Chiesa di Santa Maria della Vittoria
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会

024-1007:00~12:00、15:30~19:00
http://www.chiesasantamariavittoriaroma.it/default.aspx

1608年にボルゲーゼ枢機卿の命を受け、カルロ・マデルノの設計により聖パウロに捧げられ創建した。1622年に新旧教徒間の戦いである三十年戦争の最中プラハの郊外の戦いで、カトリック教徒側が聖母マリアのイコンを持って闘ったところ奇跡的にもプロテスタント側を破ることができ、この勝利を記念し、そのイコンを納めるために、教会の名を「勝利の聖母マリア」とした。



024-101コルナーロ礼拝堂cappella cornaro
バルディヌッチは、ベルニーニは辛い時期にも平静に暮し、熱心に仕事をして偉大な作品を制作した、と記しているが、我々はこの言葉を素直に受けとることができる。なぜならベルニーニの最高の傑作の一つ、サンタ・マリア・デルラ・ヴィットーリアのコルナーロ礼拝堂の装飾は、第一線から退けられたこの苦難の時期になされているからである。すでに述べたとおり、彼はウルバヌス8世時代に礼拝堂の装飾を少なからず手がけているが、それらはすべて、ベルニーニの設計に基づいて弟子たちが制作に当たるという形で進められてきた。しかしイノケンティウス10世の即位で公的仕事を断たれた今、ベルニーニは自らこの種の仕事に携わる余裕ができたのである。
 ヴェネッィアの名家の一つコルナーロ家出身のフェデリーコ・コルナーロは、ヴェネッィアの大司教をしていたが、晩年職を退いてローマに移っていた。1647年に彼は、好意を寄せていたアヴィラの聖女テレサが創設した跣足カルメル会の教会、サンタ・マリア・デルラ・ヴィットーリアの左翼廊部の権利を取得する。そしてそこを自分の墓所と定めた彼は、その装飾をベルニーニに依頼したのである。この翼廊部の礼拝堂は、幅に比して奥行きがなく、そのうえ教会全体との調和を計らなけれぱならなかったから、ベルニーニに与えられた条件は決してよくはなかった。しかし彼は、いくつかの不利な条件を克服して、彼の理想とする総合美術の理念を見事に実現するのである。
次に、非常に重要なこととして、ベルニーニがこの礼拝堂を作るに当たってさまざまな石材を吟味し、その質感と色彩の効果を存分に生かしている点が指摘できる。バロックの内部装飾の魅力の一つは、その石材の多様な美しさにある(初めて見た者は少々戸惑いを感じるかもしれない)が、ベルニーニはここで石材に対する熟達した知識と、それを用いる優れた感覚を示している。とりわけ柱に用いられた緑の石(円柱がブレッチャ・アフリカーナ、角柱がヴェルデ・アンティーコ)は美しく、白い大理石の彫刻を引き立たせる役割をしている。それは、彫刻における色彩の間題を考え続けたベルニーニならではの演出といえよう。さらに、ここでは詳しく論じないが、この礼拝堂の装飾全体が神学的プログラムをもって構成されていることが、最近詳細な研究によって明らかにされている。そして最後にもう一点、コルナーロ家の人々がいる伐敷の背景には建物の内部が浮彫で描かれているが、それらはある地点から見ると、あたかも実際の建物と連続するかのように見える点を指摘しておきたい。ベルニーニが彫刻を制作するに当たって単一的視点を設定したことは再三述べたが、ここでは描かれた建物と実際の礼拝堂とが遠近法的に合致する点こそ、作品を見るべき点なのである。実際この地点に立つと、礼拝堂全体を一目で見渡すこ とができ、したがってその内容を最もよく理解することができる。

