シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、17世紀の半ばにはほぼ今日みられるようなコレクションを完成させていたが、ベルニーニやカラヴァッジョなど、当時活躍していた作家の作品はともかく、ラファエロ、ティツィアーのなどの16世紀の大作家の作品は、すでに手に入れることは難しく、しばしば盗賊まがいの不正な手段でこれらの作品を集めさせたといわれている。18世紀後半にはM.ボルゲーゼ公(Marcantonio Boughese)が館の内部を改装して収集品を展示したが、その後ナポレオンの妹を妻にしたC.ボルゲーゼ公(Camillo Borghese)はパリのルーヴル美術館にコレクションの一部を贈ることを余儀なくされ、そのいくつかはそのままフランスに残った。1902年、イタリア政府はボルゲーゼ家から館とコレクションを買い上げ、一般に公開した。
公園内のP.Canonica通りあたりにムーア人の噴水のオリジナルがある。19世紀にオリジナルはここに置かれ、ナヴォーナ広場にはコピーが置かれた。
⑳のFontana dei Mascheroni e dei Tritoni あたりがそうか?要、確認。
1F彫刻館-2
「ダヴィデ」 Davide
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1623年8月から24年にかけて一気に仕上げた。
《アポロとダフネ》の制作を一時中断して、ベルニーニが1613年の8月から、《ダヴィデ》を一気に仕上げたことはすでに述べた。「この作品(《ダヴィデ》)において、彼は彼白身をもはるかに凌駕し、わずか7カ月の間にこれを完成した。というのは、このように若いうちから、彼が後によく語ったように、彼は大理石をむさぼり、決して無駄なのみを使わなかったからである」とバルディヌッチは記している。このバルディヌッチの言葉は少しも誇張とは響くまい。なぜなら、ベルニーニの仕事の量、その早さ、そして作品に見られる集中感は、彼が強靱な意志と体力の持主であり、そしていかに並外れた集中力に恵まれていたかを痛感させるからだ。バルデイヌッチが他の箇所で伝えるところによれぱ、建築の仕事がない限り、彼は7時間も統けて大理石彫刻にとり組んだ。これには若い助手もついてゆけず、ある者が仕事を止めさせようとしたことがあった。するとベルニーニは、「このままにしておいてくれ。私は虜になっているのだから」と答えたという。彼はいつも、あたかも恍惚の状態にあるかのように仕事をした。その集中力はあまりに強かったので、足場の上では助手が付き添って、落ちないように見張っていなけれぱならなかった。また、しぱしぱ枢機卿や諸君主が彼の仕事場を見にやってきたが、その仕事ぶりに息をのみ、しぱらく見物してから、挨拶もせずに立ち去ることが多かったという。それにしても、この規模の作品の制作に7カ月というのは驚くべき早さである。しかし、それを事実だと信じさせる、若々しいヴァイタリティがこの作品には感じられる。
いうまでもなく、ダヴィデは旧約伝の英雄である。彼がペリシテ人を破るくだりは『サムエル記』(第1、17)にある。
ダヴィデ像は多くの彫刻家によって繰り返し作られてきたが、なかでも思い浮かぶのは、何といってもドナテルロとミケランジェロの《ダヴィデ》である。このうちドナテルロの《ダヴィデ》は、剣を奪ってゴリアテの首をはねた勝利のダヴィデを、美少年として表わしたものである。これに対してミケランジェロは、ドナテルロに見るようなダヴィデの一般的タイプを全く顧みず、戦いに臨む直前のダヴィデを、精神的緊張を全身にみなぎらせた青年として作り上げた。どちらもすぱらしい作品だが、ミケランジェロの《ダヴィデ》は横想のユニークさにおいて際立っている。だがベルニーニの《ダヴィデ》も、これに劣らず独創的だ。彼は単なるダヴィデの像ではなく、ダヴィデとゴリアテの物語そのものを造形化しようとしたのだ。この物語のクライマックスが、ダヴィデが石を放ってゴリアテを倒す場面にあることは、誰の目にも明らかである。したがって、ダヴィデが渾身の力を込めて石を投げる瞬間を、ベルニーニは捉えたのである。
このベルニーニの《ダヴィデ》とミケランジェロのそれとの比較は、いろいろな示唆を与えてくれる。まず気づくのは、ミケランジェロの構想が非常に観念的なのに比して、ベルニーニは平易な図解を目指している。トルナイによれぱ、ミケランジェロは共和国のために戦う市民の二つの美徳、すなわち「剛毅」と「忿怒」の化身として、ヘラクレスになぞらえて《ダヴィデ》を制作した。つまり彼の時代には、この作品は政治的意義を有していたのである。だが今日、何も知らずにこの彫刻を見て、それがダヴィデの像だと分かる人が幾人いるたろうか。この作品があまりに有名なために、我々はそれがダヴィデであることに疑間を抱かないだけではなかろうか。というのは、この作品はミケランジェロがダヴィデとはこのようなものだと考えたダヴィデ以外の何物でもないからだ。ミケランジェロは物語の中核には全く触れず、物語をうかがわせる事物を石の入った袋だけに限定し、それさえ正面からは見えなくしているのである。一方ベルニーニは、ダヴィデのドラマを万人に分かるように視覚化しようとした。彼の主眼は物語の決定的瞬間におけるダヴィデを表わすことにあったが、聖書の記事に従ってダヴィデを説明することも忘れてはいない。ダヴィデは石を入れた「羊飼が使う袋、投石袋」を肩にかけ、足もとには、サウルが着せてくれたが彼が嫌って脱ぎ捨てた鎧兜が置かれている。さらにその下からは、鷲をかたどった竪琴が顔をのぞかせているのである(鷲はシピォーネ・ボルゲーゼの紋章である。