Collegiata di Santa Maria Assunta
サンタ・マリア・アッスンタ大学

104-100


104-004最初の構想図設計建築
古代ローマのパンテオンに依拠した円形平面のこの教会は、アーチの並ぶ低層部分の上にドラムもなく直接に半球形ドームを載せたきわめて単純な形態を示している。
内部はドームが空間のクライマックスを演じており、賑やかなプットーや天使たちがドームのリブ間に掛け渡された花飾りを携えている。この教会は聖母マリアの被昇天に捧げられており、伝承によれば、その日、歓喜する天使たちは花をまいて祝ったという。つまりこの教会全体が、聖母被昇天の神秘劇をとり行う劇場空間に変容しているのである。
104-003S.M.スンツィオーネ教会の間取り図104-102


104-103104-002S.M.デッラ・スンツィオーネ教会のクーポラ

Palazzo Chigi
キージ宮

103-001キージ宮アリッチャガイド付き見学:
夏期間(4/1~9/30)
火曜~金曜11:00.16:00.17:30、
土・日・祝10:30.11:30.12:30.16:00.17:00.18:00.19:00
冬期間(10/1~3/31)
火曜~金曜11:00.16:00.17:30、
土・日・祝10:30.11:30.12:30.15:00.16:00.17:00.18:00
毎週月曜、1/1.2/9.復活祭、5/1.8/15.12/25は休み。
7€


キージ宮の改装
16世紀中頃にサヴェッリ家のために建築され、後にベルニーニとカルロ・フォンターナによって改修が行われた。4基の塔を備える城のような外観で、内部には17世紀の絵画と調度品がある。庭園は、アメリカ原産の針葉樹セコイアが数本と、16世紀の鳥小屋がある。
宮殿だけではなく、道路の整備等都市再開発も行った。


103-002幼児キリストと聖ジョゼッペ聖ジュゼッペと幼児キリスト
San Giuseppe con il Bambino Gesu
103-103


104-004最初の構想図S.M.デッラ・スンツィオーネ教会の最初の構想図

Piazza della Repubblica
共和国広場

102-100

中心の共和国広場はベルニーニの設計(1665)で、二つの噴水で飾られた小さいが魅力的な広場である。広場に面して建つのはキージ宮とS.M.デッラ・スンツィオーネ教会。



102-101102-102共和国広場
かつて、
piazza di Corte
コルテ広場と呼ばれた

Basilica di Santa Francesca Romana(Santa Maria Nova)
S.F.ロマーナ教会

067-1009:30~12:00、16:00~18:00


2007.2月工事中ではいれず。

1649年、多色大理石で造られた広い遺骨納室

フランチェスカの墓はローマ教皇ウルバーノVIII Barberiniの認可のために別の時間4月2日のnd 1638のために再開されました。
身体の第2の発明、それは再び服を着せられた、献身者のある程度のスーツ、必要、新しい礼拝堂maiorをS.マリア新星中の神聖なものに敬意を表して構築することができるために作られました。
僧は、ベルニーニにその実行を任せました、それは1649年に素晴らしい告白を劇場の形式への結論にもたらしました。
中心に、それは、熟考、胸(オープン・ブックを持った天使の固定外観)の上の反対の手でフランチェスカの彫像でした。
したがって、箱舟は、Innocenzo X(女性アガサPamphili)の姉妹から与えられて、金めっきのブロンズの大きなつぼを入れました、小さい岩山deのoblata」ミラー。
http://www.tordespecchi.it/public/index.php?Storia:Venerazione_e_culto

Chiesa di San Pietro in Montorio
サン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会

053-100via di S.Pietro in Montorio
9:00~12:00、16:00~18:30

9世紀頃に創建され、15世紀の後半にスペイン王フェルディナンドと王妃イザベラによって立て直された。
内部は単廊式。ライモンディ礼拝堂は左側。
中庭にはブラマンテのテンピエット。