天井のデッサン:マドリッド国立図書館所蔵

天井のデッサン:マドリッド国立図書館所蔵

このようにコルナーロ礼拝堂の装飾には、これまでベルニーニが行ってきたさまざまな試みが最も完成した形で総合されている。この場合もその根本となるのは、ライモンディ礼拝堂の時に論じたように、演劇と祝祭の体験であり、またその延長上にある彫刻を中心とする総合的視覚芸術の概念である。このことはいくら強調してもしすぎることはないであろう。つまり、主祭壇を飾る《聖女テレサの法悦》はあまりに有名たが、ベルニーニの関心はこれを含む礼拝堂全体の統一性にあったのである。この礼拝堂において、我々は「劇中劇」の観客として現実と虚構の境を見失い、同時にイリュージョンの中で建築と彫刻、ストウッコと絵画とがたがいに融合して、「美しい融合体」が形成されているのを認めるであろう。そこでは天と地と、生と死と、霊と肉体と、そして現実と幻想とが渾然となって我々を神秘的な世界へと導く。このような神秘の体験は、17世紀の宗教生活では非常に垂要な要素だったが、ベルニーニの天才的造形力によって、それは20世紀の我々にも伝えられたのである。そしてその意味で、このコルナーロ礼拝堂はベルニーニの最高傑作の一つというばかりでなく、バロックの精神とその表現の最も優れた作例であるということができる。これについて、ラヴァンは次のように記している。「それぞれの世紀から単一のモニュメントを選ぱなければならないとしたら、ほとんどの歴史家は17世紀、つまりバロック時代の代表としてテレサ礼拝堂を選ぶことであろう。この意味でそれは、議論の余地のない時代の傑作として、ジョットのアレーナ礼拝堂、マザッチョのブランカッチ礼拝堂、そしてミケランジェロのシスティナ礼拝堂と同等である、またベルニーニ自身も、「これは一番悪くない作品だ」と述べたといわれる。


024-102
「聖テレサの法悦」S.Teresa Trafitta dall’amor di Dio
1645-52
ベルニーニが1646年にコロナール礼拝堂を全面的に改修した。ここには建築・絵画・彫刻が融合した、豪華でダイナミックな劇場的空間が出現し、これがベルニーニ芸術、ひいてはローマ・バロックの本質である。礼拝堂全体は大理石や漆喰細工、絵画で豪華に装飾されている。中央の祭壇上の大理石彫刻は「聖テレサの法悦」を主題とする。彼女は16世紀スペインの修道女で、天使に槍で心臓を貫かれたという幻視体験で知られている。その著作によると、先端に炎が見える金の槍で刺し貫かれた瞬間、苦しみとともに法悦を味わったという。ベルニーニは官能的なテレサと天使の群像上に金色の光の束を配置し、絵画的な効果を添えた。祭壇両脇の壁面には桟敷席とコロナール家の人々が刻まれ、舞台の観客のようにこの神秘的な光景を見守っている。
ビルデンデン美術館所蔵

ビルデンデン美術館所蔵


ベルニーニは法悦の場面に光を当てるため上部明かり取りの開口を設けたが、壁の奥に隠れて正面からは見えないようになっている。
ベルニーニはまず壁をうがって壁龕を作り、横長の楕円形をしたその壁龕に聖女テレサの法悦を表わした彫刻を納め、これを主祭壇とした。この主祭壇の装飾に、聖女の生涯でも最も至福に充ちた体験を選んだのは、まったくオーソドックスな選択であった。この法悦の体験は、列聖を認めた教書にもとり上げられたからである。反宗教改革の神秘主義的風潮を最もよく体現した聖者であるテレサは、幻視と法悦の体験を『自叙伝』に次のように記している。

私がこの状態にありました時、主はみ心のままに、幾たびか次の幻視を私に賜いました。私は自分のそばに、左のほうに、からだの形を持った一位の天使を見ました。私が天使をこのように見るのはたいへん珍しいことです。彼らは、たびたび現われますが、私は、前の幻視のところで初めに、お話した時のあの様式でしか彼らを見ません。ところが、この幻視において、主は天使をこういう形で私に示すことをお欲みになリました。彼は大きくはなく、むしろ小さかったのですが、たいへん美しく見えました。彼の顔はあまりにも燃えるようでしたので、愛に燃える天使らのなかでも、最も高位のもののように見えました。彼らはたぷんケルビンと呼ぱれる者でありましょうが、自分の名前を私に申しません。しかし天国には、ある天使とほかの天使、この天使とあの天使との間に、あまりにも大きな相違があることがよくわかりますので、私はそれをどう言ってよいかわかりません。さて、私は金の長い矢を手にした天使を見ました。その矢の先に少し火がついていたように思われます。彼は、時々それを私の心臓を通して臓脈にまで刺しこみました。そして矢をぬく時、いっしょに私の臓脈も持ち去ったかのようで、私を神の大いなる愛にすっかり燃え上らせて行きました。痛みは激しく、先に申しましたあのうめき声を私に発しさせました。しかし、この苦しみのもたらす快さはあまりにも強度なので、霊魂は、もうこの苦しみが終わることも欲まなけれぱ、神以下のもので満足することも欲しません。これは肉体的な苦しみではありません。霊的のものです。とはいえ、肉体もいくぶん、時には相当多くさえ、これにあずかります。これは神と霊魂との間のきわめて快い愛の交換で、私は、私の言葉に信をおかぬ人々に、このお恵みを味わわせてくださるよう、主の御憐れみを切願しております。
(東京女子カルメル会訳、第29章13)

