Museo e Galleria Borghese
ボルゲーゼ美術館

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、17世紀の半ばにはほぼ今日みられるようなコレクションを完成させていたが、ベルニーニやカラヴァッジョなど、当時活躍していた作家の作品はともかく、ラファエロ、ティツィアーのなどの16世紀の大作家の作品は、すでに手に入れることは難しく、しばしば盗賊まがいの不正な手段でこれらの作品を集めさせたといわれている。18世紀後半にはM.ボルゲーゼ公(Marcantonio Boughese)が館の内部を改装して収集品を展示したが、その後ナポレオンの妹を妻にしたC.ボルゲーゼ公(Camillo Borghese)はパリのルーヴル美術館にコレクションの一部を贈ることを余儀なくされ、そのいくつかはそのままフランスに残った。1902年、イタリア政府はボルゲーゼ家から館とコレクションを買い上げ、一般に公開した。

公園内のP.Canonica通りあたりにムーア人の噴水のオリジナルがある。19世紀にオリジナルはここに置かれ、ナヴォーナ広場にはコピーが置かれた。
⑳のFontana dei Mascheroni e dei Tritoni あたりがそうか?要、確認。

007-032ボルゲーゼ2
007-001ボルゲーゼ見取り図

 

 

1F彫刻館-2
007-011ダヴィデ「ダヴィデ」 Davide
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1623年8月から24年にかけて一気に仕上げた。
《アポロとダフネ》の制作を一時中断して、ベルニーニが1613年の8月から、《ダヴィデ》を一気に仕上げたことはすでに述べた。「この作品(《ダヴィデ》)において、彼は彼白身をもはるかに凌駕し、わずか7カ月の間にこれを完成した。というのは、このように若いうちから、彼が後によく語ったように、彼は大理石をむさぼり、決して無駄なのみを使わなかったからである」とバルディヌッチは記している。このバルディヌッチの言葉は少しも誇張とは響くまい。なぜなら、ベルニーニの仕事の量、その早さ、そして作品に見られる集中感は、彼が強靱な意志と体力の持主であり、そしていかに並外れた集中力に恵まれていたかを痛感させるからだ。バルデイヌッチが他の箇所で伝えるところによれぱ、建築の仕事がない限り、彼は7時間も統けて大理石彫刻にとり組んだ。これには若い助手もついてゆけず、ある者が仕事を止めさせようとしたことがあった。するとベルニーニは、「このままにしておいてくれ。私は虜になっているのだから」と答えたという。彼はいつも、あたかも恍惚の状態にあるかのように仕事をした。その集中力はあまりに強かったので、足場の上では助手が付き添って、落ちないように見張っていなけれぱならなかった。また、しぱしぱ枢機卿や諸君主が彼の仕事場を見にやってきたが、その仕事ぶりに息をのみ、しぱらく見物してから、挨拶もせずに立ち去ることが多かったという。それにしても、この規模の作品の制作に7カ月というのは驚くべき早さである。しかし、それを事実だと信じさせる、若々しいヴァイタリティがこの作品には感じられる。
いうまでもなく、ダヴィデは旧約伝の英雄である。彼がペリシテ人を破るくだりは『サムエル記』(第1、17)にある。

 

ミケランジェロのダヴィデ

ミケランジェロのダヴィデ

ダヴィデ像は多くの彫刻家によって繰り返し作られてきたが、なかでも思い浮かぶのは、何といってもドナテルロとミケランジェロの《ダヴィデ》である。このうちドナテルロの《ダヴィデ》は、剣を奪ってゴリアテの首をはねた勝利のダヴィデを、美少年として表わしたものである。これに対してミケランジェロは、ドナテルロに見るようなダヴィデの一般的タイプを全く顧みず、戦いに臨む直前のダヴィデを、精神的緊張を全身にみなぎらせた青年として作り上げた。どちらもすぱらしい作品だが、ミケランジェロの《ダヴィデ》は横想のユニークさにおいて際立っている。だがベルニーニの《ダヴィデ》も、これに劣らず独創的だ。彼は単なるダヴィデの像ではなく、ダヴィデとゴリアテの物語そのものを造形化しようとしたのだ。この物語のクライマックスが、ダヴィデが石を放ってゴリアテを倒す場面にあることは、誰の目にも明らかである。したがって、ダヴィデが渾身の力を込めて石を投げる瞬間を、ベルニーニは捉えたのである。
このベルニーニの《ダヴィデ》とミケランジェロのそれとの比較は、いろいろな示唆を与えてくれる。まず気づくのは、ミケランジェロの構想が非常に観念的なのに比して、ベルニーニは平易な図解を目指している。トルナイによれぱ、ミケランジェロは共和国のために戦う市民の二つの美徳、すなわち「剛毅」と「忿怒」の化身として、ヘラクレスになぞらえて《ダヴィデ》を制作した。つまり彼の時代には、この作品は政治的意義を有していたのである。だが今日、何も知らずにこの彫刻を見て、それがダヴィデの像だと分かる人が幾人いるたろうか。この作品があまりに有名なために、我々はそれがダヴィデであることに疑間を抱かないだけではなかろうか。というのは、この作品はミケランジェロがダヴィデとはこのようなものだと考えたダヴィデ以外の何物でもないからだ。ミケランジェロは物語の中核には全く触れず、物語をうかがわせる事物を石の入った袋だけに限定し、それさえ正面からは見えなくしているのである。一方ベルニーニは、ダヴィデのドラマを万人に分かるように視覚化しようとした。彼の主眼は物語の決定的瞬間におけるダヴィデを表わすことにあったが、聖書の記事に従ってダヴィデを説明することも忘れてはいない。ダヴィデは石を入れた「羊飼が使う袋、投石袋」を肩にかけ、足もとには、サウルが着せてくれたが彼が嫌って脱ぎ捨てた鎧兜が置かれている。さらにその下からは、鷲をかたどった竪琴が顔をのぞかせているのである(鷲はシピォーネ・ボルゲーゼの紋章である。このことからドノーフリオは、ダヴィデはシピオーネの政敵ルドヴィーコ・ルドヴィーシを倒そうとしているのだ、と解釈した)。こうした事実は、ルネッサンスとバロックにおける美術と美術家のあり方の違いを考えさせる。ルネッサンスにおいては、新プラトン主義の風潮の中で、美術はそれ自身存在意義をもつと考えられ、ある程度自己完結的に存在しえた。一方バロック期になると、美術は何らかの社会的役割を果すよう要求されるようになる。つまり美術はあらゆる種類の宣伝に用いられ、そのためレトリックを駆使して、できるだけ多くの人々の心を動かすよう工夫されるようになるのである。それと同時に、新プラトン主義的な天才の概念やその神秘に対する称讃は失われて、美術家は再び地上に帰る。この二つの時代の美術と美術家のあり方は、ミケランジェロとベル二ー二に象徴的な姿で現われているといえよう。こうした時代の違いは、同時に造形にも現われている。《ダヴィデ》においてミケランジェロは不朽の造形、モニュメンタルな肉体を迫求したが、ベルニーニはあくまで瞬間の動きと緊張を捉えようとしている。崖から落してもびくともしない彫刻が望ましい、という有名な言葉からも分かるように、ミケランジェロは堅牢な人物像を至上とした。また彼が「削りとる」彫刻を重んじて、「付け加える」塑像をひどく軽蔑したことはよく知られている。これに対してベルニーニは、《ダヴィデ》において、《プロセルピナの略奪》や《アポロとダフネ》ほどではないにしても、ミケランジェロがさげすんたブロンズ彫刻の表現力を大理石で達成しようとしたように思われる。このように、二人の巨匠は大理石彫刻を天職と考えた点では共通しているが、その大理石から創り出そうとした造形は全く異なるものだったのである。しかしその造形を生み出すに当って、二人とも古代彫刻の研究から出発していることも忘れるわけにはゆかない。ミケランジェロの《ダヴィデ》が際立って「古典的」であることはしばしば指摘される通りだが、一方ベルニーニの方も、ルーヴル美術館にある《ボルゲーゼ・ガリタトール》などから霊感をえていると考えられる。どちらの場合も、その造形の基本は古代彫刻の研究にあるのである。ここにも、先に触れたイタリア美術史の根本間題が姿を現わしている。

エルミタージュ美術館館所蔵 ダヴィデのモデル

エルミタージュ美術館館所蔵
ダヴィデのモデル

ベルニーニの《ダヴィデ》について、どうしても触れておかなけれぱならないことが二つ残っている。一つは、この作品も他のボルゲーゼの彫刻と同様に壁につけて置かれていた、つまり基本的視点がはっきり設定されていたということてある。そしてもう一つは、その基本的視点に立つ観者を、彫刻の生み出す空間に誘い込もうとベルニーニが意図していることである。ミケランジェロの《ダヴィデ》にも、ダヴィデが鋭く見つめる彼方にゴリアテがいる、と感じさせる一種の心理的働きかけがあるといえる。たが彫刻自体の強い完結性のために、それはあまり重要には感じられない。これに対してベルニーニの《ダヴィデ》では、見る者に物語を感じさせる、より現実的な配慮がなされている。つまり、このダヴィデは明らかにゴリアテに向って石を投げようとしているのであり、それを見る我々は背後にその相手の存在を想定せざるをえないのた。こうして我々は知らず知らず物語の空間に引き込まれてゆくわけであるが、このように見る者をいわぱ物語の証人として、彫刻の生み出す空間に誘い込もうとする意図は、これまで述べた作品にもみられた。けれどもこの《ダヴィデ》では、それが一層具体的な形で構想されているのである。こうした見る者と作品、現実の空間とフイクションの空間との間にある心理的障壁を取り除こうとする発想は、ベルニーニの造形世界を特徴づける重要な要素である。ベルニーニの、そしてバロックの美術を鑑賞する者は、しばしば現実の空間と美術の空間の境を見失う。それはミケランジェロの、そしてルネッサンスの世界では決して体験でさない、バロックの魔術の世界である。
最後に伝記作者が伝える興味深いエピソードをそえて、《ダヴィデ》のもとを去ることにしよう。ベルニーニはダヴィデの顔を彼自身をモデルに制作していたが、ある日アトリエを訪れたマッフェオ・バルベリー二(後のウルバヌス8世)が、ベルニーニのために鏡をもってやったという逸話である。このエピソードは、ベルニーニ自身もパリでシャントルーに語っている。この《ダヴィデ》の顔が一種の自刻像であることは、同じ時期の《自画像》からほぽ確認することができる。
ダヴィデの表情に、呪われた魂を参考にしている。


1F彫刻館-3
007-008アポロとダフネ「アポロとダフネ」Apollo e Dafne
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1622年8月から25年。
オウィディウスの「変身物語」に基づき、アポロンの抱擁をさけようとしたニンフ、ダフネが月桂樹に変身する瞬間が主題。物語の劇的な頂点を絵画的にとらえ、大理石をロウのように自在に扱い、しなやかな肉体の感触、激しい運動感を写実的で幻想的な美しさで表現している。台座には出典からの引用と教皇ウルバヌス8世の銘がある。

《プロセルピナの略奪》に続いて、1622年8月にベルニーニは《アポロとダフネ》の制作を姶め、翌年の2月にはまだ制作を続けていたことが知られている。だが同じ年の夏には、もう一つの作品《ダヴィデ》に着手し、翌年の春までにこれを完成する。その後再び《アポロとダフネ》にかかるが、完全に什事を終えたのはようやく1625年になってからであった。しかし《ダヴィデ》を始めた時には、この作品はすでにかなり出来上がっていたと想像される。そこで《アポロとダフネ》を先に考察しようと思う。
この作品もオヴィディウスの『転身物語』に基づいている。恋心を生む黄金の矢を射られたアポロが、恋を嫌う鉛の矢を受けたダフネを追い求めるという、有名な月桂樹の転身物語の一節である。

それとおなじように、神は希望にかられて、乙女は恐怖におびえて、ともに疾駆する。しかし、恋の翼にはこぱれる追手の方が脚が早く、相手にやすむひまもあたえず、すぐ背後に追いすがり、その息は乙女の頸になびく髪にふりかかる。乙女は、もう力の限界にきて、まっ蒼になり、ながいあいだひたすら走りつづけた緊張のために精根もつきはて、ペネウスの流れをみとめるなり、こうさけんだ。「お父さま、あなたの流れに神通力があるものなら、どうかお助けくたさい!みんなのこころをまどわしすぎるこの美しい姿を変えて、わたしをほろぽしてください」
ダフネがこの切なる祈りを言いおわるやいなや、はげしい硬直が手足をおそった。と、見る見るうちに、やわらかい胸は、うすい樹皮につつまれ、髪の毛は、木の葉にかわり、腕は、小枝となり、ついいままであれほど早く走っていた足は、強靱な根となって地面に固着し、顔は、梢におおわれた。
(田中・前田訳、第1巻537-550)