このことからドノーフリオは、ダヴィデはシピオーネの政敵ルドヴィーコ・ルドヴィーシを倒そうとしているのだ、と解釈した)。こうした事実は、ルネッサンスとバロックにおける美術と美術家のあり方の違いを考えさせる。ルネッサンスにおいては、新プラトン主義の風潮の中で、美術はそれ自身存在意義をもつと考えられ、ある程度自己完結的に存在しえた。一方バロック期になると、美術は何らかの社会的役割を果すよう要求されるようになる。つまり美術はあらゆる種類の宣伝に用いられ、そのためレトリックを駆使して、できるだけ多くの人々の心を動かすよう工夫されるようになるのである。それと同時に、新プラトン主義的な天才の概念やその神秘に対する称讃は失われて、美術家は再び地上に帰る。この二つの時代の美術と美術家のあり方は、ミケランジェロとベル二ー二に象徴的な姿で現われているといえよう。こうした時代の違いは、同時に造形にも現われている。《ダヴィデ》においてミケランジェロは不朽の造形、モニュメンタルな肉体を迫求したが、ベルニーニはあくまで瞬間の動きと緊張を捉えようとしている。崖から落してもびくともしない彫刻が望ましい、という有名な言葉からも分かるように、ミケランジェロは堅牢な人物像を至上とした。また彼が「削りとる」彫刻を重んじて、「付け加える」塑像をひどく軽蔑したことはよく知られている。これに対してベルニーニは、《ダヴィデ》において、《プロセルピナの略奪》や《アポロとダフネ》ほどではないにしても、ミケランジェロがさげすんたブロンズ彫刻の表現力を大理石で達成しようとしたように思われる。このように、二人の巨匠は大理石彫刻を天職と考えた点では共通しているが、その大理石から創り出そうとした造形は全く異なるものだったのである。しかしその造形を生み出すに当って、二人とも古代彫刻の研究から出発していることも忘れるわけにはゆかない。ミケランジェロの《ダヴィデ》が際立って「古典的」であることはしばしば指摘される通りだが、一方ベルニーニの方も、ルーヴル美術館にある《ボルゲーゼ・ガリタトール》などから霊感をえていると考えられる。どちらの場合も、その造形の基本は古代彫刻の研究にあるのである。ここにも、先に触れたイタリア美術史の根本間題が姿を現わしている。
ベルニーニの《ダヴィデ》について、どうしても触れておかなけれぱならないことが二つ残っている。一つは、この作品も他のボルゲーゼの彫刻と同様に壁につけて置かれていた、つまり基本的視点がはっきり設定されていたということてある。そしてもう一つは、その基本的視点に立つ観者を、彫刻の生み出す空間に誘い込もうとベルニーニが意図していることである。ミケランジェロの《ダヴィデ》にも、ダヴィデが鋭く見つめる彼方にゴリアテがいる、と感じさせる一種の心理的働きかけがあるといえる。たが彫刻自体の強い完結性のために、それはあまり重要には感じられない。これに対してベルニーニの《ダヴィデ》では、見る者に物語を感じさせる、より現実的な配慮がなされている。つまり、このダヴィデは明らかにゴリアテに向って石を投げようとしているのであり、それを見る我々は背後にその相手の存在を想定せざるをえないのた。こうして我々は知らず知らず物語の空間に引き込まれてゆくわけであるが、このように見る者をいわぱ物語の証人として、彫刻の生み出す空間に誘い込もうとする意図は、これまで述べた作品にもみられた。けれどもこの《ダヴィデ》では、それが一層具体的な形で構想されているのである。こうした見る者と作品、現実の空間とフイクションの空間との間にある心理的障壁を取り除こうとする発想は、ベルニーニの造形世界を特徴づける重要な要素である。ベルニーニの、そしてバロックの美術を鑑賞する者は、しばしば現実の空間と美術の空間の境を見失う。それはミケランジェロの、そしてルネッサンスの世界では決して体験でさない、バロックの魔術の世界である。
最後に伝記作者が伝える興味深いエピソードをそえて、《ダヴィデ》のもとを去ることにしよう。ベルニーニはダヴィデの顔を彼自身をモデルに制作していたが、ある日アトリエを訪れたマッフェオ・バルベリー二(後のウルバヌス8世)が、ベルニーニのために鏡をもってやったという逸話である。このエピソードは、ベルニーニ自身もパリでシャントルーに語っている。この《ダヴィデ》の顔が一種の自刻像であることは、同じ時期の《自画像》からほぽ確認することができる。
ダヴィデの表情に、呪われた魂を参考にしている。
1F彫刻館-3
「アポロとダフネ」Apollo e Dafne
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1622年8月から25年。
オウィディウスの「変身物語」に基づき、アポロンの抱擁をさけようとしたニンフ、ダフネが月桂樹に変身する瞬間が主題。物語の劇的な頂点を絵画的にとらえ、大理石をロウのように自在に扱い、しなやかな肉体の感触、激しい運動感を写実的で幻想的な美しさで表現している。台座には出典からの引用と教皇ウルバヌス8世の銘がある。
《プロセルピナの略奪》に続いて、1622年8月にベルニーニは《アポロとダフネ》の制作を姶め、翌年の2月にはまだ制作を続けていたことが知られている。だが同じ年の夏には、もう一つの作品《ダヴィデ》に着手し、翌年の春までにこれを完成する。その後再び《アポロとダフネ》にかかるが、完全に什事を終えたのはようやく1625年になってからであった。しかし《ダヴィデ》を始めた時には、この作品はすでにかなり出来上がっていたと想像される。そこで《アポロとダフネ》を先に考察しようと思う。