エルミタージュ美術館所蔵

エルミタージュ美術館所蔵

ベルニーニは法悦の聖女テレサと黄金の矢を手にした天使を、一片の雲の上にのせて空中に浮遊させている。二人は神秘の力によって漂っているかのようだ。左手の天使は優しい仕草で聖女の衣をつかみ、再び矢を突き刺そうとしている。一方「体は打ちのめされたようになり、手も足も動かせない」法悦の中にいるテレサは、目と口を半開き、自由のきかなくなった手足を投げ出している。まったく驚くべき表現力だ。そしてベルニーニが内面を暗示する手段として探求し続けてきた衣壁は、ここで最高の表現に達し、光と陰の豊かなニュアンスによって聖女の法悦の神秘を一層鮮烈なものにしているのである。ベルニーニはこの聖女テレサの幻視を、現実とも夢ともつかない一つのイリュージョンとして表現しようとした。そしてそのために、彼は隠された窓から光を採り入れ、その一方で彫刻の土台を塗りつぶしている。つまり、そうすることで観る者の目を眩惑し、我々を現実の世界から遊離させようとしているのである。実際この作品は、一体丸彫なのか浮彫なのかさえ、観る者には判然としない。そうした伝統的な概念さえ、ベルニーニはイリュージョンの妨げとして、否定しようとしたように思われる。
 このイリュージョンの発想は彫刻だけでなく、いつものように助手を使ってフレスコ画とストウッコとで装飾させた、礼拝堂にも認められる。ここで意図されているのは、これまで以上に大胆なイリュージョンである。すなわち天井には空が開け、そこから聖霊が下り、また大使をのせた雲が実際の建物のあちらこちらをおおっている。アーチに輪舞するストウッコのプットーや天使も、それがほんとうに浮彫なのか、あるいは丸彫なのか判然としない。実際の建物とストウッコと絵画とが渾然となって、一つのイリュージョンの世界を形成しているのである。

テレサ アビラの、(カルメル会入会後)イエスの 1515~82(10月15日)
L.Theresia Magna. S.Teresa de Jesus,de Avila.
〔伝記〕スペインの神秘的思想家、修遺院改革者。カスティリャのアビラの貴族の第4女として生また。1535年父の許可を得ないで修道院に入り、神秘的な体験を得て信仰を強め、『霊魂の城』(Elcasti11ointerior,1577年)『完徳への道』(Camino de perfeccion,1574年)などにその幻想や脱魂を記す。1562年アビラに建立した修道院は、マリアの夫ヨセフヘ捧げられた。十宇架の聖ファン(1542~91)と協カしてカルメル会の改革を計る。彼女の心臓はアルバ・デ・トルモのカルメル会修遺院に保存されているが、それには天使の投槍による傷あとがあるという。1622年列聖、シエナのカテリナと並んで1970年最初の女性教会博士。心臓病の患者や飾り紐製造者の聖女。教会行政の手腕によって主計官の聖女でもある。
〔図像〕彼女の修道院の建設に対して神の許しがあったという証拠として、マリアとヨセフから白衣と十字架つきの金の首飾り拝領の図は、カルメル会の教会堂にしぱしば見られる。また聖痕を示すキリストの前にひざまずく彼女の幻想場面も17世紀スペイン絵画の主題に現われる。カルメル会の修道衣を着用し、足元に聖書を置く。なお天使が彼女の心臓に火の矢を投げ、頭上には鳩が霊感を示すように舞う。バロック芸術は彼女の宗教的脱魂を好んで表わした。
(例、ベルニーニ《テレサの脱魂》、1645~52年、ローマの聖マりア・デッラ・ヴィットリア聖堂)



024-006コロナーロ礼拝堂の家族の彫刻コロナーロ家の肖像
 このように礼拝堂の正面と天井とがイリュージョンの仕掛けでおおわれたのに対し、左右の壁面には別の新しい試みが見られる。すなわちこの礼拝堂はフェデリーコ・コルナーロの墓所として立案されたものだが、そこには注文主のフェデリーコの他に、ヴェネッイアの総督を務めた彼の父と、一族の者のうち枢機卿に叙せられた者6人が記念されており、その合計8名の人物が左右の壁に4人ずつ、あたかも劇場の桟敷にいる観客のように表現されている点である(桟敷式の劇場は、当時まだローマでは建てられていなかったが、ヴェネッィアではフェデリーコが大司教をしていた時に少なくとも3つ建てられており、流行になりつつあった)。