ベルニーニはこのオヴィディウスの詩句をものの見事に視覚化した。バルディヌッチは「それは全く想像を絶する作品であり、美術を熟知した者の眼にも、また全くの素人の眼にも、常に芸術の奇跡と映ったし、今後も映るであろうような作品である」と述べ、この作品が完成するやいなや、「奇跡が起ったかのようにローマ中の人がそれを見に行った」、この作品によってベルニーニは「神童」という名声を得た、と伝えている。実際この《アポロとダフネ》は、ベルニーニの彫刻作品の中でもサンタ・マリア・デルラ・ヴィットーリアの《聖女テレサの法悦》と並んで特に有名で、新古典主義の風潮の中で彼の評価が地に落ちた時代にも、なお人々の称讃を集め続けたのである。
この作品でベルニーニは、《プロセルピナの略奪》で試みた新しい可能性を一気に極限にまで押し進めたといえる。物語のクライマックスの瞬間を捉え、あたかもスナップショットのようにそれを造形化し、観る者が絵画を見るように一目で全体を理解できるように工夫する。そのために大埋石をロウの如くに刻んで、躍動する動きを捉え、同時にレアリティと美しさを追求する。ベルニーニが意図したのはこのような彫刻であった。それは、いわぱ三次元の絵画であり、長く人々の心を捉えてきた「絵画は詩のごとく」という美学を彫刻で実践しようとしたのだといえよう。これを実現したベルニーニの「技巧」はほとんど彫刻の限界を越えているように見えるほどであり、ベルニーニ自身もこの先このような華麗な「技巧」を披露することはない。早熟の天才ベルニーニここに極まれり、というべきであろう。
後年パリでこの作品に言及したベルニーニは、ダフネの髪に「軽さ」が表現されている点を自慢しているが、「軽さ」は髪だけでなく、ダフネの体全体を支配している。そのために彼女は空中に浮遊しているような印象を与える。だがかつては、現在我々が見るよりも一層この印象が強かったと思われる。というのは、近代になって安定をよくするために岩の一部が補強されたからだ。原作の状態では、視覚的不安定さが動感と浮遊感をより一層喚起したことであろう。この独特の動感と浮遊感、そして物語の幻想的性格のために、この作品全体がレアリティを越えてファンタジーの世界に入ってしまったように感じる人は少なくあるまい。それはバレーを連想させ、アール・ヌーヴォーの遠い祖先のようにさえ見える。ことにダフネの右手の先の小枝が髪に連なる辺りを見上げると、大理石がまるで粘り気のある物質のように感じられ、アール・ヌーヴォーの作品を見ているような錯覚に襲われる。優れた美術家はしぱしぱいろいろな造形の可能性を先どりするのである。
こうした《アポロとダフネ》のファンタスティックな雰囲気は、レアリティの世界を越えてゆこうとする、ベルニーニの想像力の志向性をよく表わしている。こののち宗教作品を中心に制作するようになると、この志向性は超越的エクスタシー表現の探求という形で現われることになる。しかしながら、《アポロとダフネ》のこうした雰囲気は、この作品の他の重要な側面をおおい隠してしまいがちだ。

左:ベルニーニのアポロ 右:ベルヴェデーレのアポロ

左:ベルニーニのアポロ 右:ベルヴェデーレのアポロ


つまりファンタステイックな印象が強いために、この作品でもベルニーニは古代美術の研究から出発した、という事実を、ともすれぱ見過してしまうのである。先には触れなかったが、《プロセルピナの略奪》においても、プルトは1620年に発見されてシピオーネ・ボルゲーゼが所有していたトルソが、プロセルピナは《ニオベ》が、それぞれ範となっているといわれる。この《アポロとダフネ》では、アポロとヴァチカンの有名な《ベルヴェデーレのアポロ》との類似がとりわけ印象的である。実際、両者の頭部の比較はショッキングという他ない。《ベルヴェデーレのアポロ》の「アカデミックな」イメージとこの作品の詩的印象があまりにかけ離れているため、両者の歴然とした類似が意外の念を引き起こすからた。実際それは、今まで見てきた作品の一部だとは信しられないほどの類似である。この比較は、若いベルニーニがいかに古代美術から学んだか、そしてその成果をいかに自在に応用したかを示しているといえよう。この後、より「バロック的」作品を制作するようになっても、ベルニーニはしぱしぱ古代彫刻から出発している。たがその結果生まれた作品は、その事実を全く忘れさせてしまうのである。このような古代美術とベルニーニとの関係は、「古典主義」と「バロック」という言葉を、対概念を表わす用語として便宜的に用いる我々をしぱしぱ混乱に陥れる。古代美術との関係、広い意味での古典主義の間題は広くイタリア美術全般にわたる根本的間題の一つである。ベルニーニの芸術を考えてゆくためにも、われわれは幾度かこの間題に立ち帰らなけれぱならないであろう。
ベルニーニの次のパトロンになるマッファオ・バルベリーニ(ウルバヌス8世)が捧げた詩は、パリでも話題になるほどであった。今日も台座を飾るその詩は次のようなものである。
つかの間の美形を追い求める恋人は
苦い果実をむしり、手のひらを葉で充たす
少々危なっかしいところのある驚嘆すべき作品に、道徳的解釈を加えて免罪符を与えた、というところであろう。
この像も目に鉛筆でシャドーあり


1F彫刻館-4
007-004プロセルピーナの略奪「プロセルピーナの略奪」 Il Ratto di Proserpina
シピオーネ・ボルゲーゼの注文。1621年から22年。
マニエリスム彫刻が螺旋状の運動表現と多視点を特徴とするのに対し、正面からの単一視点で動きの瞬間を写真のようにとらえている。

シピオーネ・ボルゲーゼの注文による本格的彫刻作品の第一作は《アエネアス》だったが、ベルニーニはこれに続けて三つの作品を制作した。ボルゲーゼ美術館の至宝《プロセルピナの略奪》、《ダヴィデ》、そして《アポロとダフネ》がそれである。
三作の最初は《プロセルピナの略奪》で、《ネプテューンとトリトン》に続いて1621年から22年にかけて制作されたと考えられる。キューピットに愛の矢を射られたプルトがプロセルピナを誘拐するという主題は、オヴィディウスの『転身物語』に基づいている。

さて、プロセルピナは、この森のなかで遊びたわむれ、すみれや真白 にかがやく百合の花を摘んで、乙女らしく嬉々として籠につめたり、ふと ころに人れたリしては、友だちのだれよりもたくさん摘みとろうと夢中にな っていました。それをたまたまデイス(プルト)がみとめ、恋ごころをお ぽえ、たちまちかの女を奪いさらったのです。しかも、ディスの恋ときた ら、まったく電光石火のような素早さでした。プロセルピナは、おどろき おそれて、かなしげな声で母や遊び友だちに助けをもとめ、とりわけ母 の名をいくども呼びました。……(田中前田訳、第5巻391-397)



 

ビルデンデン美術館所蔵 デッサン

ビルデンデン美術館所蔵
デッサン

マニエリスムの彫刻家は、この「プロセルピナの略奪」や「サビニ女の略奪」といった略奪の主題や、「サムソンとペリシテ人」といった闘争の主題を好んでとりあげた。それは一つには、この種の主題が彼らが得意とした複雑な運動の表現に適していたからである。ベルニーニもこの彫刻を構想するに当って、初めマニエリスト風に二人の人物が互いにねじり合う螺旋状のポーズを考えた。このことは、初期の彫刻に関しては唯一現存する、貴重な準備デッサンが教えてくれる。しかし実際に制作された彫刻では、このからみ合う螺旋連動というマニエリスム的構想は放棄されている。これは同時に、マニエリスム彫刻の大きな特徴である視点の多元性、つまり周り中どこから見てもよいような彫刻をよしとする美学が放棄されたことを意味する(マニエリスム彫刻を代表するチェルリー二は、彫刻は絵画よりも八倍も優れている、なぜなら絵画は一つの視点しかもたないのに比ベ、彫刻は八つのそれを有するからだと述べている!)。
 

 

ウフィツィ美術館所蔵:ジャンボローニャ作サビニの女

ウフィツィ美術館所蔵:ジャンボローニャ作サビニの女

確かに、この《プロセルピナの略奪》は正面から見るように作られている。マニエリスム彫刻の典型ともいうべきジャンボローニャの《サビニ女の略奪》と比較すれぱ、このことはすぐに納得がゆく。ジャンボローニャの作品はとめどなく回転する視点を有しており、我々はどうしてもその周りを回らざるをえない。一方、ベルニーニの方は、誰もが正面からカメラを向ける作品、つまり絵を見るように一つの視点から鑑賞することができる作品なのである。ベルニーニは明らかにマニエリスム彫刻の視点の多元性をきらったのであり、その結果ルネッサンスの単一的視点の彫刻に戻ることになったのである。しかしもはや1ブロックの大理石の中で、いわぱ求心的に造形を探求するルネッサンスの彫刻法に満足できるはずがない。そこでベルニーニは、マニエリスムの彫刻家が達成した造形の多様性と構想の自由を、ルネッサンスの単一的視点をもった彫刻の中で達成しようとしたと見ることができよう。このように「ルネッサンスの単一的視点とマニエリストが達成した自由を結びつけることによって、ベルニーニは新しいバロックの彫刻概念の礎を築いた」(ウィットコウアー)のである。噴水やサン・タンジェロ橋を飾る彫刻のように、いろいろな方向から見られるべく作られた作品を除いて、この後のベルニーニの彫刻作品はすべて単一的視点を設定して制作されている。この《プロセルピナの略奪》は現在美術館では室の中央に、いわゆる「独立した」彫刻として展示されているが、元来は壁につけて飾られていたことが知られている。そのことからも、この彫刻に単一的視点が設定されていたことは明らかであろう(ただしこの彫刻は、1623年7月にシピオーネ・ボルゲーゼからルドヴィーコ・ルドヴィーシに贈られ、1909年に国家が買い上げるまでルドヴィーシ家の別荘にあった)。この単一的視点と並んで次に注目されるのは、ベルニーニがこの作品において、物語のクライマックスの瞬間を捉えようとしていることである。その意味で、この彫刻には絵画を、さらにいえぱ写真を連想させるところがある。つまり、この作品に認められる運動感は、ジャンボローニャの《サビニ女の略奪》のようなフォルム自体がもっている運動感とは全く異なり、いわぱスナップ・ショットのように瞬間を固定したことによって生じたものだといえるのである。ベルニーニ自身気づいていたように、こうした絵画的表現を彫刻によって達成しようというのは、まったくもって大胆な試みである。だがそれによって彼は、先に述べたような大理石彫刻の新しいタイプ、バロックのタイプを創造しえたのである。それにしても、彫刻において瞬間を捉えるというこうした大胆な目論見を非常なレアリティをもって実現した、彼の彫刻技術は信し難いほどだ。大理石を刻む技の冴えは、この作品のあらゆる細部に現われている。たとえぱ、プルトの指がくい込む辺りのプロセルピナの肌の表現を見られたい。

クリーブランド美術館所蔵:テラコッタ

クリーブランド美術館所蔵:テラコッタ

そこには見る者を恍惚とさせる「技巧」がある。石でありながらとても石とは思われない、この真に迫る肉体表現は、ミケランジェロの人物は解剖学的にすぱらしいだけで肉体を感じさせない、という後年のベルニーニの言葉を想い起こさせる。彼はパリでシャントルーに次のように語っている。「彼(ミケランジェロ)は偉大な彫刻家であり、また偉大な画家たが、ぞれ以上に神のごとき建築家である。というのは、建築はすべて素描から成るからだ。だが彫刻や絵画においては、彼は肉体を表現する才能をもっておらず、彼の人物は解剖学的に美しく、りっぱなだけだ」。
これもずっと後、ベルニーニ晩年のことであるが、彼の《ルイ十四世の騎馬像》を見たある人が、王の衣や馬のたてがみに動きがありすぎて古代の先例から離れてしまっているのではないか、と批判したことがあった。これに対して、ベルニーニは次のように答えたとドメニコは伝えている。「あなたが欠点だとおっしゃったことは、実は私の芸術の最高の業績なのです。このためにこそ、私は大理石をあたかもロウであるかのように扱うという困難を克服してきたのであり、それによってある程度絵画と彫刻とを結びつけてきたのです。古代人たちがこれを成しとげなかった理由は、多分大理石を自分の意志に従わせるという勇気が彼らに欠けていたからでしょう」。この《プロセルピナの略奪》には、絵画と彫刻とを結びつけようとする発想と、そのために大理石をロウのように意のままに刻もうとする意志とがすでにはっきりと認められる。このことと、ベルニーニにとってこの作品が本格的スケールの彫刻としては第三作目であることを考え合わせると、我々は最初期の彼の作品を見た時と同じような驚きに襲われる。新しい発想、それを試みる果敢さ、そしてそれを実現する技術、ベルニーニはこれらを生来の特質として備えていたように見えるからである。




007-031ボルゲーゼ1ネプチューンとトリトン Nettuno e un delfino
1662 ブロンズ ほとんど真っ黒
311ヴィクトリア&アルバートのものと似ているが、V&Aのものは白大理石である。
どこにあったものか?