この作品もオヴィディウスの『転身物語』に基づいている。恋心を生む黄金の矢を射られたアポロが、恋を嫌う鉛の矢を受けたダフネを追い求めるという、有名な月桂樹の転身物語の一節である。
ダフネがこの切なる祈りを言いおわるやいなや、はげしい硬直が手足をおそった。と、見る見るうちに、やわらかい胸は、うすい樹皮につつまれ、髪の毛は、木の葉にかわり、腕は、小枝となり、ついいままであれほど早く走っていた足は、強靱な根となって地面に固着し、顔は、梢におおわれた。
(田中・前田訳、第1巻537-550)
ベルニーニはこのオヴィディウスの詩句をものの見事に視覚化した。バルディヌッチは「それは全く想像を絶する作品であり、美術を熟知した者の眼にも、また全くの素人の眼にも、常に芸術の奇跡と映ったし、今後も映るであろうような作品である」と述べ、この作品が完成するやいなや、「奇跡が起ったかのようにローマ中の人がそれを見に行った」、この作品によってベルニーニは「神童」という名声を得た、と伝えている。実際この《アポロとダフネ》は、ベルニーニの彫刻作品の中でもサンタ・マリア・デルラ・ヴィットーリアの《聖女テレサの法悦》と並んで特に有名で、新古典主義の風潮の中で彼の評価が地に落ちた時代にも、なお人々の称讃を集め続けたのである。
この作品でベルニーニは、《プロセルピナの略奪》で試みた新しい可能性を一気に極限にまで押し進めたといえる。物語のクライマックスの瞬間を捉え、あたかもスナップショットのようにそれを造形化し、観る者が絵画を見るように一目で全体を理解できるように工夫する。そのために大埋石をロウの如くに刻んで、躍動する動きを捉え、同時にレアリティと美しさを追求する。ベルニーニが意図したのはこのような彫刻であった。それは、いわぱ三次元の絵画であり、長く人々の心を捉えてきた「絵画は詩のごとく」という美学を彫刻で実践しようとしたのだといえよう。これを実現したベルニーニの「技巧」はほとんど彫刻の限界を越えているように見えるほどであり、ベルニーニ自身もこの先このような華麗な「技巧」を披露することはない。早熟の天才ベルニーニここに極まれり、というべきであろう。
後年パリでこの作品に言及したベルニーニは、ダフネの髪に「軽さ」が表現されている点を自慢しているが、「軽さ」は髪だけでなく、ダフネの体全体を支配している。そのために彼女は空中に浮遊しているような印象を与える。だがかつては、現在我々が見るよりも一層この印象が強かったと思われる。というのは、近代になって安定をよくするために岩の一部が補強されたからだ。原作の状態では、視覚的不安定さが動感と浮遊感をより一層喚起したことであろう。この独特の動感と浮遊感、そして物語の幻想的性格のために、この作品全体がレアリティを越えてファンタジーの世界に入ってしまったように感じる人は少なくあるまい。それはバレーを連想させ、アール・ヌーヴォーの遠い祖先のようにさえ見える。ことにダフネの右手の先の小枝が髪に連なる辺りを見上げると、大理石がまるで粘り気のある物質のように感じられ、アール・ヌーヴォーの作品を見ているような錯覚に襲われる。優れた美術家はしぱしぱいろいろな造形の可能性を先どりするのである。
こうした《アポロとダフネ》のファンタスティックな雰囲気は、レアリティの世界を越えてゆこうとする、ベルニーニの想像力の志向性をよく表わしている。こののち宗教作品を中心に制作するようになると、この志向性は超越的エクスタシー表現の探求という形で現われることになる。しかしながら、《アポロとダフネ》のこうした雰囲気は、この作品の他の重要な側面をおおい隠してしまいがちだ。
つまりファンタステイックな印象が強いために、この作品でもベルニーニは古代美術の研究から出発した、という事実を、ともすれぱ見過してしまうのである。先には触れなかったが、《プロセルピナの略奪》においても、プルトは1620年に発見されてシピオーネ・ボルゲーゼが所有していたトルソが、プロセルピナは《ニオベ》が、それぞれ範となっているといわれる。この《アポロとダフネ》では、アポロとヴァチカンの有名な《ベルヴェデーレのアポロ》との類似がとりわけ印象的である。実際、両者の頭部の比較はショッキングという他ない。《ベルヴェデーレのアポロ》の「アカデミックな」イメージとこの作品の詩的印象があまりにかけ離れているため、両者の歴然とした類似が意外の念を引き起こすからた。実際それは、今まで見てきた作品の一部だとは信しられないほどの類似である。この比較は、若いベルニーニがいかに古代美術から学んだか、そしてその成果をいかに自在に応用したかを示しているといえよう。この後、より「バロック的」作品を制作するようになっても、ベルニーニはしぱしぱ古代彫刻から出発している。たがその結果生まれた作品は、その事実を全く忘れさせてしまうのである。このような古代美術とベルニーニとの関係は、「古典主義」と「バロック」という言葉を、対概念を表わす用語として便宜的に用いる我々をしぱしぱ混乱に陥れる。古代美術との関係、広い意味での古典主義の間題は広くイタリア美術全般にわたる根本的間題の一つである。ベルニーニの芸術を考えてゆくためにも、われわれは幾度かこの間題に立ち帰らなけれぱならないであろう。
ベルニーニの次のパトロンになるマッファオ・バルベリーニ(ウルバヌス8世)が捧げた詩は、パリでも話題になるほどであった。今日も台座を飾るその詩は次のようなものである。
つかの間の美形を追い求める恋人は
苦い果実をむしり、手のひらを葉で充たす
少々危なっかしいところのある驚嘆すべき作品に、道徳的解釈を加えて免罪符を与えた、というところであろう。
この像も目に鉛筆でシャドーあり
1F彫刻館-4

シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1621年から22年。
マニエリスム彫刻が螺旋状の運動表現と多視点を特徴とするのに対し、正面からの単一視点で動きの瞬間を写真のようにとらえている。
シピオーネ・ボルゲーゼの注文による本格的彫刻作品の第一作は《アエネアス》だったが、ベルニーニはこれに続けて三つの作品を制作した。ボルゲーゼ美術館の至宝《プロセルピナの略奪》、《ダヴィデ》、そして《アポロとダフネ》がそれである。
三作の最初は《プロセルピナの略奪》で、《ネプテューンとトリトン》に続いて1621年から22年にかけて制作されたと考えられる。キューピットに愛の矢を射られたプルトがプロセルピナを誘拐するという主題は、オヴィディウスの『転身物語』に基づいている。
確かに、この《プロセルピナの略奪》は正面から見るように作られている。マニエリスム彫刻の典型ともいうべきジャンボローニャの《サビニ女の略奪》と比較すれぱ、このことはすぐに納得がゆく。ジャンボローニャの作品はとめどなく回転する視点を有しており、我々はどうしてもその周りを回らざるをえない。一方、ベルニーニの方は、誰もが正面からカメラを向ける作品、つまり絵を見るように一つの視点から鑑賞することができる作品なのである。ベルニーニは明らかにマニエリスム彫刻の視点の多元性をきらったのであり、その結果ルネッサンスの単一的視点の彫刻に戻ることになったのである。しかしもはや1ブロックの大理石の中で、いわぱ求心的に造形を探求するルネッサンスの彫刻法に満足できるはずがない。そこでベルニーニは、マニエリスムの彫刻家が達成した造形の多様性と構想の自由を、ルネッサンスの単一的視点をもった彫刻の中で達成しようとしたと見ることができよう。このように「ルネッサンスの単一的視点とマニエリストが達成した自由を結びつけることによって、ベルニーニは新しいバロックの彫刻概念の礎を築いた」(ウィットコウアー)のである。噴水やサン・タンジェロ橋を飾る彫刻のように、いろいろな方向から見られるべく作られた作品を除いて、この後のベルニーニの彫刻作品はすべて単一的視点を設定して制作されている。この《プロセルピナの略奪》は現在美術館では室の中央に、いわゆる「独立した」彫刻として展示されているが、元来は壁につけて飾られていたことが知られている。そのことからも、この彫刻に単一的視点が設定されていたことは明らかであろう(ただしこの彫刻は、1623年7月にシピオーネ・ボルゲーゼからルドヴィーコ・ルドヴィーシに贈られ、1909年に国家が買い上げるまでルドヴィーシ家の別荘にあった)。この単一的視点と並んで次に注目されるのは、ベルニーニがこの作品において、物語のクライマックスの瞬間を捉えようとしていることである。その意味で、この彫刻には絵画を、さらにいえぱ写真を連想させるところがある。つまり、この作品に認められる運動感は、ジャンボローニャの《サビニ女の略奪》のようなフォルム自体がもっている運動感とは全く異なり、いわぱスナップ・ショットのように瞬間を固定したことによって生じたものだといえるのである。ベルニーニ自身気づいていたように、こうした絵画的表現を彫刻によって達成しようというのは、まったくもって大胆な試みである。だがそれによって彼は、先に述べたような大理石彫刻の新しいタイプ、バロックのタイプを創造しえたのである。それにしても、彫刻において瞬間を捉えるというこうした大胆な目論見を非常なレアリティをもって実現した、彼の彫刻技術は信し難いほどだ。大理石を刻む技の冴えは、この作品のあらゆる細部に現われている。たとえぱ、プルトの指がくい込む辺りのプロセルピナの肌の表現を見られたい。 そこには見る者を恍惚とさせる「技巧」がある。石でありながらとても石とは思われない、この真に迫る肉体表現は、ミケランジェロの人物は解剖学的にすぱらしいだけで肉体を感じさせない、という後年のベルニーニの言葉を想い起こさせる。彼はパリでシャントルーに次のように語っている。「彼(ミケランジェロ)は偉大な彫刻家であり、また偉大な画家たが、ぞれ以上に神のごとき建築家である。というのは、建築はすべて素描から成るからだ。だが彫刻や絵画においては、彼は肉体を表現する才能をもっておらず、彼の人物は解剖学的に美しく、りっぱなだけだ」。
これもずっと後、ベルニーニ晩年のことであるが、彼の《ルイ十四世の騎馬像》を見たある人が、王の衣や馬のたてがみに動きがありすぎて古代の先例から離れてしまっているのではないか、と批判したことがあった。これに対して、ベルニーニは次のように答えたとドメニコは伝えている。「あなたが欠点だとおっしゃったことは、実は私の芸術の最高の業績なのです。このためにこそ、私は大理石をあたかもロウであるかのように扱うという困難を克服してきたのであり、それによってある程度絵画と彫刻とを結びつけてきたのです。古代人たちがこれを成しとげなかった理由は、多分大理石を自分の意志に従わせるという勇気が彼らに欠けていたからでしょう」。この《プロセルピナの略奪》には、絵画と彫刻とを結びつけようとする発想と、そのために大理石をロウのように意のままに刻もうとする意志とがすでにはっきりと認められる。このことと、ベルニーニにとってこの作品が本格的スケールの彫刻としては第三作目であることを考え合わせると、我々は最初期の彼の作品を見た時と同じような驚きに襲われる。新しい発想、それを試みる果敢さ、そしてそれを実現する技術、ベルニーニはこれらを生来の特質として備えていたように見えるからである。

1662 ブロンズ ほとんど真っ黒
311ヴィクトリア&アルバートのものと似ているが、V&Aのものは白大理石である。
どこにあったものか?