フォグ美術館所蔵

フォグ美術館所蔵

それぞれの人物は、聖女と天使の方を見やったり、書物を参照したり、互いに論じ合ったりしている。彼らは明らかに聖女テレサの法悦について瞑想し、議論し合っているのである。つまりベルニーニは、聖女テレサの法悦という神秘劇を特別の舞台をしつらえて演出したぱかりか、コルナーロ家の人々をその神秘劇の証人、すなわち心の眼でそのドラマを見る観客として登場させているのだ。これは、まさしく「劇中劇」の発想を転用したものといえよう。


024-008コロナーロ礼拝堂の床024-104

コロナーロ礼拝堂の床  
こうしたさまざまな工夫の他にも、この礼拝堂には注目すべき点がいくつかある。まず、フェデリーコの墓のある床の装飾に、ベルニーニが再び一対の骸骨を登場させているのに気づく。ここでも死は生き生さとした姿で描かれ、一方は希望を、他方は絶望を表現している。

Chiesa di Sant’Andrea al Quirinale
サン・アンドレア・アル・クィリナーレ教会

S-andewaalQuirinale8:00~12:00、16:00~19:00
火曜休み




020-004サンタンドレア・アル・クィリナーレ教会の断面図建築
1658-61
1658年前教皇イノケンティウス10世の甥の枢機卿カミッロ・パンフィーリに依頼され、ジェズイット派のために設計されたベルニーニの代表作。1661年完成。
敷地に奥行きがないので、平面構成を横長の楕円形にして、その短軸上に入口と主祭壇をpiant quirinale配置した。ファサードは両脇の2本の付け柱とその上のペディメントが玄関を囲む簡潔なものである。ところが玄関を入ると、巨大な付け柱に導かれて4本の円柱に仕切られた正面の主祭壇が迫ってくる。それは壁龕の中に設えられているために、楕円形の構成を乱すことなく、しかも天窓とは別の光源によって堂内に浮かび上がっている。さらに祭壇ペディメント上の上昇する聖アンドレアスの彫像(アントニオ・ラッジ、ベルニーニの助手作)が、天使(ラッジ作)の迎える楕円形天井の頂点へと視線を導く。暗褐色の大理石が基調をなす下部装飾は、金彩を施した豪華な漆喰装飾の天井部分と際だった対比を示す。

s andrea al quirinale altarサン・タンドレアは、前教皇イノケンティウス10世の甥カミルロ・パンフィーリの後援で、イエズス会の修練士のために建てられた教会である。アレクサンデル7世とベルニーニがこの教会の建設にいかに情熱を傾けたかは、その計画について二人で幾度も検討し合ったことをうかがわせる教皇自身の日記に明らかだ。しかし、この教会の建設には初めから厄介な間題があった。この場所にはすでに修道院が建てられていたために、教会の敷地として利用できるのは奥行きのない横長の土地しかなかったことである。しかしベルニーニは、この悪条件を克服するために、横長の楕円形プランという思いきった解決策を講じた。横長の楕円形というプランはまったく前例がないわけではない(パルマにフォルノーヴォが1566年に建てた教会がある)。しかしそれでも、まことに大胆で独創的な試みであることには変わリがないであろう。そしてこれに加えてさらに称讃すべきは、ベルニーニが与えられた悪条件をむしろ最大限に生かして、バロック建築の傑作の一つに数えられる作品を創造したことである。ベルニーニは常々、建築において最も称讃さるべきは、単に美しくりっばな建物をつくることではなく、あたえられた悪条件を克服してそれを美しい作品に転化することだ、と考えていた。 彫刻の場合にも、彼が困難な課題に取り組むことをむしろ好み、その克服に非常な努力を傾けたことは、すでに述べたとおりである。困難をむしろ創造へのバネとするベルニーニの気質は、建築においても変わりはなかった。彼は「もしそれ(障害)がなかったならぱ、それを作る必要がある」とさえ言っているのである。このサタンドレアの横長の楕円形プランは、悪条件がベルニーニの創造力を奮い立たせた好例といえるだろう。
 ところで、楕円形のプランはすべてか相称ではないから、厳密にいえぱ集中式プランとは呼べないものである。だがヴィニョーラによって導人されたこのプランは(最初の作例はローマのサン・タンドレア・アル・フランミーニオとされる)、円形及びギリシア十字プランにはない独特の動感と方向性のために、いわぱ第3の集中式プランとして、ベルニーニ以降しばしぱ用いられることになる。ベルニーニ自身はこの楕円形プランを好み、プロパガンダ・フィーデの礼拝堂(すでに述べたように、ボルロミーニによって建て直されてしまった)や後に述べるサンタ・マリア・イン・モンテサント、そしてサン・ピエトロ広場でもこのプランを用いている。こうして考えてみると、あまりに厳格で静的なプランによっているサン・トマーゾとアリッチャの教会よりも、このサン・タンドレアが作品として成功した原因の一つは、楕円というベルニーニにふさわしいプランを採用したためだと思われる。そしてこの楕円を、常識を排して横長に用いるといういかにも彼らしい実験には、同じ通りに隣り合うボルロミーニのサン・カルロ・アルレ・クワットロ・フォンターネという、やはり楕円を基にしたプランに対抗しようとする意図があったことは間違いないであろう。扉口の石造りの軒屋根や凹面になった2枚の袖壁に挟まれた突出した半円形の階段に、曲面と反曲面による遊びがみられる。