1F彫刻館-5
Herma-Borghesede’l Hermaphrodite
ヘルマプロディートスはしばしばギリシャ彫刻に霊感を与え、ヘレニズム時代に製作(複製)されたうちの数体が保存されている。中でも最も有名な作品は、別名『眠れるヘルマプロディートス』として名高い『ボルゲーゼのヘルマプロディートス』であるが、そのほかにローマ国立博物館やルーヴル美術館、リール美術館などにもレプリカが所蔵されている。

ルーブルの見解
Louvre-Hermaphrodite1608年ローマのディオクレティアヌスの浴場付近にて発見されたこの彫刻は、17世紀から18世紀のボルゲーゼ・コレクションのなかでも最も感銘を与えた傑作のうちに数えられる。
1619年スキピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は、バロック時代のイタリア人彫刻家ベルニーニに古代の彫像を寝かせるためのマットレスの制作を依頼した。同じ年にダヴィッド・ラリクは、ヘルマフロディトス自体の修復を手がけた。この作品は、1807年ナポレオンが彼の義理の兄弟に当たる、カミロ・ボルゲーゼ公から一連のボルゲーゼ・コレクションを購入した後、ルーヴル美術館に収集された。

ルーヴル美術館のヘルマフロディトスは、最も有名であったが、他の3体の古代の複製彫刻がこの作品と比較される事もあった。
herma-louvre2①ルーヴル美術館に保管してあるヴェッレトリのヘルマフロディトス、


herma-uffizi②フィレンツェ、ウフィツィ美術館のもの、


そして未だに③ローマのボルゲーゼのヴィラに保管してあるもの(この作品)がそれに当たる。


1F彫刻館-6
007-002トロイアを逃れるアエネス、アンキセス&アスカニウス「トロイアを逃れるアエネス、アンキセス&アスカニウス」
Enea con Anchise ed Ascanio .
シピオーネ・ボルゲーゼの最初の注文。1619年完成。
ベルニー二が十代の研究成果を本格的彫刻作品で試す機会は、シピオーネ・ボルゲーゼによって与えられた。今日もボルゲーゼ美術館に残る《トロイアを逃れるアエネアス、アンキセス、そしてアスカニウス》がそれである。この作品に関しては、1619年10月付の支払いの記録が発見されているので、この時までに完成されていたことが分かる。おそらく前年から制作されたのであろう。主題は、ヴェルギリウスの『アエネイス』にある、アエネアスが老父アンキセスを背に負い、少年アスカニウスを連れて炎上するトロイ了を逃れる、という有名名なエピソードである。

  かくいいおわるや既にもう、はげしさ増しつつ都じゅう、
  狂う火の音耳に人り、熱渦を巻いて身にせまる。
  「ですから父上、さあ早く、わたしの肩に乗られるよう。
  私は背負ってさしあげる。なに、この重さは大丈夫。
  事のなり行きどうなろと、危険も一つで共通で、
  救いもふたりは一緒です。わたしは幼いユールス(アスカニウス)を、
  連れてゆきます、そのあとを、ずうっと妻は来るように。
  …父上あなたは聖物と、
  家郷の守神を持たれたい。わたしは何分あのように、
  ひどく戦い人を斬り、けがれた体で神聖な、
  そういうものにさわるのは、流れる川で身すすぎを、すませるまではできません」。
        (泉井訳、第1巻705-720)

すでにバルディヌッチが指摘しているように、この作品のアエネアスの顔などには、父ピエトロの作品を思わせるところがある。こうした様式的特徴に加えて、ベルニーニがしぱしぱ父の仕事を手伝ったと考えられること(たとえぱ、サン・タンドレア・デルラ・ヴァルレ内バルベリー二礼拝堂の童子など)、またこの作品をピエトロの作と述べている資料もあることなどから、この彫刻はピエトロ作とも、父子の共作ともいわれてさた。たが今日では、その後発見された記録に基づいて、若きベルニーニの作品とすることで識者の意見がほぽ一致している。この作品をよく観察すると、アンキセスの老いた肉体などに、一層進歩したベルニーニの表現力を見出すであろう。だがそれとともに、彫刻全体、ことにアエネアスの造形にベルニーニ特有の活力が感じられず、ある種の逡巡と憶病さがあるのに気づく。こうした本格的彫刻には、これまでの小規模な作品の場合とは、次元の共なる技術と経験と、が必要である。いきおいベルニーニも慎重になり、父の助言を仰いだことは容易に想像できる。マニエリスムに特徴的な、人物の螺旋状の横成が残っているのはそのせいだとみることもできよう。またこの作品においても、ベルニーニはミケランジェロを参考にしたと思われ、アエネアスはサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァにある《復活せるキリスト》を連想させる。その一方で彼が絵画作品を研究したことも疑いなく、同じ主題のフェデリーコ・バロッチの作品をはじめ、ヴァチカン宮内のラファェルロの壁画《ボルゴの火災》等の影響が指摘できる。二十歳を過ぎたぱかりの若い彫刻家が初めて手がけたモニュメンタルな彫刻としては、この作品は充分満足すべき出来映えである。しかし結果的には、全体をうまくまとめるということに気をとられ過ぎて、意図した表現を実現できずに終ったきらいがあるように思われる。目の部分に鉛筆でシャドーを入れている。

007-014真実「真実」 La Verita
1646-52
S・ピエトロ大聖堂の鐘塔の失敗と、プロパガンダ・フィーデ宮の礼拝堂がボッロミーニによって撤去されるという屈辱続きに対する意志表示として、「真実を明らかにする時」の像を1646年から制作し始め、真実の像だけが完成した。

下積みを余儀なくされていたボルロミーニは、イノケンティウス10世の時代になると激しくべルニーニに襲いかった。1645年の3月から翌年2月にかけて5回ほど間かれた会議の席上で、彼はサン・ピエトロの鐘塔の失敗をベルニーニの技術的・専門的知識の欠如の結果であるとして、その責任を厳しく迫及したのである。この鐘塔はすでに述べたように、マデルノが放置したままになっていたのをベルニーニが1628年から引き継いだものであった。だがマデルノの基礎工事が充分でなかったのと、起工の際に点検した二人のマエストロとベルニーニ自身の認識が甘かったために、1641年に北塔がほぽ完成して祝賀の行事をした直後に前廊に亀裂が発見され、工事は中断したままになっていたのである。窮地に陥ったベルニーニは、塔を独立させるというプランを立てて会議に臨み、一方ボルロミーニも、軽量化した鐘塔の設計図を携えてこれに出席している。しかし、結局この鐘塔の建設は断念されることになり、教皇は1646年2月23日に鐘塔の取り壊しを命ずる文書に署名した。そしてこの取り壊しのために、ベルニーニは彼が所有していた公債を左し押えられたのである。後に教皇はこの決定を性急過ぎたと後悔した、とバルディヌッチは伝えているが、成功に次ぐ成功に明け暮れたといってよいベルニーニの生涯において、これは最大の屈辱てあり、初めての挫折であった。そしてこれに追い打ちをかけるように、1646年に布教聖省(プロパガンダ・フィーデ)の拡張工事を命せられたボルロミーニは、すぐさまベルニーニの設計で建てられた礼拝堂を撤去する計画を立てている。この工事が実際に行われたのはしぱらく後だったが、この建物はベルニーニの家のはす向いにあるから、彼は目の前で自分の作品が取り壊されるという屈辱を味わわされたのである。
こうした出来事に対してベルニーニが行った意志表示は、我々現代人には想像もできない類のものであった。それだけに一層、この時代がどんな時代であったかを実感することができる。ベルニーニはまず教皇の実家パンフィーリ家の女宰相オリンピアのもとでコメディーを上演し、誹謗に苦しむ主人公に「時は真実を明らかにするというのはほんとうだが、たいていは間に合わない」と語らせ、さらに自分の家に《真実を明らかにする時》の像を制作したのである。このうち、コメデイーは1646年の謝肉祭に上演されたものだが、すでに上演の前からベルニーニが何らかの弁明をするらしいという噂が広まっていた。しかし、おそらくはその風刺と卑猥な表現のために、「あまりに自由でスキャンダラス」と批判されたというから、弁明が成功したといえるかどうかは疑わしい。一方彫刻の方は、真実の像だけが完成し、これと組み合わさるはずたった時の寓意像は、大理石のブロックのままで残ることになった。ベルニーニはこの〈真実〉を「真実こそ最大の美徳だ」という教訓として子供達にのこした。後にパリで彼はある人からこの像を称墳されると、ローマでは「真実はベルニーニのところにしかない」というのがことわざのようになっている、と愉快そうに語っている。
べルニーニが《真実を明らかにする時》の像をどのように構想したかは、最初のアイディアを描きとめたと思われるデッサンと、彼自身がパリで語ったことからほぼ見当がつく。それによれば彼が構想したのは、飛翔する「時」が右手で「真実」のヴェールをまさに取り去った瞬間であった。この点を考慮すると、今日ボルゲーゼ美術館にある《真実》が、驚きと恥らいのポーズをとりながら上を見上げているのと、ヴェールが何の支えもなしに中空から垂れ下っているのが納得できる。この群像がもしも完成していたならばどのようであったかは、サンタ・マリア・デル・ポポロにある《ハバククと天使》の像と比べてみるのが一番よいように思われる。ベルニーニは《真実》と組み合わさる「時」の像について、万物を破壊するという「時」のもう一つの側面を表わすために、壊れた柱やオベリスクや廟を挿入し、それらを「時」の像の支えにしたいと語っている。
完成した《真実》だけでもすでに等身大をこえる大作であるが、彼はこれにこうした複雑な構成をもつ「時」の像を加えるという、壮大な構想を抱いていたわけである。実際、《真実》がようやく完成しようとしていた1652年に、エステ家の使者に全体の完成には少なくともあと8年はかかるだろうと述べており、また同じ使者にすべてを自分ののみから作り出すと明言しているから、ベルニーニはこの群像によほど力を人れていたのである。だが幸か不幸か、再び公的作品の制作に忙殺されるようになったため、「時」の像のために購入された大埋石はついに手をつけられることなく終ってしまった。

La Verita svelata dal Tempo 1647  ヴァチカン美術館

La Verita svelata dal Tempo 1647
ヴァチカン美術館

こうした経緯で作られた《真実》は、コスタンッァ・ボナレルリの肖像と同様に まったく私的な作品であり、不運を嘆くかわりに、ベルニーニがのみをとって慰めとした作品である。もちろん、それは世人に対するアピールでもあった(パリでも話題になったほどだから、その効果はまったくなかったわけではあるまい)したがって、我々がこの作品から学びうるのは、ベルニーニは常に何か仕事をせずにはいられない勤勉な性格の持主だったということ、そして彫刻は彼にとって究極的表現手段だったということである。それにしても、ある考えを彫刻で表現して世人にアピールしようという態度、しかもそれを寓意像で表わそうとする発想は、我々にはあまりに悠長に思われる。しかし現代とは違って、17世紀においては美術は生きた表現手段であり、人々は作品が伝える意味内容に我々よりもはるかに敏感だったのである。
《真実》は今日ボルゲーゼ美術館の目立たない一角に置かれているので、この像からベルニーニのこうした意図を想像するのは容易ではない。むしろ我々の注意を惹くのは、この女性寓意像のもつ独特の雰囲気である。この雰囲気は一つにはこの像に認められる、やや引き伸ばされた、しばしば「反古典的」といわれる肉体表現に起因するのであろう。しかしここには、そうした人体比例の次元では片付かない、もっと本質的な要因、つまりベルニーニの内面の発露があるように思われる。その雰囲気とは、すなわちグラッシがいう「ルーベンス的」なところに他ならないが、よく観察すると、それはルーベンスのような真に現世的な官能性ではなく、どこか神秘的、エーテル的世界との交感を思わせる、いわぱ法悦的な官能性であるのに気づく。これは「時」に明らかにされた「真実」の驚きと恥らい、そして喜びを表現しようとした結果だと見ることもできるかもしれない。しかしそれ以上に、次第にベルニーニの内面に巣喰ってゆく、神秘的ヴィジョンの現われであるように筆者には思われるのである。

2F絵画館-14
007-015山羊の乳をもらうジュピターとファウヌス「山羊の乳をもらうジュピターとファウヌス」
Giove e un piccolo fauno allattati da una capra
1609年作。ベルニーニ最初の作品とされる
ベルニーニの最初の作品ということで識者の意見がほぽ一致している《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》は、1926年にロベルト・ロンギがザンドラルトの記事に基づいてベルニーニの作とするまで、長い間誤って古代の作品と考えられてきた。ミケランジェロが古代の作品を模した彫刻をわざと地中に埋めて人々をだました、というエピソードを思い起こさせる話である。実際この作品は、主題だけでなく、その写実的表現や全体のややくだけた趣きという点で、ヘレニスム彫刻に酷似している。このことは、ベルニーニの出発点が古代美術の研究にあったことを如実に物語っているといえよう。後年パリのアカデミーで講演した際、ベルニーニは「ごく若い時には、私はしばしば古代の作品をデッサンした」と語っている。また伝記作者も、ローマに着いてから最初の3年間を、少年ベルニーニは朝から晩鐘までヴァチカンの古代彫刻をデッサンして過ごした、と伝えている。この《幼児ゼウスに乳を与えるやぎアマルテア》はボルゲーゼ美術館の2階につつましく置かれているが、つぶさに観察すると、未熟なところが随所に認められる。けれども、幼いゼウスややぎアマルテアの造形には、十歳そこそこの少年の手に成るとはとても思えぬほど、生き生きした息吹が感じられる。つまり、幼いモーツァルトの作品の場合と同様に、この作品は見る者にある種のほほえましさとともに、天才を予感させる何ものかを感じさせるのである。芸術における天与の才とは何かを啓示する作品として、この小品は測り知れない価値をもつと筆者は考える。なお、豊饒を表わすアマルテア、幼いゼウスと笑いながら乳を飲むサテュロスから成るこの彫刻は、シピオーネ・ボルゲーゼ周辺の詩文等から、パウルス5世の新しい「黄金時代」の喜びを表わしたものだと解釈されている。

