噴水のデザイン
1652-3年に宮殿の庭のために3つの噴水のデザインをした。実際の制作は地元の職人があたったために、クオリティはよくないらしい。だが、そのためにかなり親切な設計図を送ったらしい
http://www.sassuolonline.it/palazzoducale.htm
トリトーネの噴水
ネプチューンの噴水

トリトンに寄りかかる女神の噴水

噴水のデザイン
1652-3年に宮殿の庭のために3つの噴水のデザインをした。実際の制作は地元の職人があたったために、クオリティはよくないらしい。だが、そのためにかなり親切な設計図を送ったらしい
http://www.sassuolonline.it/palazzoducale.htm
トリトーネの噴水
ネプチューンの噴水
ベルニーニとボッロミーニというバロック芸術の巨匠が、才能を競っているようなこの広場は、ローマ屈指の魅力を誇る。ドミティアヌス帝(81~96年)が建設したローマ最初の競技場のトラック跡である。1645年に即位した教皇イノケンティウス10世は、出身のパンフィーリ家の栄誉のために広場を改修した。ウルバヌス8世がバルベリーニ家をたたえてクィリナーレの丘を改修した例に倣ったのである。パンフィーリ宮とサンタニューゼ・イン・アゴーネ教会を再建、グレゴリウス13世の噴水2基を改修し、大規模な「4大河の泉」を建設した。
4大河の噴水 F.na dei Quattro Fiumi
1648-51
バロック時代の君侯が、ベルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス10世も4年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。
ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、15世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッッォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自家の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッッォとサン・タニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は70代半ぱの老人であり、まもなくボルロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。噴水はすでにグレゴリウス13世の時代に広場の両端に2基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行に移すには、まず多量の水が必要であり、そのためにはトレヴィの泉から水を引いてこなけれぱならなかった。この仕事は、本来ならぱ「ナヴォナ広場の水道・噴水監督官」および「アックワ・ヴェルジネの建築家」の二つの称号をもつベルニーニに任されるべきであった。だがここでもベルニーニに代ってボルロミーニが登用され、彼は1644年から3年かかってこの工事を完成させている。一方ずっと以前から、アッピア旧街道のマクセンテイウス帝の円形競技場跡にオベリスクの断片があるのが知られていた。そこで、このオベリスクを広場に運んで噴水の装飾に用いてはどうかということになり、その噴水装飾のプランを決めるコンクールが開かれたが、今度もやはりボッロミーニの案が選ばれた。ベルニーニはこのコンクールに招待すらされなかったのである。しかしベルニーニにも味方がいた。伝記作者の伝えるところによれぱ、ルドヴィーシ家の当主で、パンフィーリ家の女宰相オリンピアのむすめ婿であった旧友ニコロ・ルドヴィーシが、ベルニーニにも噴水のモデルを作るよう勧め、オリンピアにとりなしたのである(ある資料によれぱ、ベルニーニはオリンピアの気を惹くよう精巧な銀のモデルを作ったという)。オリンピアもこのモデルがいたく気に入ったので、ニコロ・ルドヴィーシはそれを教皇が食事の後に通る部屋に置いておいた。