 さてこの教会に足を踏み入れると、眼前に意表をつくような空間が開ける。前方に遠く拡がるラテン十字プランの教会に慣れた我々は、集中式プランの教会にさえ当惑することがあるのだが、この教会では空間が湾曲しながら横に拡がり、通常遠くにあるはずの主祭壇がぐっとせまって見えるのだ。しかし全体の分節は簡潔で力強く、また実に滑らかで、我々の注意は自然に主祭壇とその上の聖アンドレア(聖アンデレ)の像に集中する。この主祭壇は四本の円柱て仕切られた壁龕の中にあり、ここを照らす光も教会全体からは独立した光源から採られている。離れて見ると、この壁龕自体が、破風と円柱によって縁取られた一幅の絵画のように見える。その聖なる空間にグリエルモ・コルテーゼの《聖アンドレアの殉教》が祭壇画として納められ、聖者の生涯の凝縮した瞬間を我々に伝えているのである。けれどもベルニーニの主眼は、こうした教会本体から切り離された空間でのドラマを演出することではなかった。彼の主眼は、いつものように教会の内部を劇場に変えることにあった。このことは視覚的にもすぐに納得がゆく。つまり教会に人ったわれわれは、この祭壇画よりも先に、破風につけられた大理石の聖アンドレア像に注意を奪われるからである。この聖者の像は、その位置だけでなく、その色彩やドラマティックなポーズによっても際立っており、教会全体を文配するイメージとなっている。彼は雲にのり、両手を広げて天を仰ぎ、天使たちに迎えられて「天のドーム」に昇らんとしている。そしてそのドームは花飾りや殉教を表わすシュロをもつプットーたち、さらに聖アンドレアであることを示すオールや網や貝などを伴った漁師と覚しき像などで飾られている。つまり、ベルニーニは再び教会全体を劇場とみなし、祭壇からドームの頂きへ向って進行する宗教劇を演出したのである。このために彼は可能な手段を尽しているが、とりわけ顕著なのは光と色彩による効果である。この教会はバロック建築の中でも石材の最も美しい教会の一つだと思うが、その暗色系の石材による柱やコーニスは、いわぱ地上の物質として白い「天のドーム」に対峙し、またそれを支えているのである。そしてドームの頂きのランタンから入る光は、黄金の色彩を帯びて、それが至高の光であることを示している。ここには、ベルニーニの色彩に対する関心が最も見事に結実しているといえるだろう。中央の祭壇に隠し天井が設けられ、聖アンドレアの上に太陽光線が注ぐようになっている。外部の円窓は、この聖人の昇天の上に間接的に光を振りまく。
St. Andrea al Quirinaleまたサン・タンドレアはこのような内部空間ぱかりでなく、そのファサードも独創的である。この教会の場合、教会自体が横長なために、通常のような文字通り前面をおおうファサードは困難であった。ベルニーニはこうした条件を充分考慮して、ファサードをむしろ入口の枠組みといった簡素なものにとどめ、そのかわり両脇に力強いうず巻きを刻んだ控え壁を露呈させている。ただし彼はその際、低い壁を半月形に設けて、教会本体がむき出しになることは避けた。そしてそれと同時に、これによって控え壁だけが強調されるようにし、あわせて訪れる者が自然に入口に導かれるようにしたのである。一方ファサードそのものは、円形につき出た前廊を二本の円柱と破風で囲っただけの単純なものである。しかしそれは、簡潔でありながらダイナミックな動きをもち、絵画的なまとまりのよさとともに強い三次元的働きかけをもつ、非常に個性的なファサードである。またこのファサードの効果に、パンフィーリ家の紋章の造形が果している役割も見逃せない。それはこのファサードを、建築からいわぱ彫刻へと変質せしめているからである。その点でまことにベルニーニの面目躍如たる「作品」だといえよう。しかもこの円形につき出たファサードは、教会内部の主祭壇を擁する壁龕と、あたかも「『ポジ』と『ネガ』のように」(ウィットコウアー)呼応し合っている。それによってベルニーニは外と内との調和を計ったのだ。初めにこの教会に入るとその空間構成に驚くと述べたが、実は教会に入る前に、すでにファサードによって我々はその内部を暗示されていたのである。
 ところである日のこと、ドメニコがお祈りをすべくサン・タンドレアに入ると、片すみで内部を楽し気に見渡している父親に出会った。ドメニコが一人で何をしているのかと問うと、ベルニーニは「息子よ、私はこの建築の仕事にだけは心の底から特別の喜びを感じる。だから仕事の気晴しに時折ここを訪れ、自分の作品で自らをなぐさめるのだ」と答えている。この時、ドメニコは父親が自分の作品には満足しないものと思っていたので、意外な一面を発見したと感した。このドメニコが伝えるエピソードに現われた最晩年のベルニーニ(この教会の装飾が完成したのは1670年である)の姿は感動的である。それはむしろ、彼の長い不屈の創作活動を思い描かせるからだ。ともあれ、この小さな教会に彼の理想が最も完全な形で実現されていることを、われわれはベルニーニ自身とともに喜ばずにいられない。
BERNINIp144~148