007-016シピオーネ・ボルゲーゼの胸像 「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の肖像」
Ritratto di Scipione Borghese 75cm
教皇ウルバヌス8世の命を受け、1632年に制作する。
シピオーネ・ボルゲーゼは1633年10月8日に世を去るが、その前年にベルニーニは教皇の命を受けて彼の肖像を制作した。おそらく、教皇は教皇選挙の折に便宜を計ってくれた枢機卿への好意から、肖像の制作を命じたのであろう。ベルニーニがこれを喜んで引き受けたことは想像にかたくない。むしろ彼自身がこの計画を提案して、教皇の許可を求めたのであったかもしれない。そう思わせるほど、このシピオーネ・ボルゲーゼの肖像は生き生きしており、ベルニーニの親愛の情があふれている。シピオーネ・ボルゲーゼは座の中心にあって、何かゆっくりとした口調で話しているといった風だ。目も鼻も口も、それぞれが個性的で、それぞれが生きている。また衣装も光を巧みにもてあそび、全体の印象を暖かで、しかも格調のあるものにしている。シピオーネ・ボルゲーゼはこの時54,55歳だったが、肖像はそれよりも幾分若々しく、多少美化されていろように見える。肖像に若干の美化が必要なことは、ベルニーニ自身も認めている。彼は後にパリで「肖像の秘訣は美点をできるだけ利用して、全体に偉大さの印象を与えることである」と述べている。また、ルイ14世のくちびるの部分を仕上げながら、「肖像で成功するには、行為をとらえて、それをよく表現するよう努めなけれぱならない。くちびるの表現には、人が話を始める瞬間か、言葉を発した瞬間を選ぶのが最もよい」とも語っている。美術史家が「会話する肖像」と呼ぶ肖像のタイプは、こうした発想から生まれたのである。
肖像を作ろうとする場合に、その人物の特徴を捉えるベルニーニの方法は独特であった。ドメニコは次のように伝えている。「彼はモデルがじっとしているのではなく、いつものように自然に動いたり、話したりしているのを望んだ。そうすることによって、そのモデルの美しさを総合的に見ることができるからだ、と彼は言っていた。人がじっとしている時には、動いている時ほどその人らしくは見えない。動きの中には、他の人ではないその人の性格すべてがあり、それが肖像にその人らしさを与えるのだと主張して、彼はモデルをあるがままに表現した、このような考え方を、ベルニーニは実際の肖像制作に生かしていたのである。たとえばパリでルイ14世の肖像を手がけた時にも、王がテニスをしたり、会議や謁見に臨んだりしている姿を観察してデッサンしているし、また王がミサに出席しているところを見ようと、わざわざ出掛けたりしている。ベルニーニがこうしたデッサンを描いたのは、モデルをよく観察してその特徴を捉え、そのイメージを脳裏に焼きつけるためであった。
「それだから、私はデッサンを(作品の制作には)ほとんど利用しなかった。自分の作品をコピーするのではなく、オリジナルな作品を創造したかったからである。それらのデッサンは、ただ私を王のイメージで充たすために描かれたのだ」とベルニーニは説明している。この種のデッサンはもしも残っていたならぱ、ベルニーニの制作過程を知る上で貴重な資料になったにちがいないが、残念ながら一点の例外を除いて、まったく我々の手には伝えられていない。

モーガン・ライブラリー所蔵

モーガン・ライブラリー所蔵

その残された一点が、モーガン・ライブラリーにあるシピオーネ・ボルゲーゼの肖像である。 このすぱらしいデッサンは、モデルを観察する際のベルニーニの集中力と気魄をよく伝えている。ここに描かれているのは、往年の活力を失った、実際のままのシピオーネ・ボルゲーゼである。これと比べると大理石の胸像は、先に述べたように幾分美化されているように見える。しかし、それは単なる美化ではなく、ベルニーニが捉えたシピオーネ・ボルゲーゼらしさを純化した結果、実際の姿から少し離れることになったと解すべさであろう。このような、モデルからその人らしさを摘出するベルニーニの天才的な能力は、シピオーネ・ボルゲーゼのもう一つの肖像ともいうべきカリカチュアによく現われている。この軽妙なカリカチュアを一見すれば、誰しもがすぐにシピオーネ・ボルゲーゼその人と分かり、微笑を禁じえないことであろう。
Caricatura di prelato(Scipione Borghese?) 1633  ヴァチカン美術館所蔵

Caricatura di prelato(Scipione Borghese?) 1633
ヴァチカン美術館所蔵

 
あたかも観者に話しかけるような、こうした「会話する肖像(リトラット・パルランテ)は、以上述べたように、肖像にその人らしさを与えるために発想されたものであった。が同時にそれは、観る者を作品の空間に誘い込むための、一種の技巧だと見ることもできる。つまり、この肖像彫刻の新機軸も、ベルニーニの他の彫刻作品と同じ発想に基づいているのだ。すなわちそれは、現実の空間と作品の空間との境を取リ除いて「劇的効果」を達成しようとする発想の、今一つの現われなのである。 
007-018シピオーネ・ボルゲーゼの肖像(復元)最後に面白いエピソードを書き添えて、シピオーネ・ボルゲーゼの肖像に間する話を終えることにしよう。肖像の制作が最終段階に入った時、額のところにひびがあるのが発覚した。そこでベルニーニはこの肖像が完成すると、すぐさま品質に間違いのない大理石を用意して、まったく同じ肖像を制作した。彼はこの第二の肖像を、バルディヌッチによれば19日間、ドメニコによれぱ昼夜3日で仕上げ、仕上がるとシピオーネ・ボルゲーゼをアトリエに招いた。枢機卿はその出来映えに満足したが、やはリ額のひひが気になる。しかし紳上たる枢機卿はそれを面に出さずにいると、ベルニーニは何くわぬ顔で会話を交わしてから、第二の完壁な肖像を披露し、シピオーネ・ボルゲーゼを大いに喜ぱせたというのてある。この二つの肖像は、今日もボルゲーゼ美術館に対にして飾られている。第二の肖像はやや生気に欠けるところかあり、第一作には及ぱない。たがベルニーニの手に成ることは疑うまでもない。つまりエピソードは紛れもない事実なのである。このようにベルニーニは、実際の生活でも今日の我々の目から見れぱ少々芝居がかった趣向で人々を喜ばせた。このエピソードは、そうした事柄に対する彼の情熱を実感させてくれる。なお、一つのアイディアを得るとその実現に異常なまでの集中力を発揮したべルニーニが、この第二の肖像をごく短期間で仕上げたことは容易に想像のつくところである。

007-019パウロ5世の胸像「パウルス5世の肖像」 Paolo Ⅴ Borghese
1618年完成
シピオーネ・ボルゲーゼが幼いベルニーニを教皇の御前に連れていった時の話である。その時ベルニーニは、聖パウロの頭部を描くよう求められるが、見事にそれを仕上げ、非常な称賛を得る。するとパウルス5世は居合わせた枢機卿に、「この子供が彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言ったというのである。この日教皇が褒美にとらせた12個の金のメダルは、記念として今も我が家に保存してある、とドメニコは伝えている。後年ベルニーニ自身パリてこの出来事に言及しているが、それによれば、彼の手に成る聖ヨハネの頭部を見た教皇は、それが幼い子供の作品であるとは信じられず、目の前で聖パウロを描いてみるよう求めたという。これは8歳の時の出来事だ、とベルニーニは語っている。
一般にいわれる1618年よりは幾分早い時期の作品と思われるが、最初期の肖像(サントーニの肖像、コッポラの肖像)と比べると、大理石のデリケートな仕上げにも、衣服の巧みな処理にも、格段の進歩が認められる。


台座が丸いものに変わっていた

台座が丸いものに変わっていた



007-024青年期の自画像「自画像 青年期」 Autoritratto in eta giovanile
油絵 1622頃 39×31cm
逆版かもしれない

007-025熟年期の自画像「自画像 熟年期」 Autoritratto in eta matura
1635頃
キャンバスに油彩
53×42cm

007-026少年の肖像「少年の肖像」 Ritratto di giovane

007-112「ルイ14世騎馬像」のテラコッタモデル
Modello della Monumento di LouisⅩⅣ
1671年。ルイ14世に命じられ制作するが実際の像はパリに運ばれて、改変されヴェルサイユ宮殿にある。
1667年にルーヴル宮のプランが放棄されたのは、このような一連の不辛な出来事の前兆だったように思われる。この不本意な知らせにベルニーニがどのように反応したかは伝えられていないが、彼の無力感を助長したことは間違いあるまい。だが計画が中止されても、彼はルイ14世から6000リーヴルという決して少額とはいえない年金(1961年の論文でウィットコウアーは、ほぽ同額のドルに匹敵すると述べている)を受けていた。そのため、この年金にふさわしい仕車を要求するコルベールは、フランス・アカデミーの世話をするだけでなく、ルイ14世の騎馬像を制作するようベルニーニに矢の如く催促してきたのである。しかし、ベルニーニが構想をねった末に粘上のモデルを作り、その後大理石をとり寄せて制作にかかったのは、ようやく1671年になってからであった。

バッサーノ市立美術館所蔵:デッサン

バッサーノ市立美術館所蔵:デッサン

この作品は2年後の1673年にはほぽ完成したが、完全に仕上がったのは77年のことであり、また完成してもすぐにはフランスに運ばれなかった。というのは、一つにはこの像を中心として今日いうスペイン階段(現在ある階段はフランチェスコ・デ・サンクティスのプランに基づいて1723年から28年にかけて作られた)を整備しようというプランが検討されていたためであり、もう一つには、パリの反ベルニーニ派がこの騎馬像に代ってルブランの対案を採用するようコルベールを説得するのに成功したためたと思われる。このルブランが考案したルイ14世のモニュメントは、彫刻家ジラルドンの手で制作されることになったが、まさに制作が開始されようとした時にコルベールが亡くなり、そのために陽の目を見ずに終ってしまうのである。そのモニュメントは、四つの河を表わす寓意像を配した岩山にルイ14世の騎馬像をおくという、ベルニーニのアイディアを剽窃し結合したような代物であった。このプランが1683年にコルベールの後継者によって中止され、最終的にベルニーニの騎馬像がパリに連ぱれることになった時には、ベルニーニはすでに世を去っていた。これは彼にとって幸いだったといわねぱならない。というのは、1685年にパリに着いたベルニーニの作品は、ルイ14世の宮廷人からは全く理解されず、文字通り虐待されたからである。そしてベルニーニ自身も、この作品がフランスではあまり評価されないだろうという危惧を抱いていた。1678年に彼は、シャントルーに宛てて「王の騎馬像は完成しました。……しかし、彼らはこれを見てもほめはしないでしょう。けれども他の方々は、礼儀正しく、慎重で分別がありますから、私に同情して下さるでしょう」と書き送っている。
国立博物館-グラン・パレ所蔵

国立博物館-グラン・パレ所蔵

だが、ベルニーニは楽天的すぎた。事実はもっと過酷てあった。ルイ14世はこの像を一目見るなりひどく嫌悪し、壊せとまで命じたと伝えられるのである。結局この作品は、ジラルドンの手で顔が修整され、そのうえ馬の下の岩も炎に変えられて、全体としてマルクス・クルティウスの像に手直しされ、ヴェルサイュの片隅に迫いやられることによってかろうじて生き延びたのである。今日もこの騎馬像は、いわゆるスイス兵の池の彼方に淋しく置かれている。
しかし、この作品がパリでかくも批判され、虐待されたのはなぜであろうか。ベルニーニ自身はこの作品に大いに満足していたこと、そしてローマではそれが大へん称賛されていたことを考えると、この虐待ぶリは一層不可解である。助手の手が多く入ったこの作品は、類似した構成をもつコンスタンティヌス帝の騎馬像と比ぺても、またボルゲーゼ美術
ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿

館にあるすぱらしいテラコッタのモデルを思い浮かべても、その出来映えに感心しない点があることは確かである。しかしこうした印象には、今日の不幸な状態が災いしているとも考えられる。また出来映えの悪さがルイ14世にかくも激しい嫌悪の情をひき起こしたとは考えにくい。それでは、一体何が原因だったのだろうか。諸状況を考え合わせると、次の3つの点が原因として指摘できるように思われる。まず第一は、ルブランらパリの美術家たちのベルニーニに対する激しい敵愾心と、彼らの反ベルニーニ宣伝の効果である。ルブランの対案の成功は、この効果の端的な現われだといえよう。こうしたパリの反ベルニーニ感惰がどのようなものだったかは、たとえぱベルニーニが帰国するかしないかのうちに、メダル作家のジャン・ヴァランか彼に対抗して王の肖像を制作し、完成すると宮廷人たちは大ぎょうにこれを称讃し、間接的にベルニーニの作品を批判した、という話からも想像できる。第二の点は、ベルニーニ晩年の個性的なバロック様式がフランスの古典的感覚には容認しがたかった、ということであろう。ルイ14世の肖像の場合は、肖像という作品の性格によって両者の対立はある程度緩和されていた。たが今回は、ベルニーニが訪れた時よりも一層アカデミックな性格を強めていたパリに、突如として彼の最晩年の作品が運び込まれたのである。人々の反応は想像に余りあるといえよう。そして最後の最も重要な点は、コルベールの連絡係も「優雅で高貴な着想」といっているベルニーニの作品の意図が、ルイ14世の宮廷では全く理解されなかったことである。この騎馬像は、ルイ14世をヘラクレスに見立てて、美徳のけわしい山を登りつめ、栄光と名声の頂きに達した王の姿を表わそうとしたものである。このようなルイ14世ヘラクレスといった着想は、17世紀にはごくありふれたものであり、人々はそれをすぐに理解することができた。しかしこの着想に加えてベルニーニは、美徳の頂きに立つ者には至福が待ちうけるという古代以来の文学的伝統をふまえて、永遠の至福の笑みを王の顔に表現したのである。微笑む太陽王!おそらくその謎めいた微笑みが、王の尊厳に反するように人々には映ったに違いない。このこと、つまりベルニーニ独自の着想が理解されなかったことが、このような像の運命を決定したように思われる。だが、こうした不辛な末路にもかかわらず、美徳の頂きに立つ王の騎馬像というベルニーニの着想は、この後ルブランによるルイ14世のモニュメントから18世紀後半に作られたペテルスブルグのピョートル大帝の像にいたるまで、ヨーロッパの王侯の騎馬像に広い影響を及ぱすことになるのである。