聖母の被昇天祭の日(8月15日)に祝祭行列を終えて食事に寄った教皇は、食事の後でモデルを見つけ、半時間もうっとりと眺めて、このデザインはベルニーニより他に考えられない。そしてこれはプリンチペ・ルドヴィーシのたくらみにちがいない。こうなっては、それを望まない者もいるようだが、ベルニーニを用いなけれぱなるまい。彼のプランを役立てまいと望む者は、これを見てはならないからた」と言った。そしてその日のうちにベルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の制作を命じたのである。こうしてボルロミーニは再び苦杯をなめ、ベルニーニはようやく第一線に復帰することとなった。
ベルニーニがナヴォナ広場に制作した《四つの河の泉》は、二つの構想から成っている。一つは、オベリスクの台座を中が空洞になった岩山にするというアイディアであり、もう一つは、それを四大河川の寓意像で飾るという「着想」である。マクセンティウス帝の円形競技場跡で見つかったオベリスクは、6つの断片に分かれていたので、つないで修復する必要があったが、そのかわりそれを立てるのには他のオベリスクほどの困難はなかったと思われる。それでもこの噴水の制作が大へんな作業だったことは、当時の資料が「その非常な困難と苦労とは、実際の作業を見た者でなけれぱ分からないと思う」と伝えていることからも想像できる。しかし不思議なことに、現実にこの噴水を前にしてこうした困難を感じることはほとんどないといってよい。我々はむしろべルニーニがやすやすとこれを成したように思うであろう。それは、実際には非常に重いにもかかわらず、オベリスクの重さがほとんど感じられないことに起因している。そしてこれは、オベリスクという幾何学的で無機的な物体の台座に自然のままの岩山を導入し、しかもその岩山の中を空洞にするという、いかにもベルニーニらしい卓抜なアイディアの賜物である。「魔術師」ベルニーニならではのすぱらしい「舞台装置」だといえよう。
ウィルゴ水道から水を引き、トレヴィの泉から給水されている「4大河の泉」は、1651年ベルニーニの作である。イノケンティウス10世の希望は、全体の統一感を損ねることなく、横長の空間に中心となる建造物を与えることであった。そこで、チルコ・マッシモからオベリスクが運ばれた。そこにはヒエログラフでドミティアヌス帝が81年に権力の座に就いたという公的記録が刻まれている。ベルニーニは、オベリスクの上に十字架を立て、全世界を象徴する4大河像が座る岩の上にそびえ立たせた。これはキリスト教の勝利を意味する。オベリスクはまるで宙に浮かんでいるように見え、大変印象深い。沸き上がるような躍動感はベルニーニ芸術の本領である。岩を背にする4大河像は、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川及びナイル川を表す。4大河の間には、洞窟が口を開き、ライオンやカバなどが見え隠れしている。噴水にはオリーブの小枝をくわえた鳩のデザインの教皇の紋章があしらわれている。 人物像はベルニーニの設計により助手たちが制作。オベリスクはローマ時代の模刻である。この噴水の建造費はパンを含む様々な日用品への課税によって調達されたので、当然広汎な抗議を招いた。
四大河の噴水第一デッサン
オベリスクは対角に置かれている。
所蔵不明
四大河の噴水第二のデッサン 390.
オベリスクが正面を向いて、河の神が教皇の紋章を支えている。
ムーア人の泉(モーロの泉) Fontana del Moro
ほかの2つの噴水は、いずれもジャコモ・デラ・ポルタが1575年に水盤のみ作り、19世紀に完成した。
南側の「ムーア人の泉」では、ベルニーニのデザインをもとにG.A.マーリが、イルカと闘うエチオピア人像(「黒人」モーロ)を水盤の中心に建てる。(ベルニーニ自身がモーロ像を制作したという説もある)水盤を縁取るデッラ・ポルタの装飾(4体の「勝利」の像、仮面の彫刻)は複製で、オリジナルはボルゲーゼ公園内の湖の庭園に移されている。さらに外側の水受け盤はボッロミーニのデザインに基づいて、ベルニーニが造ったものである。