アンデレ 1世紀(11月30日)E.Andrew. L.Andreas.
〔伝記〕シモン・ペトロの弟。ガリラヤのベトサイダの漁師で、ペトロと共にキリストの最初の弟子となる。福音書中には詳述されないが、『黄金伝説』中の同聖人行伝によって図像表現される。それによると、キリストの死後スキティア地方をはじめ、ギリシア各地を巡り、犬に化けた7悪魔を追放、大火災の消火など奇跡を行なったのち、やがてぺロボネッソス半島のパトラスに至り、市のローマ総督アイギアスの妻マクシミリアの不治の病を癒して彼女を改宗させたため、怒った総督は笞刑を加え、X形十字架へ逆さに縄で縛りつけ処刑した。3日後に絶命した彼はマクシミリアにより埋葬され、一方、総督は悪魔によって殺害されたという。また死後の伝説に、美女に扮した悪魔に誘惑されようとした一司教を巡礼姿の同聖人が救う話がある。ペトロをローマに独占されたことに対抗して、東方教会で特に崇拝され、ギリシアとロシアの守謹聖人となった。4世紀に聖遺物の一部がスコットランドに移され、その守謹聖人とされた。またブルゴーニュのフィリッブ善良公が1433年十字架の一部をコンスタンティノーブルから持ち来ったところから、彼の創設になる金羊毛騎士団の聖人とされるにいたった。
[図像〕アンデレが磔された十字架は、中世を通じ、14世紀のイタリアの美術まではキリストと同形のラテン十字架ないしはY形であったが、15世紀以来いわゆる「アンデレの十字架のX形十字」が表現されて彼の持物とされるようになった。手に彼の十字架と福音書を持ち、白髪白髭の老人として多く描写される。また魚のかかった魚網、十字架につけられたときの綱などを持ち物とする。

ばら色の大理石の内装から「バロックの真珠」と呼ばれるこの教会は,ベルニーニが設計した。イエズス会のためにつくられたので,IHS(救世主イエスを意味する)の紋章が数多く見られる。奥行きがなかったため,ベルニーニは楕円形の長軸を祭壇方向にではなく,両サイドに向かって置くプランを採用した。祭壇の十字架にかけられた「聖アンドレア」は,スタッコ細工の彼自身の姿を見上げ,見上げられた当人はさらに,ドームの明かり採りと聖霊を見上げている。また聖スタニスラス・コスツカの部屋を見のがさないこと。この部屋は,1568年に19歳で亡くなった見習い僧の住んだ部屋であるが,修行生活の厳しさよりも,当時のイエズス会の豊かな暮らしぶりがうかがい知ることができる。このポーランド出身の聖人の大理石像を制作したのは,ピエッレ・レグロスである。