自画像彫刻 2体
2007.2月 未確認

Vatican-5.Musei Vaticani

museiVaticani


t.図書館 Biblioteca Vaticana
第11室(請願の間)Sala di consultazione

ウルバヌス8世の胸像Busto di UrbanoⅧ

ウルバヌス8世の胸像Busto di UrbanoⅧ



第5室 Salone Sistino

アレッサンドロ7世の胸像Busto di AlessandroⅦ

アレッサンドロ7世の胸像Busto di AlessandroⅦ



第2室(クレメンス・ギャラリー) Galleria Clementina ギャラリーと言うよりは、通路


第5室閲覧室
Archivio Barberini

バルベリーニ宮の設計図

バルベリーニ宮の設計図




キージ古文書館Archivio Chigi

Cod.Chigi

Stampe ⅩIV
Stampati Barberiniani

Davide vecchio suona la lira1638

Davide vecchio suona la lira
1638

サウルの前で竪琴を弾くダビデ E.David harping,playing before Saul.
〔典拠〕サム上16:23,18:10-12
〔要旨〕悪霊がサウルにのぞむとき、ダビデは竪琴を弾いてサウルの気を鎮めた。すると、悪霊はサウルから離れた。
〔図像〕サウルに仕える以前から、羊飼いダビデは竪琴の名手として知られていた。10世紀のビザンティンの写本では動物や古代風の寓意像がともに表現される。サウルの前で青年ダビデが竪琴を弾く場面は、近世以後の絵画に多い。サウルは普通槍を持つが、槍先をダビデに向けている。

 

005-052パンが増える奇跡パンと魚の増加  E.The multiplication of the loaves and fishes.
〔典拠〕マタ14:13-21,15:32-39、マコ6:34-44,8:1-!0、ルカ9:10-17、ヨハ6:1-14
〔要旨〕新約ではこの物語が2度述べられる。一つは5片のパンと2尾の魚で5,000人の人々の飢えを満たしてなお12の籠に余ったこと。もう一つは7片のパンと若干の魚で4,000人を満腹させ、残屑が7籠になった奇跡。
[図像〕初期キリスト教の石棺やカタコンベ壁画、またはローマの聖サビーナ聖堂の木彫扉ではイエス1人か、1,2の弟子に限られ、キリストの奇跡場面のあとにパンと魚の分配場面が独立して表現されることもある(マクシミアヌスの司教座、546年、ラヴェンナ大司教美術館)。弟子や群衆の数が増し、座像か立像のキリストを中心にシンメトリカルな構図が多くなり、聖餐の意義をもってキリストがこれらを祝福する。13世紀以後、この図像の表現は稀になったが、1584年ヴェネツィアのスクォラ・ディ・サン・ロッコのティントレットによる天井画はこれを扱う。

005-053ライオンを殺すダヴィデウルバヌス8世の詩集の扉用の絵 Davide uccide il leone

Barb.



Stampati Chigiani



R.G. Arte Arch.



Chigi

Gabinetto della Stampe
005-062アンドレア・コルシーニの列聖式Addobbo di San Pietro per la Canonizzazione di Andrea Corsini

Stamp
[005-063ボーフォール公爵のカタファルコCatafalco per il Duca di Beaufort

Biblioteca Apostolisa Vaticana
005-076バルベリーニ宮の設計図pianta di Palazzo Baeberini

不明



u.絵画館 Pinacoteca 
第17室 




V.M.hpより
Room XVII
Models for St Peter’s Chair:
*Gian Lorenzo Bernini and Antonio Raggi, right-hand angel, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair (first version), cat. D6556
*Gian Lorenzo Bernini and Ercole Ferrata, left-hand angel, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair (first version), cat. D6557
*Gian Lorenzo Bernini, left-hand angel, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair (final version), cat. D6558
*Gian Lorenzo Bernini, right-hand angel, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair (final version), cat. D6562
*Gian Lorenzo Bernini, head of St John Chrysostom, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair, cat. D6559
*Gian Lorenzo Bernini, head of St Athanasius, model for a statue of the altar of St Peter’s Chair, cat. D6560

Virtual Visit of this Room(どこをみても写真は1枚だけ)

Gian Lorenzo Bernini
(Naples 1598 – Rome 1680)
Models for St Peter’s Chair
clay and straw on a framework of iron and cane
cat. D6556 – D6557 – D6558 – D6559 – D6560 – D6562

Room 17 of the Pinacoteca contains the preparatory models made of clay mixed with straw on a framework of iron and cane for the bronze figures of St Peter’s Chair. They are works of great documentary and artistic interest both because of the high quality of the models that testifies as to the intervention of Bernini, and because of the fact that the forms for fusion were drawn from them. The models for the Chair include the heads of St Athanasius and St John Chrysostom as well as the figures of angels. The mighty monument in marble, stucco and gilded bronze that decorates the area of the apse of St Peter’s Basilica was constructed by Bernini and his assistants in the years 1658-1666 during the pontificate of Alexander VII (pontiff from 1655 to 1667). Its creation was a result of the decision to transfer the much venerated relic of the wooden chair on which, according to medieval tradition, St Peter used to sit to instruct the Christians (actually it is the throne that the emperor Charles the Bald gave to Pope John VII in 875) from the Baptismal Chapel to the apse of the Basilica. The great bronze throne, in which the wooden chair is preserved, is silhouetted against the clouds, surrounded by angels and by four large figures of the Doctors of the Church (St Ambrose, St Augustine, St Athanasius and St John Chrystostom).

第?室
005-064少年の肖像sto di giovane 1635 少年の肖像


部屋不明



Vatican-4.Basilica di San Pietro
サン・ピエトロ寺院

Campanile per San Pietro 1645

Campanile per San Pietro 1645

サン・ピエトロの鐘楼
マデルノが建設したファサードは、明快すぎて宮殿のようでありあまり好評ではなかった。1629年にウルバヌス8世に命じられたベルニーニは、マデルノが構想だけに終わった、ファサード両端の鐘塔を実現させた。しかしこれも評判が悪く、イノケンティウス10世により取り壊された。

2007.2、内部はコースが組まれ、自由見学不可。

 

004-002サンピエトロ内部訂正大聖堂内部
1.天蓋バルダッキーノ Baldacchino
2A.聖ロンギヌスの柱と像
   Statua di S.Longino
2B.聖アンデレの柱と像 Statua
2C.聖ヴェロニカの柱と像
   Statua di S.Veronica
2D.聖ヘレナの柱と像 Statua
3.私の子羊を飼いなさい
  Pasce oves meas
4.ウルバヌス8世の記念碑
  Monumento di UrbanoⅧ
5.マティルダの墓
  Monumento alla Contessa Matilde
6.玉座(聖ペテロの椅子)の祭壇
  Altaere della Cattedra
7.秘蹟の礼拝堂
  Cappella del Santissimo Sacramento
8.アレッサンドロ7世の記念碑
  Monumento di AlessandroⅦ
9.参事会員の聖具室
  Depositi della Reverevda Fabbrica
10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
11.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro

004-004バルダッキーノ1.天蓋(バルダッキーノ) Baldacchino1624-33
枢機卿マフェーオ・バルベリーニは1613年に教皇に即位したが、すでにそれ以前に竣工した大聖堂の十字交差部の中央の聖ペテロの墓所の上に飾り大天蓋(バルダッキーノ)の建造が検討されており、実際に設計が提出されていた。ウルバヌス8世の教皇選出により、ベルニーニが依頼されることは確実となり、彼は1624年に制作を開始した。バルダッキーノの設計に関しては、旧大聖堂の天蓋の円柱と同様の、捻れ柱を使用した巨大なブロンズ製円柱の選択については、ベルニーニは他者からの提案を受け入れたらしいが、他のすべての点はベルニーニ自身の設計である。1633年に完成。パンテオンからとったブロンズを溶かして制作された。
あらゆるところに金の蜂がとまり、教皇ウルバヌス8世の紋章が刻まれ、宣伝になっている。




ウルバヌスに示すベルニーニ

ウルバヌスに示すベルニーニ

コンフォッシオーネ Altare Papale Chiamato della “Confessione”
クレメンス8世(1592-1605)時代に作られた、「告白」と呼ばれる教皇の祭壇。聖ペテロの墓の上に位置する。調査では、この下にさらに、カリストゥス2世(1119-1124)とグレゴリウスⅠ世(590-604)の時代に作られた二つの祭壇が存在していることが判明している。現在の祭壇は、聖ペテロを記念して4世紀にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑の真上に造られた。祭壇自体は、ネルヴァ帝のフォルムで発見された、帝政ローマ時代の飾りのない大理石でできている。
地下にアッバティーニによるフレスコ壁画があり、ロッジアの建築案をウルバヌス8世に見せるベルニーニが描かれている。

 

004-008聖ロンギヌスの像2A.聖ロンギヌスの像 Statua di San Longino
1631-38
続いて大クーポラを支える4本の巨大なピア(太柱)をはじめとする聖堂内部の装飾も依頼された。
クーポラの支壁の装飾として制作された4体の像は聖ロンギヌスだけがベルニーニの制作で、3体はそれぞれ弟子の手による。聖人像とともに、壁龕の上部にもうけられたもう一つの壁龕には、ソロモンの霊廟の伝説の基づき造られた、コンスタンティヌス帝の時代の旧聖堂のコンフォッシオーネ(祭壇)を囲んでいたねじれ柱で飾られた、それぞれの聖遺物

聖ロンギヌスの上部壁龕

聖ロンギヌスの上部壁龕

の象徴を掲げたテーマのレリーフがおさめられている。それらの聖遺物は、聖週間(復活祭前の一週間)にここから人々に示される。
「聖ロンギヌス」の完成は1638年である。バルダッキーノ制作中に原型をいくつも準備していた。台座の下はグロッタへの入り口になっている。
像の高さは4.4mもある大型のもの。衣襞の効果を最大限に利用し、その動きは自然に逆らったものになっている。22あったらしい習作粘土モデルのひとつがフォッグ美術館に現存するが、その衣襞は自然に忠実なものとなっている。現存しないが実物大の漆喰モデルも作ったとされ、この像のバランスというものにかなりこだわったと思える。
公開される聖遺物-ロンギヌスがキリストを傷つけた槍の穂先


フォグ美術館所蔵:テラコッタモデル

フォグ美術館所蔵:テラコッタモデル

ロンギヌス 1世紀(10月16日、3月15日)L.Longinus,Languinus,Longius.
〔伝記〕ゴルゴタの丘でキリストの処刑に立会った百人隊長。キリストの横腹に槍を突き刺した(ヨハ19:34)が、その血によって眼病を癒された兵と同一人物視される。福音書にはあげられていない百人隊長名は、ギリシア語ロンギノスが「長い槍」を意味することから生じた。神の子たることを確認した彼(マコ15:39)は、使徒に洗礼を受け、カイサリアで宣教し多数の改宗者を得た。殉教のとき彼の処刑を命じた盲目の総督に殉敦後、その眼が治されると預言した。処刑後彼の言葉通り開眼した総督は、キりスト教徒になる。遺骨はマントヴァヘ移され、12世紀以来同市の守謹聖人となった。なおキリストの聖血を受けた杯も彼が同市へもたらしたといわれる。
〔図像〕ローマの百人隊長あるいは中世の騎士の軍装で、徒歩か騎乗する。磔刑図中、徒歩では槍を腕に、馬上では兜を手に、キリストを見上げる。教義的表現としては受胎告知図や礫刑図中にそれぞれ聖母と天使、アリマタヤ出身のヨセフと対称的位置におかれる。また復活図では番兵として跪拝している。持物の長槍は、聖ゲオルギウスと異なり折れていない。彼が持つ巻物の聖句は、「本当に、(この人は)神の子だった‘Vere Fi1ius Dei erat iste’」(マコ15:39)

004-011聖アンデレ2B.聖アンデレの像
公開される聖遺物-聖アンデレの頭部(もとは東方教会の物で、1963年にパトラスのギリシャ正教会に返還された)

アンデレ 1世紀(11月30日)E.Andrew. L.Andreas.
伝記〕シモン・ペトロの弟。ガリラヤのベトサイダの漁師で、ペトロと共にキリストの最初の弟子となる。福音書刺こは詳述されないが、『黄金伝説』中の同聖人行伝によって図像表現される。それによると、キリストの死後スキティア地方をはじめ、ギリシア各地を巡り、犬に化けた7悪魔を追放、大火災の消火など奇跡を行なったのち、やがてペロポネッソス半島のパトラスに至り、市のローマ総督アイギアスの妻マクシミリアの不治の病を癒して彼女を改宗させたため、怒った総督は答刑を加え、X形十字架へ逆さに縄で縛りつけ処刑した。3日後に絶命した彼はマクシミりアにより埋葬され、一方、総督は悪魔によって殺害されたという。また死後の伝説に、美女に扮した悪魔に誘惑されようとした一司教を巡礼姿の同聖人が救う話がある。ペトロをローマに独占されたことに対抗して、東方教会で特に崇拝され、ギリシアとロシアの守謹聖人となった。4世紀に聖遺物の一部がスコットランドに移され、その守護聖人とされた。またブルゴーニュのフィリップ善良公が1433年十字架の一部をコンスタンティノープルから持ち来ったところから、彼の創設になる金羊毛騎士団の聖人とされるにいたった。
〔図像〕アンデレが磔された十字架は、中世を通じ、14世紀のイタリアの美術まではキリストと同形のラテン十宇架ないしはY形であったが、15世紀以来いわゆる「アンデレの十字架のX形十字」が表現されて彼の持物とされるようになった。手に彼の十字架と福音書を持ち、白髪白髯の老人として多く描写される。また魚のかかった漁網、十字架につけられたときの綱などを持物とする。

004-012聖ヴェロニカ2C.聖ヴェロニカの像 Veronica
1635-39 Franchesco Mochi作
公開される聖遺物-ヴェロニカがゴルゴダの丘に向かうイエスの顔を拭いたベール