053-010ライモンディ礼拝堂ライモンディ礼拝堂 Cappella Raimondi
1638-48
サン・ピエトロ・イン・モントーリオにある小さなライモンディ礼拝堂は、《聖フランチェスコの法悦》を表わす浮彫を納める祭壇と、両脇の壁につけられた2つの墓、そして《聖フランチェスコの昇天》を中心とするフレスコ画とストウッコによる天井装飾とから成っている。こうした礼拝堂装飾の実際の仕事は、この種の他の仕事と同様に弟子の手でなされており、そのため個々の作品の質はまちまちである。しかしながら、全体は完壁に調和して、ベルニーニのアイディアを見事に実現している。ベルニーニがここで意図したのは、礼拝堂全体をあらゆる意味で調和のとれた統一体にすること、そしてそれを聖フランチェスコの神秘劇の劇場にすることだったといえる。彼は注意深く各部と全体のバランスを考え、我々の注意が祭壇の《聖フランチェスコの法悦》を表わす053-016SPモントリオ12浮彫に無埋なく集中するように礼拝堂を設計している。そしてその浮彫を壁龕に入れるとともに、その左上方に窓を切って、浮彫を照らす光源としている。ベルニーニはすでに聖女ビビアーナの祭壇において同じような試みをしているが、ここでは隠された光源から入る光は完全に統御され、前者の場合よりも直接的に、そしてより効果的に用いられている。なお浮彫が初めから左上方の光を前提として制作されたことは、その構図を見れぱ明らかである。またこの左上方からの光は、浮彫全体に凸型のゆるいカーヴをつけるという独創的な試みによって、一層その効果を高めている。つまりこうした試みの結果、この浮彫は彫刻というよりも光と陰から成る類稀な絵画のように見えるのである。いいかえれぱ、この礼拝堂の主役は光そのものだということだ。当時聖フランチェスコの法悦は彼の聖痕と同一視され、その聖痕は神の光によって顕現したと信じられていた。したがってベルニーニが隠された窓から招じ入れた光は、この礼拝堂における視覚上の主役であると同時に、聖フランチェスコの神秘劇の真の主役たる神の光でもあったわけである。
053-015SPモントリオ11このライモンディ礼拝堂について、パッセリは「彼はいつもどおりの特異な才能によって、奇妙な新しさを建築に導入した」と述べている。反ベルニーニ感情の強いパッセリも、この礼拝堂の「新しさ」を認めているわけである。その「新しさ」とは、一言でいえぱ、彫刻と絵画を建築に融和させた点にあるといえる。いいかえるならば、建築空間を一つの劇場とみなし、その中で建築と彫刻と絵画とを融合させて演劇に比せられるような総合的作品を作ろうとしたのである。こうした意図をベルニーニ自身が述べた言葉は伝わっていないが、次のバルディヌッチの言葉は、ベルニーニのそれを反映しているとみてよいであろう。すなわち、「彼は全体が一つの美しい融合体をなすように建築を彫刻と絵画とに結びつけた最初の美術家である、と広く信じられている」。このように、ベルニーニは建築と彫刻と絵画とから成る一つの総合的作品をめざしたが、それはさまざまな素材や形態、そして光と色彩とが互いに響き合い、融け合うイリュージョンの世界である。こうした総合的視覚芸術の世界が、ベルニーニの演劇への傾倒と深く関係し、また彼の時代のスペクタクルと演劇の体験に根ざしていることは、誰の目にも明らかであろう。ライモンディ礼拝堂は、ベルニーニのこうした意図を実現した最初の作品なのである。