1F彫刻館-5

ヘルマプロディートスはしばしばギリシャ彫刻に霊感を与え、ヘレニズム時代に製作(複製)されたうちの数体が保存されている。中でも最も有名な作品は、別名『眠れるヘルマプロディートス』として名高い『ボルゲーゼのヘルマプロディートス』であるが、そのほかにローマ国立博物館やルーヴル美術館、リール美術館などにもレプリカが所蔵されている。
ルーブルの見解
1608年ローマのディオクレティアヌスの浴場付近にて発見されたこの彫刻は、17世紀から18世紀のボルゲーゼ・コレクションのなかでも最も感銘を与えた傑作のうちに数えられる。
1619年スキピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、バロック時代のイタリア人彫刻家ベルニーニに古代の彫像を寝かせるためのマットレスの制作を依頼した。同じ年にダヴィッド・ラリクは、ヘルマフロディトス自体の修復を手がけた。この作品は、1807年ナポレオンが彼の義理の兄弟に当たる、カミロ・ボルゲーゼ公から一連のボルゲーゼ・コレクションを購入した後、ルーヴル美術館に収集された。
ルーヴル美術館のヘルマフロディトスは、最も有名であったが、他の3体の古代の複製彫刻がこの作品と比較される事もあった。
①ルーヴル美術館に保管してあるヴェッレトリのヘルマフロディトス、
②フィレンツェ、ウフィツィ美術館のもの、
そして未だに③ローマのボルゲーゼのヴィラに保管してあるもの(この作品)がそれに当たる。
1F彫刻館-6
「トロイアを逃れるアエネス、アンキセス&アスカニウス」
Enea con Anchise ed Ascanio .
シピオーネ・ボルゲーゼの最初の注文。1619年完成。
ベルニー二が十代の研究成果を本格的彫刻作品で試す機会は、シピオーネ・ボルゲーゼによって与えられた。今日もボルゲーゼ美術館に残る《トロイアを逃れるアエネアス、アンキセス、そしてアスカニウス》がそれである。この作品に関しては、1619年10月付の支払いの記録が発見されているので、この時までに完成されていたことが分かる。おそらく前年から制作されたのであろう。主題は、ヴェルギリウスの『アエネイス』にある、アエネアスが老父アンキセスを背に負い、少年アスカニウスを連れて炎上するトロイ了を逃れる、という有名名なエピソードである。
かくいいおわるや既にもう、はげしさ増しつつ都じゅう、
狂う火の音耳に人り、熱渦を巻いて身にせまる。
「ですから父上、さあ早く、わたしの肩に乗られるよう。
私は背負ってさしあげる。なに、この重さは大丈夫。
事のなり行きどうなろと、危険も一つで共通で、
救いもふたりは一緒です。わたしは幼いユールス(アスカニウス)を、
連れてゆきます、そのあとを、ずうっと妻は来るように。
…父上あなたは聖物と、
家郷の守神を持たれたい。わたしは何分あのように、
ひどく戦い人を斬り、けがれた体で神聖な、
そういうものにさわるのは、流れる川で身すすぎを、すませるまではできません」。
(泉井訳、第1巻705-720)
すでにバルディヌッチが指摘しているように、この作品のアエネアスの顔などには、父ピエトロの作品を思わせるところがある。こうした様式的特徴に加えて、ベルニーニがしぱしぱ父の仕事を手伝ったと考えられること(たとえぱ、サン・タンドレア・デルラ・ヴァルレ内バルベリー二礼拝堂の童子など)、またこの作品をピエトロの作と述べている資料もあることなどから、この彫刻はピエトロ作とも、父子の共作ともいわれてさた。たが今日では、その後発見された記録に基づいて、若きベルニーニの作品とすることで識者の意見がほぽ一致している。この作品をよく観察すると、アンキセスの老いた肉体などに、一層進歩したベルニーニの表現力を見出すであろう。だがそれとともに、彫刻全体、ことにアエネアスの造形にベルニーニ特有の活力が感じられず、ある種の逡巡と憶病さがあるのに気づく。こうした本格的彫刻には、これまでの小規模な作品の場合とは、次元の共なる技術と経験と、が必要である。いきおいベルニーニも慎重になり、父の助言を仰いだことは容易に想像できる。マニエリスムに特徴的な、人物の螺旋状の横成が残っているのはそのせいだとみることもできよう。またこの作品においても、ベルニーニはミケランジェロを参考にしたと思われ、アエネアスはサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァにある《復活せるキリスト》を連想させる。その一方で彼が絵画作品を研究したことも疑いなく、同じ主題のフェデリーコ・バロッチの作品をはじめ、ヴァチカン宮内のラファェルロの壁画《ボルゴの火災》等の影響が指摘できる。二十歳を過ぎたぱかりの若い彫刻家が初めて手がけたモニュメンタルな彫刻としては、この作品は充分満足すべき出来映えである。しかし結果的には、全体をうまくまとめるということに気をとられ過ぎて、意図した表現を実現できずに終ったきらいがあるように思われる。目の部分に鉛筆でシャドーを入れている。
「真実」 La Verita
1646-52
S・ピエトロ大聖堂の鐘塔の失敗と、プロパガンダ・フィーデ宮の礼拝堂がボッロミーニによって撤去されるという屈辱続きに対する意志表示として、「真実を明らかにする時」の像を1646年から制作し始め、真実の像だけが完成した。