聖ヴェロニカの上部壁龕

聖ヴェロニカの上部壁龕

ウェロニカ 1世紀(7月12日)LVeronica,
〔伝記〕ニコデモの外典福昔書によって、キリストの十字架運びの場面に現れるシリアの架空の聖女で、Vera icona(真実の画像)の人格化と考えられる。彼女がキリストの血と汗の顔を手布で拭ったところが、その布にキリストの顔が写し出されたという。ローマの聖ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)はそれといわれる。この伝説にもとづいて15世紀における布商人の神秘劇のキリスト受難場面では、彼女は盲目であったが、この布に目を触れると治ったという奇跡としてとり入れられた。のちガリアに行き、メドックのスーヤック・シュル・メールの砂丘にこもる。布商人、下着(製造)商人、洗濯業者の聖女。臨終の秘跡を受けずに死んだ人の護符や免罪にも関わる。今日では写真家の聖女。
〔図像〕トリエント公会議後は崇拝が衰えるが、中世末は盛んで、そのころはシリアの人を表わすターバンを巻いた中年婦人が、両手で胸の前にキリストの顔の写った布をかかげる。若い女として描かれることも多い。布で血と汗を拭きとる場面や、裸で上半身を木の盥から現わしているものもある。時にはローマの守護聖人ペトロとパウロの間に立つ図像がある。

 

004-014聖ヘレナ2D.聖ヘレナの像
Bolgi制作
公開される聖遺物-ヘレナが発見した聖十字架の断片


聖ヘレナの上部壁龕

聖ヘレナの上部壁龕

ヘレナ 255頃~330頃(8月18日)I.Elena. L.Helena.
〔伝記〕コンスタンティヌス大帝の母。イングランド生まれという。帝の対マクセンティウス戦勝利(312年)後に改宗して、多数の教会堂を建設。326年エルサレムヘ巡礼、特に磔刑の行われたカルウァリア丘で数度の発掘を行い、三つの十字架(キリストの磔された真の十字架は、その上に病女を横たえて、彼女が治されたことによって擁認された)と、キリストの十宇架上につけられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見。ついでキリストを打ちつけた釘も発掘され、その二つは帝に捧げられ、彼は馬頭の飾り紐と兜にこれをつけたという。
〔図像〕王妃として冠をかぷり、豪華な衣裳をまとう。特徴ある持物はキリストの受難具で十字架、槌、茨の冠、3本の釘、時には聖墳墓の模型。ヘレナの見た、天使が十字架を持って現われる幻想の表現は16世紀以後

 

004-013私の子羊を飼いなさい3.私の子羊を飼いなさい Pasce oves meas 1633-47
設計 制作は弟子

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン



004-018ウルバヌス8世の記念碑4.ウルバヌス8世の墓 Monumento di UrbanoⅧ
1628-47
パウルス3世のそれと対をなすように構成されている。記念碑的性格が主ではあるが、死の象徴である棺をミケランジェロ以来復活させた。
左の慈悲の像は胸をあらわにして子供に乳を与えるポーズだったが、後に漆喰で覆われてしまった。





004-024マティルダの墓5.マティルダの墓 Monumento alla Contessa Matilda di Canossa 1633-37
彼女は教皇と皇帝が抗争した11世紀にローマ教皇の保護者として活躍した。そのため、左手には聖ペテロの鍵を、右手には指揮杖を持った姿で表されている。この気性の激しい伯爵夫人の遺骨を納めた石棺の上には、

所蔵不明:最終モデル

所蔵不明:最終モデル

1077年1月28日のカノッサ城におけるドイツ皇帝ハインリッヒ4世が描かれており、皇帝は彼を破門したグレゴリウス7世の足下にひざまずいている。
ベルニーニのモデルに従って弟子が制作。
石棺の彫刻はStefano Speranza


004-026聖ペテロの司教座の祭壇6.玉座の祭壇 Altaere della Cattedra
1658-66
大聖堂の入口から身廊沿いに眺めると、バルダッキーノの捻り柱がいわば額縁のようになって得られる偉観を、ベルニーニは後陣の祭壇の上に創造した。アレクサンデル7世の時代に1658年から1666年にかけて制作された。
すなわち大聖堂の貴重な聖遺物である聖ペテロの司教座であり、伝承によると聖ペテロが最初にローマに到着してプデンスの家に泊まったときにこれに座して説教を行ったという。けれども、実際にはこれは875年に禿頭王シャルルが教皇ヨハネス8世に寄贈した物である。象牙装飾の木造椅子で、この椅子は1217年の記録に初めて現れており、おそらく8世紀または9世紀の作品であろう。この聖遺物を納めている金箔張りの浮き彫りのあるブロンズの玉座の周囲には、4人の教会大博士、聖アウグスティヌス、聖アンブロシウス、聖アタナシウス、聖ヨアンネス・クリュソストモスの大きなブロンズ像があり、玉座の上方には無数の天使たち、雲と光の渦の中に実際のステンドグラスの光により浮かび上がる聖霊がいる。 この巨大な装飾には、121t以上の青銅が使用された。
テラコッタ制作の時点では、背もたれと座部の下の部分のデザインが実際と違っている。




博士 四人の(1月30日)I.IDottori della Chiesa.L.Doctores Ecclesiae.

〔解説〕ギリシアおよびラテン教会で最も有名な4人の神学者をいう。後世神学の精神的な祖として尊敬され、教会の父ともよばれる。福昔書に対応して4人は、ギリシア教会ではアタナシウス、バシリウス、ナツィアンツのグレゴリウス、ヨアンネス・クリソストムスで、アレクサンドリアのキリルスが加えられ5博士になることがある。ラテン教会はアンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスおよび大グレゴリウス。
〔図像〕ギリシア敦会では区別して表現することは少ない。聖所のモザイク、フレスコ画で描写され、像は無帽、十字架を散らした法衣をつけ聖書を携え、右手でギリシア教会の礼式に従い祝福する。ラテン教会では主として被りもので個人別を表わす。教皇グレゴリウスは教皇の三重冠、ヒエロニムスは枢機卿帽、アンブロシウスとアウグスティヌスには司教冠というように。また東西を通じて4博士が単独で表現されることがある。特にルネサンスとバロック期に説教壇の装飾にこのテーマが用いられ、トリエント公会議後は高位聖職者の墓装飾として従釆の四美徳にとって代わった。15世紀に両教会の合同が企てられたとき、東西の四大博士が一緒に表現されたこともある。


004-034秘蹟の礼拝堂の祭壇7.秘蹟の礼拝堂 Cappella del Santissimo Sacramento
1673-75
ボッロミーニによる優美なバロック様式の鉄の門で仕切られた、秘蹟の礼拝堂がある。これは聖餐に捧げられた礼拝堂であるが、この秘蹟は、イエスが死と復活の前に使徒たちに語った言葉に基づいて、司祭によって聖別されたパンとワインに、主ご自身がおられるとするものである。中央の祭壇の上には、ベルニーニによる非常に高価な、小神殿の形をした櫃(Tabernacolo a forma di tempietto)がある。これはサン・ピエトロ大聖堂の最初の建築家だったブラマンテの、サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂にある小神殿を反映させたものであろう。そしてその背後には、1669年に、ピエトロ・ダ・コルトーナが描いた、三位一体(Trinita)がある(大聖堂内に絵画のまま残る唯一の祭壇画である)。これはカトリックの教義にもとづいて、唯一神が三つの同じ、しかも区別される人格として示される、という信仰の奥義を示したものである。その三つの人格とは、すなわち可視、不可視の宇宙の創造者である神、それから罪深い人類の贖いのために犠牲となり、死から甦り、最後の審判の日に再びやって来る受肉した息子、そして両者から発せられ、預言者にとっては霊感であり、教会の光と先導者である聖霊(ここでは輝く白いハトとして示されている)である。櫃の両側にいる青銅鍍金の天使像(Angeli di bronzo dorato)は、ベルニー二作。礼拝堂の丸天井と壁は、ピエトロ・ダ・コルトーナによる、聖餐に関するエピソードを表わした見事なスタッコ装飾でおおわれている。




004-044アレッサンドロ7世の記念碑8.アレクサンデル7世の記念碑 Monumento di AlessandroⅦ
1671-78
ベルニーニ最後の作品として知られる。1678年完成時ベルニーニは79歳であった。「祈りの概念」を表現したこの墓はアレクサンデル7世自身によって注文されたが、実際の制作は彼の死去後クレメンス10世の時代になってから。
ウルバヌス8世の墓と類似した構成ではあるが、特徴であった石棺が壁龕に出入り口(祈りの扉)があるために採用されず、出入り口を布を模した大理石でおおいあたかも暮室への入り口か冥府への扉であるかのように見せるという見事な解決法を用いている。




9.参事会員の聖具室 Depositi della Reverenda Fabbrica
004-051アレッサンドロ7世のダマスカス織りサン・ピエトロの角柱を参考にした、アレッサンドロ7世のダマスカス織り
Damaschi con stemma di Alessandro VII per I pilastri della Basillica di San Pietro


004-052エリザベッタの列聖式ポルトガルのエリザベッタの聖列式
Addobbo di San Pietro per la canonizzazione di Elisabetta di Portogallo


004-0053司教座の容器サン・ピエトロの司教座の容器 Custodia della cattedra di San Pietro
9cカロリング王朝時代の司教座を納めるための容器



10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
004-054天使像のテラコッタModelli degli angeli della Sedia in scala minore
Angelo a sinistra 1659-60
Angelo a destra 1659-60


004-055天使たちのテラコッタModelli degli angeli della Sedia in scala maggiore
Angelo a sinistra 1665
Angelo a destra 1665



60.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro
004-056サン・ピエトロ宝物館Ⅰ.柱の部屋
Ⅱ.聖ペテロの玉座の部屋
Ⅲ.聖職禄司祭の礼拝堂
Ⅳ.シクストゥスⅣ世の部屋
Ⅴ.聖遺物器の部屋
Ⅵ.燭台の部屋
Ⅶ.天使の部屋
Ⅷ.ギャラリー
Ⅸ.ユニウス・バッススの部屋


Ⅵ.燭台の部屋-4
004-057燭台二つの大きな展示ケース3,4には、二つのグループの燭台が収めてある。これらはピウス12世の時代まで厳粛な儀式の際に、大聖堂の主祭壇で使用された。第一のグループの燭台(Primo gruppo di candelieri) は、祭壇用十字架とともに鍍金したブロンズでできており、セバスティアーノ・トッリジャーニ作である(1585年頃)。これらの燭台は、その後長い問、無数の祭壇用燭台の形式に影響を与えた。第二のグルーブの燭台(Secnd gruppo di candelieri) は、鍍金した銀製で、アントニオ・ジェンティーリ・ダ・ファエンツァの署名が入った祭壇用十字架を含んでいる(1581年)。そのそばに置かれた二つの燭台も彼の作品である。そして残りの四つの燭台はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの素描をもとに、カルロ・スパーニャが制作した。台座にはめ込まれた水晶のメダイヨンには、ヴァレリオ・ベッリが受難伝の諸場面を刻んでいる。


Ⅶ.天使の部屋-6
004-041秘蹟の礼拝堂の天使左モデルサクラメント礼拝堂の天使モデル Angelo di sinistra
1673頃

部屋不明

命ある十字架Crocefisso vivo

命ある十字架
Crocefisso vivo


十字架Crocefisso

十字架
Crocefisso



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激愛ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂

わたしたちはサン・ピエトロ大聖堂(Basillica di San Pietro) の中央身廊にいる。行きかう人びとの頭上のかなたに鳥居のようにそびえ立つ天蓋(パルダッキーノ=Baldacchino)が正面に見えるだろう。四本の柱に支えられた傘状のそれの下にはローマ法王がミサをとりしきる中央祭壇があり、そのさらに下方にはキリスト十二使徒のひとり、ローマカトリック教会の布石ともいえる聖ピエトロの遺骸をおさめた地下聖堂が位置する。月桂樹のツタが絡まった十一メートルのねじり棒のごとき四本の柱も、その先端に柔らかくかけられた法王のシンボル入りの垂れ幕も、その上に飛びかう天使もすべて黒緑色のブロンズ製だ。
ところどころにほどこされた金細工が、地の暗色とあいまってより光を放つ。天蓋全体の高さは二十メートルはど、六、七階の建物の高さに相当する。そしてその上方にはミケランジェロのつくった高さ132.5メートルの丸天井がおおいかぶさっている。近づけば近づくほど人びとの目線は上へ上へと上昇していくことだろう。さもなければ天蓋前方に大きく口を開けた聖人の地下聖堂への入口に気づき、一気に地下へともぐってしまう。ゆえに、その中間に位置する、ブロンズの柱を支える四つの大理石の台座に、あえて多大な注意を払う人は多くはない。もしいたとすればその人は、その台座に彫りこまれた謎を知っていることになる。