 例えばボッロミーニが設計したサン・カルロ・アッレ・クワットロ・フォンターネ教会の中に入ると、楕円形の天蓋が目に入るが、それは白く塗られ、幾何学的なモチーフに満たされていて、よく計算された、端正な芸術に接したという気分になる。それを設計したボッロミーニの、冷静に突きつめた情熱が感じられて、静かな感動が湧いてくる。
 ところがその近くにある、サンタンドレーア・アル・クイリナーレ教会に行くと、まったく違う体験が得られる。この教会はイエズス会に深く共鳴していたベルニーニが無報酬で設計したもので、内部にはボッロミーニのものと同じように、楕円形の円蓋が使われている。だが何と違う世界だろうか。ベルニーニの円蓋は金色を基調にしており、幾何学的模様とともに、優雅に体をねじる数多くの人物が配され、下を見下ろしている。訪問者に語りかけてくるような、何ともにぎやかで、饒舌な世界が作られているのだ。
 この中に入ると、愛想のいいローマ人のサロンに迎え入れられたような気分になる。未知の人にも開け広げで、寛容の心で接する、イタリア人の長所を表している場所のように思えるのだ。ベルニーニはふところの深い人物だったのだ。そしてある時には自分自身を突き放して見る余裕も持っていたと思う。それが彼の芸術の長所であり、もしかしたら欠点になっているのかもしれない。
ローマの泉の物語  竹山博英

Palazzo del Quirinale
クィリナーレ宮

palazzo_del_quirinale日のみ公開、8:30~12:00 
予約不要、5€
Quirinale

1550年に枢機卿イッポリト・デスタが丘の頂上に整備した館が始まりである。その後教皇の夏の滞在地となり、1592年には教皇クレメンス7世が完全にここに移り住んだ。工事はフォンターナ、マデルノ、ベルニーニ、フーガなど代表的な建築家によって継続され、教皇クレメンス12世の時代(1730~40年)にようやく完成した。歴代教皇の滞在は1870年まで続いたが、イタリア統一後は王宮となり、1947年に共和制が敷かれてからは大統領官邸として使われている。
ベルニーニは扉口上部に祝別用のロッジアと、クィリナーレ通りに面する細長い翼廊部分を建築。



Loggia-quirinale祝祭用ロッジアLoggia delle Benedizioni
ウルバーノ8世の時代に
1638年




019-002平面図クレメンス9世のための赤い部屋とその翼廊 Sale Rosse e Loggia
庭の方に突き出ている


Sale Rosse
rosse_salarosse_salaI


rosse_decorazioneIIsalarosse_decorazioneIsala


Loggia 廊下
rosse_decorazionelogge1rosse_decorazionelogge019-003内部

Palazzo di Bernini
ベルニーニの住んでいた家

palazzoberniniVia Della Mercede 11,12
  死ぬまでのほとんどを過ごした家
2007.2月、Historical Bernini というホテルになっていた。
パラッツォの一角、アパートのようにベルを鳴らす。本当にホテルか?
2014年現在、Bernini Suites という名に。




サンタマジョーレの近く
ナポリからでてきてすぐに住んだ家
もあるはずだが、未確認。

Basilica di Santa Maria del Popolo
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

009-001SMdelpopolo

7:00~12:00、16:00~19:00
日・祝8:00~14:00、16:30~19:30

1099年に教皇パスカリス2世が当時のフラミニア門の脇に聖母マリアに捧げる小さな教会を建てさせたのが始まりで、13世紀に市民(ポポロ)の負担で改築したことからこの名がつく。1472年に教皇シクストゥス4世の命により、アンドレア・ブーニョがフラミニア門と結合したルネサンス様式の現在の形に改築した。1500年代初めにブラマンテが後陣を付け加えた。
アレクサンデル7世が枢機卿時代にキージ礼拝堂の整備を依頼し、1665年に教皇になったアレクサンデル7世の命により、キージ礼拝堂の装飾とともにベルニーニが建築にも手を加えている。ファサードに曲線を描くコーニスを加え、翼廊を改修。キージ礼拝堂とともに全体の装飾を手がける。