下積みを余儀なくされていたボルロミーニは、イノケンティウス10世の時代になると激しくべルニーニに襲いかった。1645年の3月から翌年2月にかけて5回ほど間かれた会議の席上で、彼はサン・ピエトロの鐘塔の失敗をベルニーニの技術的・専門的知識の欠如の結果であるとして、その責任を厳しく迫及したのである。この鐘塔はすでに述べたように、マデルノが放置したままになっていたのをベルニーニが1628年から引き継いだものであった。だがマデルノの基礎工事が充分でなかったのと、起工の際に点検した二人のマエストロとベルニーニ自身の認識が甘かったために、1641年に北塔がほぽ完成して祝賀の行事をした直後に前廊に亀裂が発見され、工事は中断したままになっていたのである。窮地に陥ったベルニーニは、塔を独立させるというプランを立てて会議に臨み、一方ボルロミーニも、軽量化した鐘塔の設計図を携えてこれに出席している。しかし、結局この鐘塔の建設は断念されることになり、教皇は1646年2月23日に鐘塔の取り壊しを命ずる文書に署名した。そしてこの取り壊しのために、ベルニーニは彼が所有していた公債を左し押えられたのである。後に教皇はこの決定を性急過ぎたと後悔した、とバルディヌッチは伝えているが、成功に次ぐ成功に明け暮れたといってよいベルニーニの生涯において、これは最大の屈辱てあり、初めての挫折であった。そしてこれに追い打ちをかけるように、1646年に布教聖省(プロパガンダ・フィーデ)の拡張工事を命せられたボルロミーニは、すぐさまベルニーニの設計で建てられた礼拝堂を撤去する計画を立てている。この工事が実際に行われたのはしぱらく後だったが、この建物はベルニーニの家のはす向いにあるから、彼は目の前で自分の作品が取り壊されるという屈辱を味わわされたのである。
こうした出来事に対してベルニーニが行った意志表示は、我々現代人には想像もできない類のものであった。それだけに一層、この時代がどんな時代であったかを実感することができる。ベルニーニはまず教皇の実家パンフィーリ家の女宰相オリンピアのもとでコメディーを上演し、誹謗に苦しむ主人公に「時は真実を明らかにするというのはほんとうだが、たいていは間に合わない」と語らせ、さらに自分の家に《真実を明らかにする時》の像を制作したのである。このうち、コメデイーは1646年の謝肉祭に上演されたものだが、すでに上演の前からベルニーニが何らかの弁明をするらしいという噂が広まっていた。しかし、おそらくはその風刺と卑猥な表現のために、「あまりに自由でスキャンダラス」と批判されたというから、弁明が成功したといえるかどうかは疑わしい。一方彫刻の方は、真実の像だけが完成し、これと組み合わさるはずたった時の寓意像は、大理石のブロックのままで残ることになった。ベルニーニはこの〈真実〉を「真実こそ最大の美徳だ」という教訓として子供達にのこした。後にパリで彼はある人からこの像を称墳されると、ローマでは「真実はベルニーニのところにしかない」というのがことわざのようになっている、と愉快そうに語っている。
べルニーニが《真実を明らかにする時》の像をどのように構想したかは、最初のアイディアを描きとめたと思われるデッサンと、彼自身がパリで語ったことからほぼ見当がつく。それによれば彼が構想したのは、飛翔する「時」が右手で「真実」のヴェールをまさに取り去った瞬間であった。この点を考慮すると、今日ボルゲーゼ美術館にある《真実》が、驚きと恥らいのポーズをとりながら上を見上げているのと、ヴェールが何の支えもなしに中空から垂れ下っているのが納得できる。この群像がもしも完成していたならばどのようであったかは、サンタ・マリア・デル・ポポロにある《ハバククと天使》の像と比べてみるのが一番よいように思われる。ベルニーニは《真実》と組み合わさる「時」の像について、万物を破壊するという「時」のもう一つの側面を表わすために、壊れた柱やオベリスクや廟を挿入し、それらを「時」の像の支えにしたいと語っている。
完成した《真実》だけでもすでに等身大をこえる大作であるが、彼はこれにこうした複雑な構成をもつ「時」の像を加えるという、壮大な構想を抱いていたわけである。実際、《真実》がようやく完成しようとしていた1652年に、エステ家の使者に全体の完成には少なくともあと8年はかかるだろうと述べており、また同じ使者にすべてを自分ののみから作り出すと明言しているから、ベルニーニはこの群像によほど力を人れていたのである。だが幸か不幸か、再び公的作品の制作に忙殺されるようになったため、「時」の像のために購入された大埋石はついに手をつけられることなく終ってしまった。
《真実》は今日ボルゲーゼ美術館の目立たない一角に置かれているので、この像からベルニーニのこうした意図を想像するのは容易ではない。むしろ我々の注意を惹くのは、この女性寓意像のもつ独特の雰囲気である。この雰囲気は一つにはこの像に認められる、やや引き伸ばされた、しばしば「反古典的」といわれる肉体表現に起因するのであろう。しかしここには、そうした人体比例の次元では片付かない、もっと本質的な要因、つまりベルニーニの内面の発露があるように思われる。その雰囲気とは、すなわちグラッシがいう「ルーベンス的」なところに他ならないが、よく観察すると、それはルーベンスのような真に現世的な官能性ではなく、どこか神秘的、エーテル的世界との交感を思わせる、いわぱ法悦的な官能性であるのに気づく。これは「時」に明らかにされた「真実」の驚きと恥らい、そして喜びを表現しようとした結果だと見ることもできるかもしれない。しかしそれ以上に、次第にベルニーニの内面に巣喰ってゆく、神秘的ヴィジョンの現われであるように筆者には思われるのである。
2F絵画館-14
「山羊の乳をもらうジュピターとファウヌス」
Giove e un piccolo fauno allattati da una capra
1609年作。ベルニーニ最初の作品とされる