ビルデンデン美術館所蔵

ビルデンデン美術館所蔵

053-014SPモントリオ10  


053-012聖フランチェスコの法悦聖フランチェスコの法悦

フランチェスコ アッシジの 1182頃~1226(10月4日)I.Francesco d’Assisi. L.Franciscus Assiensis.
〔伝記〕聖フランシスコ会の創設者。アッシジの富商の息子。洗礼名ジョヴァンニ、母がフランス人であったためとか、彼がフランス語のバラードをとくに好んだところからフランチェスコとよばれたという。はじめのうち放蕩生活を送る。1202年アッシジとペルージアとの境界争いの戦闘に敗れて捕えられ、1年後帰国、数か月病床にある間に霊的方面に関心をもつ。全快後、同じ貴族のおちぷれた者に会い、着物を交換して帰った翌晩キリストが夢枕に立ち、修道を志すことに決意し、私財を貧者に分かつ。1206年廃嫡され、以後はもっぱら隠者生活を送り、アッシジ周辺の聖堂の修繕に当たり、質素な衣食住生活に甘んじた。コルデリア(Corde1ier)とよばれる同派の帯はその1例。1212年キアラが弟子となり、彼の指導のもとに聖キアラ会創立。1215年頃、シエナヘの旅中で貧しい3人の娘が現われ、挨拶が終わるや消えてしまった。これは神が下した純潔と服従と清貧の象徴であるとされ、〈清貧との結婚〉というテーマで芸術上表現された。聖フランシスコ会は1210年ローマでインノケンティウス3世から公認された。教皇が謁見した当夜、倒壊するラテラノ大聖堂を支える人を夢見て、それが昼間のフランチェスコであることを知り、翌日彼の修道会を公認したといわれる。清貧の他に彼の特性に「涙の贈物」がある。彼が自分の罪と全世界の罪のため絶えず祈り落涙したことに由来。1219年エジプトとシリアに宣教。1223年ホノリウス3世から教団の新会則を公認され、彼はアルヴェルナ山へ退いて隠棲生活するうちに、キリストの幻視や脱魂を得た。チェラーノのトンマゾによれば、1224年50日間の断食後脱魂のうちに6翼のセラフィムを通じてキリストと同じ聖痕を得た。このため13世紀初めの《聖痕拝受》では十字架が省かれているが、同世紀末の絵画ではボナヴェントゥラの伝記にもとづいてこれを磔刑のキリスト、またはこれに多翼をつけた十字架像と直している。没後2年で列聖された。
〔図像〕以上の伝記の他に、ろぱに乗った一農夫のため岩から清水を湧出させた奇跡、金曜日に鶏を送った悪魔に対して、これを魚に代えて報いた奇跡、回教徒の王を改宗させるため火の試練を提案した話など画題として採用されたが、フランチェスコの表現には、13世紀から宗教改革期までのジョット型とトリエント公会議に始まるトリエント型が考えられる。前者はもっぱらイタリア特にウンブリアとトスカナに多く中世的表現であり、後者は17世紀以降のもので国際性を帯び、スペインとフランスに見られる。持物はほとんど変わらず三つの結び目をもつ帯で、これは清貧、純潔、従順を象徴。また十宇架像を携えるが、特にキリストにならった両手甲、両足甲、横腹(右のその部分が時に卵型にくりぬいた修道衣によって明示される)の聖痕は独特。真の肖像は乏しく、初期の伝記作家チェラーノのトンマゾが描いたといわれる肖像や、スビアコの聖スペコ聖堂のフレスコ画がそれとされるが不確か。色黒く目を患う小男で風采のあがらない容貌の持主だったらしい。ジョットは無髯の理想形を伝説の場面に描いたが、17世紀以降ヴェネツィア派、ボローニャ派、スペイン派は有髯の写実形として、茨の茂みに転び、その血で赤ばらを生じた奇跡の場面(罪人救済を意昧する)、聖母から聖児を受け取る場面、十宇架のキリストを抱く場面など神秘的、象徴的な場面に、むしろ苦行者のフランチェスコを描写した。聖痕の他に百合(純潔)、どくろ(反宗教改草期に人間の可死性を象徴して特に表現された)を持物とする。彼の説話画としては《フランチェスコの前に外套を広げて将来を祝す人》《貧しい兵士へ外套を与えるフランチェスコ》《軍旗で飾られた邸の幻想》《アッシジの聖ダミアーノ聖堂で十字架像を礼拝》《父の前で美服を脱ぎすて、裸身となって敦会へ入る〉《ラテラノ大聖堂を支える夢》《清貧との結婚》《火の試練》《鳥獣への説教》《グレッチョのクリスマス・ミサで幼子イエスを抱く奇跡》《聖痕拝受》《死》などがある。

053-019SPモントリオ4053-021SPモントリオ6053-013SPモントリオ1

S.M.トラステヴェレ教会所蔵

S.M.トラステヴェレ教会所蔵


053-022SPモントリオ7053-023SPモントリオ8

Chiesa di San Francesco a Ripa
サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会

051-1007:00~12:00、16:00~19:00
日・祝 7:00~13:00、16:00~19:30
http://www.sanfrancescoaripa.com/

1231年創建。17世紀後半にM.デ・ロッシによって再建された教会。



051-101アルベルトーニ礼拝堂 Chapella Albertoni
左の側廊の入口から4番目のアルベルトーニ礼拝堂に「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」がある。
ルドヴィカ・アルベルトーニ(1473~1533年)は、生前貧しい人々の救済に献身し、1671年に福者に列せられた。これを記念して福者の同族であるパルッツィ・デリ・アルベルトーニ枢機卿が、この教会にあった同家の礼拝堂に聖女の像を造るようにベルニーニに依頼したもの。神との一致という法悦状態を表しているかのような顔の表情、衣のひだの乱れ、さらにこの像が飾られている祭壇の奥行きを深く見せようとする工夫、採光の方法、全体的な色彩感覚はベルニーニならではの造形。
このアルベルトーニ礼拝堂は16世紀に作られたもので、この教会の左翼廊部にある。ベルニーニはこの礼拝堂の奥に祭壇を設け、その両脇に窓を切って光を採り、祭壇には自ら刻んだ横たわる福者の像とバチッチヨの《聖アンナと聖母子》の絵とを飾っている。身廊の方から見ると、この祭壇装飾は暗い礼拝堂の奥に、あたかもそこだけが神秘の光に包まれているかのように照り映えている。ことに大理石のルドヴィーカの像はやわらかな光を漂わせ、まことに神秘的だ(この礼拝堂におけるほど教会の照明が作品の効果を慣う例はない。もしライトがついていたら、消してもらうべきである)。その効果はライモンディ礼拝堂やコルナーロ礼拝堂の場合に似ているが、前者よりは一層集中感があリ、また後者とは比較にならないほど構想が単純である。それゆえ、我々はそこによリ深い宗教性と神秘を感じるのである。そしてこうした効果に、ベルニーニ一流の色彩に対する配慮が貢献している点も見逃すわけにはゆかない。つまリ彼は背景に絵を据え、台座の布に色大埋石を用いて、白い大理石の像がよく映えるように工夫しているのである。そしてルドヴィーカの像自体も、衣襞を大きく深く刻むことによって、その石の肌を透けてとおったリ、あるいは表面に漂ったリする光の効果を有効に引き出し、それによって、この像の神秘的表現を達成しようとしているのだ。