台座

台座

 台座の形は四角柱で、おもに白とだいだい色の二色の大理石からなっている。各台座の外側二面には家紋の浮き彫りがなされている。上部に二匹、下部に一匹、合計三匹の蜂をあしらった盾だ。この天蓋を1624年に発注した法王ウルバーノ八世のものである。それ以外に装飾として盾の上に女性の顔があり、さらに彼女をおしつぶすかのように天国の扉をあける重々しいふたつの鍵が交差している。そしてさらにその上に丸みをおびたコーン形の法王の冠がのっている。いっぽう盾の下部には、魔物を思わせる恐ろしげな顔がついている。四つの台座に彫られた紋章は合計八つ。この八つの紋章が一連の意味をなすためには、天蓋に向かって左前方の紋章から時計まわりに、天蓋の周囲をまわりながら見ていく必要がある。注目するのはとくに三点。盾につけられた女性と魔物の表情、そして盾部のふくらみの変化だ。
ひとつめの紋章。女性の顔はわずかに眉をひそめうつむきかげん。ほのかにほはえんでいるようにも見えるがどこか哀しそうでもある。いっぽう魔物はといえば鼻をもたげ、下唇を下方に大きく開き、上機嫌な酔っぱらいのように笑っている。つぎに盾部だが、前から見ると全体的にこんもりとしているだけに見えるが、真横から見てみると意外な形が浮かび上がる。蜂二匹のついた上部が蜂一匹のついた下部に比べ、明らかに山形に盛り上がっているのだ。その上方にある女性の横顔から目線を下げていくと、盾のふくらみがじっに女性の身体のラインを描いていることに気づくであろう。上部に並んだ蜂二匹はふたつの乳房を、下部の一匹はへその位置に相当する。となると、位置関係から考えて、はたしてこの魔物はいったいなにをあらわすことになるのか。
ふたつめに進もう。彼女はさらに眉をひそめ、なにか言いたいことがあるかのように口を開いている。いっぽう魔物の下唇は消え、持ち上がった鼻の中央にあいた穴が口とつながり、顔のまんなかにみぞが開いたようになっている。そして盾はというと、下部、いやその腹部が乳房の高さと等しいほどに盛り上がってきているではないか。
さて三つめである。微妙な違いではあるが、いまや腹部は乳房よりも突き出ている。いっぽう彼女の表情といえば見るにたえない。眉の間には深い苦悩のしわが刻みこまれ、無言の絶叫をあげているのだ。こころなしか一気に老けこんだようにも見えるのは、ロが大きくあけられ、頼の筋肉がひきつったせいであらわれた深いしわのせいであろう。魔物の頼も同じようにひきつっている。みぞ状に変化した彼の口はその中央部が引き締められ、下のほうが広くなっている。そしてここにきて気づくことがひとつ。彼の頬がまるで骨盤のように見えることである。
つぎへ進もう。魔物のロはさらに縦に長く伸び、まるで脊髄の一部のようにも見える。彼女は疲れ切った顔ではあるが、もはや叫んではいない。ただ目の下がげっそりとくぼんでいる。腹部と乳房の高さは同じくらいに戻ってきたようであるが、微妙な変化で見てとりにくい。
五つめの彼女はふし目がちではあるが、すこしばかりほほえんでいるようにも見える。いっぽう魔物の変化が大きい。大きく伸びていた口(みぞ)が閉まりはじめ、鼻部が再度あらわれている。頬と思わしきふくらみも戻っているが奇妙に縦長のかたちだ。言い切っていいだろう。これは女性の性器にあまりに似ている。
六つめ、腹部も胸部もふくらみをほとんどなくしている。彼女はやっと顔を上げるが、やはりまだ苦しそうである。いっぽう魔物の細く吊り上がった目はきつく閉じられ、女性性器に酷似していた彼の頬の盛り上がりは消え、口は顔の下のほうに遠慮がちに小さく閉じられている。
七つめの浮き彫りのなかで、彼女はようやっと明らかにわたしたちに顔を向ける。髪はざんばらに乱れ、眉を苦しげに寄せてはいるがまなざしは強い。小さく開けられた口はやはりここでもなにかを語りたがっているようだ。呆然としているようにも見えるし、なにかをあきらめざるをえない悔しさを押し殺している表情にも見える。哀しい顔だ。彼女の身体、盾からは、女性特有の丸みは消え、味気のないただの盾となりつつある。いっぽう魔物はまぶたを閉じ、深いしわの刻みこまれ
た静かな表情をしている。
最後の台座に進もう。その変化は劇的だ。まず魔物の顔ほすっかり老人の顔となり、女性性器の大陰唇に酷似していた頬のふくらみは、いまや口の両側に伸びる長いヒゲに変化してしまった。古い森に住む物知りな魔法使いといった感じで、父性すらかもしだしている。いっぽう盾部はといえばすっかりふくらみをなくし、いまやほぼ平坦といっていいほどの浅いカーブを描いているばかりである。そして「彼女」は、もういない。彼女のいた場所にはかわりに小さな丸っこい顔がのぞいている。リンゴの頬。くるくるの巻き毛。下を向いてはいるがはっきりとわかる。それはほほえんでいる子どもの顔である。
苦痛に叫ぶ女性の顔。大きく開いては閉じていく生殖器。そして最後にあらわれる子どもの顔。この一連の浮き彫りが出産シーンをあらわしていることはまずまちがいない。ただ法王がミサをとりおこなう場所にもかかわらず、あまりにも女性性器の描写が細やかだったり、切るように痛々しい女性の表情がちりばめられているものだから、この浮き彫りの意味するところをめぐり、数世紀にわたって人びとの想像力に火をつけるところとなったのである。
作者の名はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。わずか二十五歳でこの天蓋の製作を任され、以後法王の芸術家としてサン・ピエトロ大聖堂の内装から、284本の柱からなる回廊をもった聖堂前の広場の製作まで指捧をとったのが彼である。また有名なトレビの泉も彼の作品だ。古代ローマの遺跡群とともに、ローマの街に特異な表情を与えている、豪華さと人を驚かすエンターテインメント性がきわだつバロック芸術の生みの親だ。
さて、例の出産シーンにかんしての伝説や仮定はいくつかある。ひとつめの伝説は、当時妊娠していた法王ウルバーノ八世の姪が寄進したというもの。無事出産を終えることができたら、ベルニーニがその吉事を台座に刻むことになっていたというものだ。しかし、出産の最後の瞬間までつづくあの苦しそうな表情は、吉事の記念としてどうかとも思うし、なにより性器をリアルに措かれることを名家の姫が承知したとは思えない。
宗教的な意味合いからの仮説もある。新約聖書のジョバンニ(ヨハネ) の福音書にある、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることばできない」 や、「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時がきたからである。しかし子どもが生まれると、ひとりの人間が世に出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」などのフレーズからインスピレーションを受けたとするものだ。宗教的な再生も生き物としての誕生も、どちらも楽なものではなく苦痛を伴うものと解釈すれば、あの彼女の苦しげな表情は説明がつくかもしれない。


ほかに、苦節9年間をかけた天蓋の製作期間を妊娠期間になぞらえ、天蓋完成後に記念としてこの浮き彫りを刻んだとする説もある。しかし、万が一その作業段階で台座にヒビでも入ったときには取り返しがつかない。めったにだれも気づかないであろうヒビが、完成後のある胸像に入っているのを発見したベルニーニは、丸ごとその胸像をつくりなおしたという。11メートルのブロンズの柱をまた立て直さなければならなくなる、そんなリスクをベルニーニが犯したろうか。
さて、数ある伝説のなかでもっとも有名なのがつぎのものである。 若きベルニーニは、時の法王ウルバーノ八世の姪と恋仲になり、ふたりは結婚を考えるまでにいたった。しかしいくら天才的とはいってもしょせん生まれの低いベルニーニと、ローマでもっとも権力をもっていた家族出身の姪っことの結婚を、法王はけっして許そうとはしなかった。しかし法王の反対にもかかわらず、彼女はついに身ごもり、ベルニーニの子どもを産み落とす。しかしこのことがさらに法王のいら立ちをあおることとなってしまい、ふたりは結局、法王によって引き裂かれるのである。ベルニーニはこの若き日の苦い経験と報われなかった愛を、天蓋の台座の石のなかに永遠に封じこめたという。
いかにも人びとが好みそうなメロドラマである。しかし、もしもこれが事実であれば、今も昔も大のうわさ好きのローマっ子たちが黙っていたわけがない。しかしそういった資料はいまのところみつかっていないのだ。いっぽうベルニーニの後援者であった法王ウルバーノ八世とベルニーニの関係については、時のローマっ子たちはこううわさしていた。
「法王は起きている間ベルニーニを片時もはなさず、やれ新しい教会だ、やれ新しい式典の準備だと設計図をのぞきこんでいる。ベルニーニがシーツをかけてやらぬかぎり寝床にもつかぬ」
法王という絶対的な権力者を後援者としてもつことで、この法王の在位した二十年間というもの、ベルニーニは各地からローマに集まってきた芸術家たちの実質的独裁者でありつづけた。彫刻や絵画という一点ものの作品をつくる芸術家というより、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋や広場など、とてつもなく規模の大きな芸術的建設事業の監督となったベルニーニは、そこで必要とされる労働力としての芸術家の選択権をもっていた。
法王の発注した仕事につくことは、芸術家にとっては人生のチャンスにほかならない。給料が安かろうが自分の名前が表に出まいが、いつか法王にお目通りがかなうはず、と願って働きつづけた無名の芸術家が何人もいたことであろう。しかしベルニーニは法王の寵愛をほかのどの芸術家にも分け与える気などさらさらなかったようだ。「彼が金を手にするのに腹は立たない。しかしわたしの労苦をおのれのものとして誇っていることが口惜しい」。ベルニーニとともにバロック芸術の旗手といわれたボッロミーニの言葉である。うわさ好きのローマっ子の目を盗み、これほどの 「おいしい立場」と引き換えにしてもよいと思えるドラマティックな恋を、ベルニーニがしていたと考えるには、やはり多少の無理がある。
ではこの伝説は事実無根のまったくの想像なのか、といえばそうではない。法王が「待った」をかけた若き日のベルニーニの恋は、たしかにあったのである。
1628年、天蓋のブロンズの柱が大理石の台座にようやっと立てられた翌年、ベルニーニはミケランジェロの丸天井を支える四つの巨大な柱の装飾にかかわる新プロジェクトを始動させた。そのプロジェクトのチームにマッテーオ・ボヌチェッリ(もしくはボナレッリ)というトスカーナ地方出身の三十代の男が加わった。彼もひとかどの芸術家ではあったのだが、なによりも彼の恵まれていた点はその妻であったという。生気に満ちた強さと甘さをかねそなえた顔、頭の上で束ねられたカラスの羽のように真っ黒な髪、胸元からこぼれるはじけんばかりの胸。その名をコスタンツァといった。
ベルニーニとこの人妻の問にいつ特別な感情が生まれたのかを限定するのはむずかしい。夫人が、夫の彫った天使の像が見たい、あっちの天使の像の試作品が見たい、と言いながら、夫とベルニーニの働くサン・ピエトロ大聖堂の工事現場に足しげく通いはじめたころは、ふたりの関係はまだただのうわさでしかなかった。しかし1635年(一説によると1636年から1638年の間)、ベルニーニがフィレンツェのパルジュッロ美術館にいまも残るコスタンツァの胸像をつくったころには、ふたりの関係は決定的なものとなっていた。
胸像のコスタンツァは乱れ髪を軽くまとめ、かすかに眉をひそめ眼光鋭く、おちょぼ口ではれぼったい唇を、これからほほえもうとするその直前の瞬間といった感じで薄くあけている。寝巻きのような薄もののシャツの胸元のボタンは外されており、胸の盛り上がりが見え、あごの下にも十分に肉のついたその顔は、彼女の肉体がかなり豊満であったことを想像させる。貴族の女性のつくり上げられた美しさというより、太陽の下で汗をかき、服装の乱れも気にせずに働く農婦か洗濯女の色香(事実、彼女の父親は馬丁であった)。ベルニーニはこの胸像をみずからのために製作し自宅に飾っていたのだ。
恐れるものをもたない独裁芸術家と、彼のアシスタントの「妻」との関係は、貞操観念と男性にたいする劣勢、従順のみが女性に求められていた時代ではあったが、結局のところ夫のふがいなさの反映でもあり、ローマの南国的な開放感も手伝って、それを表立って批判する向きはあまりなかったようだ。ベルニーニが1628年からたずさわっていた法王の墓碑の製作にあたり、その一部をなす「慈愛」の像、乳房を赤子に含ませている女性像のモデルにコスタンツァを選んだときも、法王はあえて反対はしなかった。自分のお気に入りの芸術家の愛人(しかも人妻)の半裸の姿がみずからの墓に後世も残ることに同意したのである。そのころに製作されたと思われる一枚の油絵がベルニーニの家にあった。画面にはふたりの肖像が描かれている。鏡に映ったコスタンツァを見つめるベルニーニの自画像であった。
ともあれふたりの蜜月は1638年までつづき、三文芝居的終局を迎える。コスタンツァがベルニーニの十三歳年下の弟ルイージとも関係をもっていたことが発覚したのだ。ふたりにかんするあらぬうわさを耳にしたベルニーニはある晩、翌日は郊外に出かけると嘘をつき、翌朝大聖堂の裏にある自分の工房に向かった。工房とコスタンツァの家とは目と鼻の先である。そしてそこで、着衣の乱れたコスタンツァに見送られ、彼女の家から出てくる弟の姿を目撃したのだ。
その後のベルニーニの行動は、感情的というにはあまりに凶暴なものであった。弟のあとをつけたベルニーニは、サン・ピエトロ大聖堂で鉄の棒片手に弟に追いつくと、肋骨を二本折るほどの勢いで殴りつけた。もしも通りがかりの人間がベルニーニを押さえなければ、きっと実の弟をたたき殺していたことだろう。しかしそれだけではない。家に戻ったベルニーニは、使用人にギリシャワインの大ビン二本と剃刀を用意させるとこう言ったのだ。「わたしからの贈り物だといってコスタンツァのもとへこのワインを持っていき、チャンスをみはからって彼女の顔を切り刻め」主人の命令にとりあえず使用人は従うが、彼女には運のよかったことに、この使用人には女の顔を切り刻む勇気がなかった。結果、傷害未遂のためこの使用人は追放となり、ベルニーニには罰金がかせられた。しかし「芸術の才すばらしく、まれなる人材で、ローマに栄光の光をさずける」という理由で、法王はベルニーニに無罪放免を言い渡した。
しかし、まだ終わりではなかった。無罪放免を言い渡されたベルニーニは、再度弟の命をねらったのだ。むき身の剣を持って家に入ったベルニーニは、泣いてとりすがる母に見向きもせずに弟を追いまわし、弟が表に飛び出すと、そのうしろを剣を振りかざしながらサンタ・マリア・マッジョーレ(Santa Maria Maggiore)教会まで追いかけ、ベルニーニの剣幕と権威にしりごみする聖職者たちをしりめに、悪言雑言をはきちらしながら教会内で弟を殺そうとしたのだ。ルイージはほとほと運の強い男とみえて、このときにも命は助かっている。哀れなのは、兄弟で殺しあう息子たちを見てしまった母親であろう。「まるで自分がこの世の支配者であるかのようにふるまう」この偉大だが尊大な息子を、なんとかしてやってくれ、と法王に直々の嘆願書を送ったのだった。
法王みずからがベルニーニを「更生」させるためにのりだし、ベルニーニがその説得に屈したのは1639年5月のことである。法王推薦の司教区弁護士の娘カテリーナ・テーツィオと結婚式をあげたのだ。ベルニーニ四十歳、カテリーナ二十歳。この親子ほども年のちがう妻との間に、ベルニーニはじつに十一人の子どもをもうけることになる。結婚の翌年、ベルニーニが昼に夜に愛でていたであろうコスタンツァの胸像が、フィレンツェのメディチ家にひきとられた。新妻がその存在をよかれとしなかったのは想像のつくところである。ベルニーニは快諾したのだろうか。おそらく妻の手前そうであったろう。いや、彼がみずからそうしたのかもしれない。実の弟との裏切りという形で彼との関係を踏みにじった女だ。しかももともと人妻ではないか。三人の男を手玉にとった悪女の顔など見たくないのが当然だ。
しかし、実のところ、彼の心中はいかばかりのものだったのか。
コスタンツァの胸像がベルニーニ家から消え、長男ピエトロが誕生した1640年、ウルバーノ法王の墓碑の一部である「慈愛」 の像の製作がはじまる。コスタンツァをモデルにしたあの半裸の女性像だ。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋の後方、聖堂のもっとも奥まったところに、精霊のシンポルである鳩が陽光を背に光っている。そのすぐ右手にあるのが法王ウルバーノ八世の墓碑である。礼拝用の木製の長椅子がつねに並べられているため、残念ながら近づくことばできないが、双眼鏡でならなんとか見えるかもしれない。最上段で祝福のポーズをとる法王の両脇に女性がひとりずつ立っている。奥が「慈愛」だ。製作された当時はむきだしになっていた左の乳房は、後世になって検閲にひっかかり、しつくいの布で隠されてしまった。その布越しの乳房に男の赤子が頬と唇をよせている。いっぽう彼女の右側には、子どもが泣きべそをかきながら彼女の衣服にしがみついており、彼女はその子どものほうに頭をかたむけ、それを優しく見下ろしている。ふくふくとした手の甲や丸みを帯びたあごのラインから、どちらかというと肉づきのよい女性像であることがわかる。低いところでゆるくまとめられた髪。そしてちょっとすねたように突き出された唇の厚いおちょぼ口。
コスタンツァだ。
モデルを変えることはいくらでもできたろうに、いちどはその顔を剃刀で切り刻もうとまでした女の顔と身体を、ベルニーニは慈愛像に彫りこんだのである。それだけではない。四年にわたるこの像の製作期間中、長男ピエトロは働く父の周りにちょこちょことまとわりついていた。また完成の年までに、ベルニーニにはさらにふたりの子どもが生まれている。つまり慈愛を象徴するコスタンツァが抱いている子どもは、ベルニーニの子どもたちがモデルである可能性が高いのだ。ベルニーニはこの像のなかに、コスタンツァが自分の子どもを産み、それを法王が祝福するという実現できなかった彼の夢を彫り込んだのか。それともあの伝説のように、コスタンツァはベルニーニの子どもを身ごもっていたのだろうか。彼がよく知っていたコスタンツァの像はもう彼の家にはない。同じ顔の、しかし魔性をすっかりとりのぞかれた美しいコスタンツァの姿だけが、大聖堂に残った。
妻に遅れること七年、ベルニーニが八十二歳に十日足らずで息をひきとったとき、主のいなくなった彼の部屋から半分に引き裂かれたあの油絵が見つかった。残っていたのはベルニーニの自画像の部分のみである。鏡のなかのコスタンツァがいつ、どこへいったのかはだれも知らない。
あの天蓋の台座の謎は、伝説と理論の間できっといつまでもゆれつづけるのだろう。ベルニーニが愛と憎しみの間でゆれていたように。