第一のデッサンでは、パンフィーリ家の紋章を掲げるデザイン。第二のデッサンでは、いるかが貝を支えるデザイン。
北側の「ネプチューンの泉」は1878年に完成した。
かつてはこの広場でラーゴを楽しみ、そのプロデュースもベルニーニがやった。
トリトーネの噴水 fontana del Tritone
1642年から43年、(32~37年説)教皇ウルバヌス8世の命で、実家バルベリーニ宮の前の広場に造らせた。トリトーネはギリシャ神話の半人半魚の海神で、普通法螺貝を吹き鳴らす姿で表される。ベルニーニは種々の寓意を見事に結びつけて、この幾分曖昧な海神をトリトーネ広場と呼ばれていた場所の中央に据えて、パトローノに敬意を表した。トリトーネは、文学によって獲得された不滅性の象徴として使われた(ウルバヌス8世は才能豊かなラテン詩人であった。)4頭のイルカは、王侯の気前の良さを象徴した(ウルバヌス8世は優れた芸術保護者であった)。蜂は神の摂理の表象であった(同時に蜂はバルベリーニ家の紋章でもあった)。すべてが教皇その人を暗示するように配慮された。
1642年から43年にかけて、ウルパヌス8世が実家パルベリーニ宮の前に広がる広場に作らせた《トリトーネの泉》は、ベルニーニの噴水の中でも最も名高く、最も想像力に富んだ作品である。広場の大きさからするとごく小さく、また水も真上に噴き上がるだけという単純な趣向であるが、それにもかかわらずこの噴水は、広場を詩的でお伽話的な雰囲気でみたしている。その異教的雰囲気はオヴィディウスの詩句そのままだ。
海神は、三叉の鉾をおさめ、波浪をしずめ、海面に姿をあらわすと、肩にいっぱい貝殻をつけた、水いろの肌をしたトリトンをよびよせて、その法螺を喨々とふきならし、海の波や河川に合図をあたえて引きさがらせるようにと命じた。トリトンは、いちぱん内側の渦巻からしだいに外側にむかって大きくなっていく、そのまがりくねったラッパを手にとった。このラッパは、大海原の真中で鳴らしても、ポエブスののぽる東の岸辺にも、ポエブスの沈む西の岸辺にもひびきわたるのだ。このときも、トリトンが濡れたひげから水のしたたる口もとにラッパをあて、命じられたとおり「状況終り!」の号音を吹きならすと、そのひびきは、陸と海のすべての水たちの耳にとどいた。これを聞いたすべての水たちは、たちまちおとなしくなった。
(『転身物語』巻一、田中・前田訳)
スペイン広場には、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続くトリニタ・デイ・モンティ階段、通称「スペイン階段」が接する。 間近にあるスペイン大使館にちなんで命名された。設計はフランチェスコ・ディ・サンクティスによるもので、1725年に完成した。波を打つような形態はバロック的な効果をあげている。
船の噴水 F.na della Barcaccia
父親の作 1628~29年
礼拝堂の装飾とならんで、祝祭の体験が生きているのは、一群の噴水においてである。噴水はさながら都市の広場を舞台とする祝祭の装置のようである。いうまでもなく、この場合の主役は水だが、ベルニーニは光とともに水に関心を抱き、水を愛した。後年パリを訪れた彼は、ある夏の夕方シャントルーとともにポン・ルージュに散歩に出た。そして橋に着くと馬車をとめさせ、四半時飽くことなく川の様子を眺めて、「すぱらしい眺めだ。私は水とは大の友達だ。水は心を清めてくれる」と述べている。ローマは水の恵み豊かな都市であり、同時に噴水の都市である。ローマの魅力であるその舞台のような眺めに、噴水は欠くことができない。そう考えるならぱ、ベルニーニがローマに遺した最大の遺産は、彼が処々に作った噴水だともいえよう。