051-102福者ルドヴィカ・アルベルトーニ Beata Ludovica Albertoni
晩年 1670-74
ベルニーニは今や70歳を過ぎ、1673年には妻に先立たれた。にもかかわらず、彼の創造力は衰えを見せなかった。あまり気勢の上がらなかったクレメンス10世時代にも、彼はいくつかの優れた作品を制作している。その筆頭にあげるべきは、福者ルドヴィーカ・アルベルトーニの像であろう。この作品は、ローマのトラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパという目立たない教会にある。そのため一般にはほとんど知られていないが、この時期のベルニーニの代表作ともいえる傑作である。この作品は、クレメンス10世が即位すると間もなく、パルッツィ・デルリ・アルベルトーニ枢機卿から依頼され、1671年から74年にかけて制作されたと考えられる。このアルベルトーニ枢機卿は、教皇の実家アルティエーリ家と姻戚関係にあリ、教皇が最も頼りにしていた人物であった。

一方福者ルドヴィーカは、1473年に生まれ、20歳の時にトラステヴェレ地区の貴族と結婚するが、13年間の結婚生活の後に夫を失い、苦労しながら3人の子供を育て上げると、宗教生活に入って、その貧者に対する献身で人々に福者として崇められた女性である。彼女は1533年に亡くなったが、その時作られた墓碑にはすでに福者ルドヴィーカと記されている。しかしながら、教皇庁がこの民間信仰を正式に認めて福者に列したのは、1671年1月、つまりクレメンス10世の時代になってからであった。

ヴィクトリア&アルバート所蔵

ヴィクトリア&アルバート所蔵

かくして自家が生んだ福者を記念すべく、アルベルトーニ枢機卿はサン・フランチェスコ・リーパにある自家の礼拝堂の祭壇装飾をべルニーニに依頼したのである。ベルニーニはルイージの事件の余波で、この仕事を無償で引き受けている。 ルドヴィーカは胸に手をあてて横たわり、至福を表情に浮かべている。この像の解釈には、福者の死の姿を表わしているとする説と、神との神秘的合一の状態を表現しているとする説とがあり、どちらともにわかには判じ難い。そのポーズは死の姿を表わしたマリア・ラッジを思わせるが、十字架をかき抱いたという、伝記作者の伝えるルドヴィーカの死の様とは符合しないから、後者の説を正しいとすべきかもしれない。ともあれ、この像に近づいて手の表現などの細部を観察すると、衰えざるベルニーニののみの力に心を打たれないわけにはゆかない。けれども、そうした表現力やドラマテイックな形態にもかかわらず、全体の印象には不思議なほど静かで深いものがある。イタリア彫刻に関する3巻の著書で名高いポープ・ヘネシーは、ベルニーニとパロック彫刻にはむしろ冷淡だが、彼のこの時期の作品には大へん好意的だ。たとえぱサン・タンドレア・デルレ・フラッテの天使像について、彼は「これらは我々に、劇作家や設計者の無神経な自惚れではなく、献身的な大理石彫刻家の控え目な声で語りかける」と記し、一方このルドヴイーカの像について、「これまでの時期には考えられなかったような、円熟味と見栄に対する蔑視とをもって作られている。彼がイタリアの最も偉大な美術家の一員として受け入れられるとしたら、それは最終的には聖女テレサでなく、この至高の像によるにちがいないのである」と述べている。筆者はベルニーニの作品に対するポープ・ヘネシーの評価には必ずしも同意できないし、この論述にも賛成しかねるが、それは確かに一つの見識だといわざるをえない。福者ルドヴィーカの像には、70代半ばの作とは信じ難い創造性とともに、その年齢にふさわしい精神的な深さがあるからである。
BERNINIp202

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

Palazzo della Cancelleria
カンチェッレリア宮

046-100教皇庁尚書院、内部見学不可。

1485年にラファエレ・リアリオ枢機卿が金に糸目をつけずに造らせたルネッサンス建築の代表である宮殿。レオ10世が、自分への陰謀を企てた枢機卿からこの館を没収し、以降、高位聖職者の住居となった。教皇の証書類を作成する尚書院も収容し、ヴァチカン直轄となり、治外法権を持つ。
ベルニーニが改築した部分は不明。死の直前の仕事
地球p137、ROMAp249

この中に、S.Lorenzo in Damaso がある。