ベルニーニの最初の作品ということで識者の意見がほぽ一致している《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》は、1926年にロベルト・ロンギがザンドラルトの記事に基づいてベルニーニの作とするまで、長い間誤って古代の作品と考えられてきた。ミケランジェロが古代の作品を模した彫刻をわざと地中に埋めて人々をだました、というエピソードを思い起こさせる話である。実際この作品は、主題だけでなく、その写実的表現や全体のややくだけた趣きという点で、ヘレニスム彫刻に酷似している。このことは、ベルニーニの出発点が古代美術の研究にあったことを如実に物語っているといえよう。後年パリのアカデミーで講演した際、ベルニーニは「ごく若い時には、私はしばしば古代の作品をデッサンした」と語っている。また伝記作者も、ローマに着いてから最初の3年間を、少年ベルニーニは朝から晩鐘までヴァチカンの古代彫刻をデッサンして過ごした、と伝えている。この《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》はボルゲーゼ美術館の2階につつましく置かれているが、つぶさに観察すると、未熟なところが随所に認められる。けれども、幼いゼウスややぎアマルテアの造形には、十歳そこそこの少年の手に成るとはとても思えぬほど、生き生きした息吹が感じられる。つまり、幼いモーツァルトの作品の場合と同様に、この作品は見る者にある種のほほえましさとともに、天才を予感させる何ものかを感じさせるのである。芸術における天与の才とは何かを啓示する作品として、この小品は測り知れない価値をもつと筆者は考える。なお、豊饒を表わすアマルテア、幼いゼウスと笑いながら乳を飲むサテュロスから成るこの彫刻は、シピオーネ・ボルゲーゼ周辺の詩文等から、パウルス5世の新しい「黄金時代」の喜びを表わしたものだと解釈されている。
「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
Ritratto di Scipione Borghese 75cm
教皇ウルバヌス8世の命を受け、1632年に制作する。
シピオーネ・ボルゲーゼは1633年10月8日に世を去るが、その前年にベルニーニは教皇の命を受けて彼の肖像を制作した。おそらく、教皇は教皇選挙の折に便宜を計ってくれた枢機卿への好意から、肖像の制作を命じたのであろう。ベルニーニがこれを喜んで引き受けたことは想像にかたくない。むしろ彼自身がこの計画を提案して、教皇の許可を求めたのであったかもしれない。そう思わせるほど、このシピオーネ・ボルゲーゼの肖像は生き生きしており、ベルニーニの親愛の情があふれている。シピオーネ・ボルゲーゼは座の中心にあって、何かゆっくりとした口調で話しているといった風だ。目も鼻も口も、それぞれが個性的で、それぞれが生きている。また衣装も光を巧みにもてあそび、全体の印象を暖かで、しかも格調のあるものにしている。シピオーネ・ボルゲーゼはこの時54,55歳だったが、肖像はそれよりも幾分若々しく、多少美化されていろように見える。肖像に若干の美化が必要なことは、ベルニーニ自身も認めている。彼は後にパリで「肖像の秘訣は美点をできるだけ利用して、全体に偉大さの印象を与えることである」と述べている。また、ルイ14世のくちびるの部分を仕上げながら、「肖像で成功するには、行為をとらえて、それをよく表現するよう努めなけれぱならない。くちびるの表現には、人が話を始める瞬間か、言葉を発した瞬間を選ぶのが最もよい」とも語っている。美術史家が「会話する肖像」と呼ぶ肖像のタイプは、こうした発想から生まれたのである。
肖像を作ろうとする場合に、その人物の特徴を捉えるベルニーニの方法は独特であった。ドメニコは次のように伝えている。「彼はモデルがじっとしているのではなく、いつものように自然に動いたり、話したりしているのを望んだ。そうすることによって、そのモデルの美しさを総合的に見ることができるからだ、と彼は言っていた。人がじっとしている時には、動いている時ほどその人らしくは見えない。動きの中には、他の人ではないその人の性格すべてがあり、それが肖像にその人らしさを与えるのだと主張して、彼はモデルをあるがままに表現した、このような考え方を、ベルニーニは実際の肖像制作に生かしていたのである。たとえばパリでルイ14世の肖像を手がけた時にも、王がテニスをしたり、会議や謁見に臨んだりしている姿を観察してデッサンしているし、また王がミサに出席しているところを見ようと、わざわざ出掛けたりしている。ベルニーニがこうしたデッサンを描いたのは、モデルをよく観察してその特徴を捉え、そのイメージを脳裏に焼きつけるためであった。
「それだから、私はデッサンを(作品の制作には)ほとんど利用しなかった。自分の作品をコピーするのではなく、オリジナルな作品を創造したかったからである。それらのデッサンは、ただ私を王のイメージで充たすために描かれたのだ」とベルニーニは説明している。この種のデッサンはもしも残っていたならぱ、ベルニーニの制作過程を知る上で貴重な資料になったにちがいないが、残念ながら一点の例外を除いて、まったく我々の手には伝えられていない。
あたかも観者に話しかけるような、こうした「会話する肖像(リトラット・パルランテ)は、以上述べたように、肖像にその人らしさを与えるために発想されたものであった。が同時にそれは、観る者を作品の空間に誘い込むための、一種の技巧だと見ることもできる。つまり、この肖像彫刻の新機軸も、ベルニーニの他の彫刻作品と同じ発想に基づいているのだ。すなわちそれは、現実の空間と作品の空間との境を取リ除いて「劇的効果」を達成しようとする発想の、今一つの現われなのである。

「パウルス5世の肖像」 Paolo Ⅴ Borghese
