ダヴィラの法悦」を見れば、その繊細さと、魂を天上にいざなうような表現に圧倒され、ベルニーニに魅了されざるを得なかった。
ローマの泉の物語  竹山博英

Pantheon
パンテオン

038-1008:30~19:30
日9:00~18:00
祝9:00~13:00

列柱の上にマルクス・ヴェスパシアヌス・アグリッパが建てたと刻まれているが、実際にはアグリッパの造ったパンテオン(前27年)は80年に火災で焼失し、現在の物は118年にハドリアヌス帝が建て直したものである。



パンテオンの修復案鐘楼

パンテオンの修復案鐘楼

パンテオンの鐘楼建築
17世紀にベルニーニがパンテオンのペディメントに乗せた二つの鐘塔を、パスクィーノは「ベルニーニのロバの耳」と呼んだ。1883年鐘塔は撤去された。


038-002パンテオンの鐘楼038-003パンテオンの鐘楼




パンテオンの修復案クーポラ

パンテオンの修復案クーポラ

クーポラの装飾の構想案
1667頃
ベルニーニは教皇の命を受けて1657年以降、パンテオンに付加された後世の遣物を除去し、同時に広場を整備するプランに従事していた。このプランは締局実現されずに終るが、彼がいかにパンテオンを崇拝していたかは、パリで教皇の大使に語った次の言葉によく現われている。「最も完壁な形は円や方形や六角形、そして八角形などである。サン・ピエトロのドームは確かに美しく、古代の作品にも見出せないものである。しかしサン・ピェトロには100の欠陥があるが、ロトンダ(パンテオン、ロトンダとは円形の建物の意)にはそれがまったくない。ベルニーニはここで円と正多角形を特別視するルネッサンス的美学を繰り返し、それによって彼が3つの教会建設に集中式プランを用いた理由を間接的に説明しているわけである。彼は共和政時代のパンテオンはより英雄的な簡素さをもっていたと信じていた、といわれる。新古典主義時代になるとパンテオンを模した教会が各地に建てられるようになるが、その前例をバロックの帝王ベルニーニに見出すのは、意外の念を禁じえないであろう。しかも彼は、おそらく実際のパンテオンについて彼が立てたプランに基づいて、教会の周囲をも然るべく整えて、その偉大さを一層完全な姿で見せようとしていたのである。
BERNINI p142

Palazzo Montecitorio
モンテチトーリオ宮

037-100毎月、第一日曜のみ、ガイド付き見学で公開。無料。
10:00~18:00


037-102建築設計
1650
現在下院が置かれているこの宮殿は、イノケンティウス10世の依頼でルドヴィージ家のパラッツォとして1650年ベルニーニよって設計されたが工事がほぼ完成した1655年に途中で中断し、これを教皇の裁判所として使うことを希望したイノケンティウス12世の意向を組み入れ、カルロ・ファンターナが1694年に完成させた。適度に押さえられた装飾とやや前方につきだした中央部分と後退する両翼、鐘楼をかねた最上部の気品ある曲線など、ベルニーニにとっては初めての一般建築であったにも関わらず、やはり天才の光ものがある。ファンターナは工事にあたり、バルコニーに若干の手を加えたほかは、この巨匠のプランを忠実に再現した。時計の上の鐘塔はフォンターナ。
この宮殿は1871年イタリア議会の本部になり、ガラスの天井に覆われていた広い中庭に、半円形の会議場が設けられた。その優雅な内部は、アールヌーボー様式(フロレアーレ様式)で装飾されている。世紀の変わり目、エルネスト・バージレによる1918年の作品である。

ベルニーニは、銀製の館の設計模型をルドヴィージ公の妻に贈って、この仕事をえた。


037-002モンテチトリオ宮037-101037-104