古代ローマは、壮大なスケールの水道施設のおかげて、豊かな水に恵まれていた。しかしこれらの水道施設が蛮族の侵人によって破壊されたため、給水の手段を断たれた中世のローマの人々は、カンポ・マルッィオ地区(今日のナヴォナ広場の周辺)を中心とした川沿いの低地に住み、テヴェレ河から採取して5,6日寝かした水を飲料水としていた。1453年に、ニコラウス5世がアルベルティに命じてアックワ・ヴェルジネと呼ぱれた古代の水道の一部を甦らせてからも、人々は毎日テヴェレの水を水売りから買わなければならなかったのである。ところが、16世紀の末にシクストウス5世がアックワ・フェリーチェを、そして17世紀に入ってパウルス5世がアックワ・パオラを建設するに及んで、ローマはようやく古代に比肩する水道の都市となる。当時ローマでは、これらの水道施設によって11万ほどの人口に対して1日18万立方㍍、つまり1人当たり1700㍑の水が供給されたといわれ、そのため当局は1850年まで新しい給水手段を考える必要がないほどであった。こうした豊富な水を用いて、都市の各所に噴水が作られた。しかしベルニーニが登場するまでの噴水は、主に建築家の手に成る、幾何学的形態を基本とした建造物であり、彫刻が添えられる場合にも単なる飾りとしてしか扱われない、想像力に乏しいものだったのである。
これに対して、ベルニーニが手がけた最初の本格的噴水は、スペイン階段の下に設置された《バルカッチャの泉》(バルガッチャは老いぼれ船の意)である。1628年から翌年にかけて作られたこの噴水は、ウルバヌス8世の紋章を掲げた船をかたどっている。水は船の端からも中央からも流れ出て、船内にたまった水は船ぺりからあふれ出るという趣向になっているが、楕円の盤に重そうに横たわるこの船は、比較的単純な形態でできているにもかかわらず、見飽きることがない。ウルバヌス8世はこの噴水をたたえて、「教皇の軍艦は砲火を放つかわり戦いの火を消す甘美な水を放つ」と歌ったと伝えられる。またバルディヌッチによれぱ、ベルニーニは噴水には何らかの高貴な意昧がなけれぱならないと考えていた。その点について言えぱ、この《バルカッチャの泉》は小船、つまり教会そのものを表わそうとしたものだとも、あるいはまさしくこの場所にあったことが知られていた、ドミティアヌス帝のナウマキア(船遊びや船のゲームをするための場所)にインスピレーションを得たものだとも言われている。あるいは、その両方の意味が込められていることも充分考えられよう。
BERNINIp96
かつては父ピエトロの最後の作品とされていたが、今日では息子の作とするのが一般的である。現在この噴水の優雅な背景となっているスペイン階段よりもほとんど1世紀早く1629年に完成した。水圧の乏しいヴィルゴー水道の水を利用する必要があったが、形状は両端に噴水出口がある老朽した小舟(バルカッチャ)の姿に見える巧妙な設計になっていて、船とあまり大きさの違わない池の中へ沈んでいきながら、舳先と艫から水が噴出するように考案されている。1598年の史上未曾有のテヴェレ川の洪水の時に、ピンチョの丘の現在スペイン階段がある傾斜面に漂着した小舟から着想が得られたといわれる。1598年のクリスマスには、ローマのこの一体は水深5~7.5mまで沈んだ。しかし「沈没する小舟」のテーマはすでにカルロ・マデルノが噴水に使っており、この着想はエウゲニウス4世(1431~47)の在位中にローマの南方ネーミ湖中におけるカリグラ帝の沈没船の発見によるものと思われる。
ROMAp314、地球p67
広場にある≪舟の噴水≫は,浸水で沈みかかった老舟を浅い水溜まりに配したもので,ローマのバロック噴水のなかでも最も目立たないものだ。というのも,水圧が非常に低いため,派手な吹き上げや滝もなく,噴水の縁に腰掛ける人々のせいで,まったく見えないことも多いからだ。設計は,有名なジャン・ロレンツォ・ベルニーニか,彼の父のピエトロといわれている。噴水を飾る「バルベリーニの蜂」と太陽は,この噴水の制作を依頼したバルベリーニ家出身の法王ウルバヌス8世の紋章である。
白ROMAp133
Sketch for a monumental staircase leading to Santissima Trinita dei Monti Studio per la Scalimata di Trinita de Monti disegno del 1660 cod.Chig PⅦ 10, c.30-31