1618年完成
シピオーネ・ボルゲーゼが幼いベルニーニを教皇の御前に連れていった時の話である。その時ベルニーニは、聖パウロの頭部を描くよう求められるが、見事にそれを仕上げ、非常な称賛を得る。するとパウルス5世は居合わせた枢機卿に、「この子供が彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言ったというのである。この日教皇が褒美にとらせた12個の金のメダルは、記念として今も我が家に保存してある、とドメニコは伝えている。後年ベルニーニ自身パリてこの出来事に言及しているが、それによれば、彼の手に成る聖ヨハネの頭部を見た教皇は、それが幼い子供の作品であるとは信じられず、目の前で聖パウロを描いてみるよう求めたという。これは8歳の時の出来事だ、とベルニーニは語っている。
一般にいわれる1618年よりは幾分早い時期の作品と思われるが、最初期の肖像(サントーニの肖像、コッポラの肖像)と比べると、大理石のデリケートな仕上げにも、衣服の巧みな処理にも、格段の進歩が認められる。
- S.M.マジョーレ所蔵
- ベレ・アルティ美術館所蔵
「自画像 青年期」 Autoritratto in eta giovanile
油絵 1622頃 39×31cm
逆版かもしれない
「自画像 熟年期」 Autoritratto in eta matura
1635頃
キャンバスに油彩
53×42cm
「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル
Modello della Monumento di LouisⅩⅣ
1671年。ルイ14世に命じられ制作するが実際の像はパリに運ばれて、改変されヴェルサイユ宮殿にある。
1667年にルーヴル宮のプランが放棄されたのは、このような一連の不辛な出来事の前兆だったように思われる。この不本意な知らせにベルニーニがどのように反応したかは伝えられていないが、彼の無力感を助長したことは間違いあるまい。だが計画が中止されても、彼はルイ14世から6000リーヴルという決して少額とはいえない年金(1961年の論文でウィットコウアーは、ほぽ同額のドルに匹敵すると述べている)を受けていた。そのため、この年金にふさわしい仕車を要求するコルベールは、フランス・アカデミーの世話をするだけでなく、ルイ14世の騎馬像を制作するようベルニーニに矢の如く催促してきたのである。しかし、ベルニーニが構想をねった末に粘上のモデルを作り、その後大理石をとり寄せて制作にかかったのは、ようやく1671年になってからであった。
しかし、この作品がパリでかくも批判され、虐待されたのはなぜであろうか。ベルニーニ自身はこの作品に大いに満足していたこと、そしてローマではそれが大へん称賛されていたことを考えると、この虐待ぶリは一層不可解である。助手の手が多く入ったこの作品は、類似した構成をもつコンスタンティヌス帝の騎馬像と比ぺても、またボルゲーゼ美術館にあるすぱらしいテラコッタのモデルを思い浮かべても、その出来映えに感心しない点があることは確かである。しかしこうした印象には、今日の不幸な状態が災いしているとも考えられる。また出来映えの悪さがルイ14世にかくも激しい嫌悪の情をひき起こしたとは考えにくい。それでは、一体何が原因だったのだろうか。諸状況を考え合わせると、次の3つの点が原因として指摘できるように思われる。まず第一は、ルブランらパリの美術家たちのベルニーニに対する激しい敵愾心と、彼らの反ベルニーニ宣伝の効果である。ルブランの対案の成功は、この効果の端的な現われだといえよう。こうしたパリの反ベルニーニ感惰がどのようなものだったかは、たとえぱベルニーニが帰国するかしないかのうちに、メダル作家のジャン・ヴァランか彼に対抗して王の肖像を制作し、完成すると宮廷人たちは大ぎょうにこれを称讃し、間接的にベルニーニの作品を批判した、という話からも想像できる。第二の点は、ベルニーニ晩年の個性的なバロック様式がフランスの古典的感覚には容認しがたかった、ということであろう。ルイ14世の肖像の場合は、肖像という作品の性格によって両者の対立はある程度緩和されていた。たが今回は、ベルニーニが訪れた時よりも一層アカデミックな性格を強めていたパリに、突如として彼の最晩年の作品が運び込まれたのである。人々の反応は想像に余りあるといえよう。そして最後の最も重要な点は、コルベールの連絡係も「優雅で高貴な着想」といっているベルニーニの作品の意図が、ルイ14世の宮廷では全く理解されなかったことである。この騎馬像は、ルイ14世をヘラクレスに見立てて、美徳のけわしい山を登りつめ、栄光と名声の頂きに達した王の姿を表わそうとしたものである。このようなルイ14世ヘラクレスといった着想は、17世紀にはごくありふれたものであり、人々はそれをすぐに理解することができた。しかしこの着想に加えてベルニーニは、美徳の頂きに立つ者には至福が待ちうけるという古代以来の文学的伝統をふまえて、永遠の至福の笑みを王の顔に表現したのである。微笑む太陽王!おそらくその謎めいた微笑みが、王の尊厳に反するように人々には映ったに違いない。このこと、つまりベルニーニ独自の着想が理解されなかったことが、このような像の運命を決定したように思われる。だが、こうした不辛な末路にもかかわらず、美徳の頂きに立つ王の騎馬像というベルニーニの着想は、この後ルブランによるルイ14世のモニュメントから18世紀後半に作られたペテルスブルグのピョートル大帝の像にいたるまで、ヨーロッパの王侯の騎馬像に広い影響を及ぱすことになるのである。
自画像彫刻 2体
2007.2月 未確認