ローマ・ミステリーガイド
市口桂子

Vatican-6.Vatican
その他

 ???クリスティーナ女王滞在の時に、??? この項未確認
  教皇との単独謁見の際の特別の椅子
  ベルヴェデーレの中庭を見下ろすヴェンティ塔に部屋を提供される。その部屋の調度、ベッド

  空色の布張りと銀の台座を持つ駕籠椅子
  宴会に招待されたときのテーブル

003-001ヴァチカンの蜂の噴水「蜂の噴水」Fontana delle Api in Vaticano
1625-
ボッロミーニの作

Vatican-3.Pallazo Pontificio
教皇宮殿(非公開)

002-001教皇宮殿1.王の間 Sala Regia
9.君主(公爵)の間 Sala Ducale
10.パオリーナ礼拝堂
Capella Paolina
18.王の階段 Scala Regia
19.大聖堂のアトリウム
Atrio della Basilica di San Pietro
20.コンスタンティヌスの騎馬像
Statua di Constantino
21.コンスタンティヌスの前廊
Portico di constantino
22.青銅の扉、教皇宮殿の入口
Portone di Bronzo

1.王の間 Sala Regia

 

9.君主の間 Sala Ducale
002-002君主の間002-006君主の間2アーチ装飾 1656-57 漆喰

2007.2確認不可


10.パオリーナ礼拝堂 Capella Paolina

 

18.スカラ・レージア
002-003スカラ・レージア1663-66
スカラ・レージアは、ヴァチカン宮殿の儀礼用玄関(アトリウム)から教皇居室(王の間)まで通じている。ベルニーニが1666年にこの堂々たる階段を完成する以前は、教皇はパオリーナ礼拝堂からシスティーナ礼拝堂を通ってサン・ピエトロ大聖堂のポルティコまで、暗く狭い階段を下りて行かなければならなかった。限られたスペースしか利用できず、光が入らないために生ずる課題を解決するために、ベルニーニは自分の主要な技術的業績というほどの工夫を凝らした。
002-004スカラ・レージアのデッサンこの階段は昇るに従って幅や高さが狭められているため、透視図的な効果が一段と強調されて、実際以上に長大な階段であるかのような錯覚を起こさせる。通路の両側に列柱が適当の間隔を置いて並ぶのは、列柱美を発揮するとともに透視的効果を倍加させる。

19.大聖堂のアトリウム

 

20.コンスタンティヌスの騎馬像
002-004コンスタンティヌスの騎馬像1662-68
非公開ではあるが、大聖堂アトリウム(玄関)の右手からガラスの扉越しにみることができる。
皇帝の前に不意に十字架があらわれ、お告げを受けた皇帝の驚きと信頼を表現している。壁に付けられているために、後ろ脚で立つ騎馬像という課題が難なく解決されている。

21.コンスタンティヌスの前廊

 

22.青銅の扉、教皇宮殿の入り口

 

Vatican-2.Piazza San Pietro

002-100
アレクサンデル7世(1655-67)が教皇に選出される以前に、すでに彼とベルニーニの両者でコロンナートの構想をしていたと思われる。1656年、教皇は即位後間もなくベルニーニを招いて、彼及び建築委員会と大事業をいかに達成するかについて議論を開始した。
 検討すべき多くの課題があった。ピアッツァ・レッタと呼ばれる、大聖堂ファサードの通路に挟まれた台形のスペースを残し、また前廊(ポルティコ)の北のヴァチカン宮殿への旧玄関口を残す必要があったヴァチカン宮殿の、教皇祝福が与えられる窓は、可能な限り群衆から見える必要があった。
また公式儀礼の際に、教皇が祝福「ローマ市と世界の信徒へ」を与えるのに使用する、大聖堂中央入口の上の祝福の開廊(ロッジア)も同様であった。このためベルニーニは、信者たちが全能の神の抱擁を受けるための場所として広場を取り囲まねばならないと考えた。柱廊は、抱擁する両腕の象徴となるべきであった。



ベルニーニののプランの前の広場:Istituto Massimo所蔵

ベルニーニののプランの前の広場:Istituto Massimo所蔵

サン・ピエトロ広場の設計図

サン・ピエトロ広場の設計図




001-002サンピエトロの平面図1.円柱列回廊(コロンナート) 1657
2.祝福のロッジア
3.エジプトのオベリスク
4.ベルニーニの噴水
5.マデルノの噴水

1.コロンナート 1656-67
設計全体の幾何学的中心は広場中央のオベリスクで、噴水は場所を移動して対となる噴水を新たに造り、左右のバランスをとった。ベルニーニは、長く低い二つの通廊を大聖001-004コロンナートが一本に見える点堂から張り出させて、ピアッツァ・レッタのスペースを狭くすることによって、マデルノ設計の大聖堂正面(両端で未完のまま放棄されているベルニーニの鐘塔の基部があるので、いっそう横幅が広がった)が与えた、左右の横幅ばかり大きくて高くないという印象を、きわめて巧妙になくしてしまった。さらにベルニーニは、円柱列回廊(コロンナート)に囲まれた広場を長径240mの楕円形にすることによって、その幅を実際よりも短く見えるようにした。この楕円は二つの完璧な円からなっており、オベリスクとそれぞれの噴水の間の円の中心から見ると、4列の柱が重なり1列に見える。

所蔵不明:聖アグネスのモデル

所蔵不明:聖アグネスのモデル

廻廊には門の類は設けられず、そのまま参道に通じて真っ直ぐにテヴェレ河に達するが、当初の計画では参道に沿って更に廻廊を延ばす予定であったという。
完成したのは1667年。
コロンナートは、石灰華の4列のドーリア式円柱284本と、一列に並ぶ巨大な天使群3.2m 140体を支える付柱からなる。



コロンナートの初期の構想案を示すメダル
005-069コロンナートの初期の構想案を示すメダルガスパーレ・モローネ・モーラ作
1657年8月に行われた柱廊の起工式を記念して鋳造された。表には、アレッサンドロ7世の肖像が表されている。柱廊の柱には対の二本柱が予定され、また広場の入口に第三の柱廊が構想されていたことがわかる。

4.ベルニーニの噴水
001-004ベルニーニの噴水南側の噴水。北側の噴水(1613年カルロ・マデルノ作)をほぼ正確に模倣したもの。こちらが年代は新しいが、北側の噴水が柱廊で保護されているのに対し、北風をまともに受けるのでより古く見える。ベルニーニ作とする説を疑問視して、カルロ・フォンターナの作とする者もいる。


001-003サン・ピエトロの噴水のスケッチ


 

クレメンス9世の鷲の紋章のスケッチ
001クレメンス9世の紋章広場の正面玄関にあるとなっているが、不明
1668年
Istituto Nazionale per la Grafica所蔵

Vatican-1.San Pietro

000-001サン・ピエトロ大聖堂と広場1452年にニコラウス5世は、コンスタンティヌス帝が320年頃に建てた,初の聖堂を建て直すと決めた。しかし実際の工事は,1506年にユリウス2世の下でブラマンテの設計で始められた。ブラマンテの後に,ラッファエッロ,バルダッサッレ・ペルッツィBaldassarre Peruzzi,およびアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネAntonio da Sangallo il Giovaneが設計を継承し,長い間ギリシャ十字式設計(十字の縦横の長さが等しい)となるのかラテン十字式設計(十字の縦の方が長い)とするのか定まらなかった。1546年以降はミケランジェロに設計が委託され,ギリシャ十字設計で高部にはクーポラを造り,広場の中央に置かれた大聖堂が設計された。彼のあと,設計はヴィニョーラVignola、ピッロ・リゴリオPirro Ligorio,ジャコモ・デッラ・ポルタ Giacomo della Porta,および,ドメニコ・フオンターナDomenico Fontanaに受け継がれた。1607年、パウルス5世の命で,力ルロ・マデルノはラテン十字に戻すことにし,教会の前方の袖を延ばし,内部に脇の3礼拝堂を加えた。さらにマデルノは,フアサードも制作した。
1626年11月18日,ウルバヌス8世がこの大聖堂を献堂した。 NTTガイド p195

ヴァチカンにおいてベルニーニは次のように加わっていく。
1624年、ウルバヌス8世に命じられてバルダッキーノの制作を始めたのが最初で、1629年にカルロ・マデルノが死去したため、サン・ピエトロの主任建築士となり、ファサードの改築と大聖堂内部全体の構成、装飾をも任される。
大聖堂内部バルダッキーノ制作
  〃 聖ロンギヌスらの柱の装飾
私の子羊を飼いなさい
ウルバヌス8世の記念碑
マティルダの墓
ファサードの改築(鐘楼案)

1644年にウルバヌス8世が死去しイノケンティウス10世が教皇になると、ベルニーニはヴァチカンから遠ざけられ、ボッロミーニがその地位につく。

1656年にアレクサンデル7世が教皇になると再びヴァチカンはベルニーニのもとになり、改めて広場の建設と教皇宮殿の整備改築を担うことになる。
コロンナートの制作
教皇宮殿の改築
大聖堂内部玉座の祭壇制作

1673年にクレメンス10世が教皇になっても引き続きベルニーニはヴァチカンの主であり、新たにサクラメント礼拝堂のチボーリオの制作を含む装飾を任される。