教会においては、1477年に再建されたサンタ・マリア・デル・ポポロ教会が、ローマにおける最初のルネサンス様式教会といわれ る。この時期約20の教会が新築ないし再建されている。
伝説によれば、ローマの北門「ポポロの門」の近くに皇帝ネロの墓があり、そこに生えている胡桃の木に悪魔が住み、付近の住民に恐れられていた。法王パスカリウス2世(1099-1118年)が、これをどう退治しようかと考えあぐねていると、夢に聖母マリアが現われ、胡桃の木を切り倒し、ネロの遺体を焼き、その灰をテヴェレ河に流すように命じた。法王は、早速これを実行したところ、以降悪魔は現われず、住民は、静かな夜を送れるようになる。法王は、これに感謝しマリアに捧げる礼拝堂を1099年に建築したというのがこの教会の初めといわれている。建設の資金をローマの市民(=popoloポボロ)が負担したので、教会はそれを記念してサンタ・マリア・デル・ポポロ教会と呼ばれるようになった。
その後教会は、13世紀初期に一度再建され、15世紀半ば1472年に、法王シクトウス4世の命で現在見るルネサンス様式に再建され、1500年代の初めには、プラマンテがアプシス(後陣)を付け加えた。教会内部は祈りの場所というより、絵画、彫刻、建築のちょっとした美術館と言ったほうがふさわしいほど、各時代にわたる優れた作品が残されている。

建物正面  ブレニョの手による建物正面は、付柱、三角破風があり、簡索にして明解なルネサンス期の建築的特徴をよく備えています。
内部    また三廊式の内部も、後年ベルニーニによりバロック風に手が加えられたとはいえ、ラテン十字形の平面をなし、翼廊の両端には円形の礼拝堂を有し、身廊の天井には、交差ヴォールトが架けられて、ルネサンス的色彩を残しています。翼廊中央の天井に架けられているクーポラは、ルネサンス様式のものとしてはローマで最初のものといわれています。
この教全は、美術品の宝庫としても有名で、ブラマンテにより拡張された後陣、ラファェロの設計によるキジ礼拝堂、ベルニー二の手による石棺、カラヴァッジヨの「パウロの転向」、「ペテロの磔」、法王シクトウス4世の出たロヴェレ家の礼拝堂にあるピントウリッキオのフレスコ画、サンソヴィーノの彫刻等当時の一流芸術家が腕をふるった作品ばかりです。内陣のアーチには、法王パスカリウスの2世が胡挑の木を切り倒しているスタッコの絵があります。

サンタ・マリア・テル・ポボロ聖堂は,シクストゥス4世が建てたもう1つの建物で,口一マの初期ルネッサンスの最も重要な聖堂.15世紀後半および16世紀初期の最もすぐれた芸術家,アンドレア・プレーニョ,アンドレア・サンソヴィーノ,ピントゥリッキオ,ブラマンテ,ラファェロ,そしてセパスティアーノ・デル・ピオンボらが、建築や装飾に貢献した.1009年に建てられた礼拝堂があった.最初の十字軍によってはじめてイエルサレムが奪回されたことを称えるためのもの.これが拡大され、1472年から77年の間に,アンドレア・プレーニョによる平面計画によって,北からの口ーマへの入ロフラミニア門と結合された。簡素な正面は3分割され両側の曲線を描くコーニスはのちにベルニー二が加えた。3廊式の内部は,さらに側祭室を備え,交差部にローマではじめてクーボラが載った。アプスはブラマンテが拡張し、格子,天井を加えた。交差部ヴォールトは16世紀初めに,ピントウリッキオの見事なフレスコ画で装飾された(聖母、諸聖人,シュピラなど),彼らは当時最も流行っていた古代装飾であるグロテスク紋に縁どられている。アンドレア・プレーニョによる大理石の祭壇(1473年)は,聖具室に移設された。
 もう1つの、初期ルネッサンスのモニュメントは,アンドレア・サンソヴィーノによるロドヴィコ・スフォッアの弟、枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(1505年没)めの月事な墓。左側のキージ礼拝堂はラファエロが没する直前に手がけたもので,シエナの銀行家アゴスティーノ・キージのため。ラファエロは,サン・テリジオ・デリ・オレフィチ聖堂のモチーフをさらに巧緻に扱っている。クーポラのモザイクは,ラファェ口の下絵に基づく。「聖母の誕生」はセバスティアーノ,デル・ピオンボが実施。左側の交差部には,カラヴァッジョの傑作「聖パウロの改宗」と「聖ベテロの礫刑」(1601-02)がある。 

009-1111.ローヴェレの礼拝堂Cappella della Rovere
2.チボの礼拝堂Cappella Cybo
3.オルガン
4.礼拝堂
5.後陣
6.内陣の天井画
7.カラヴァッジョの礼拝堂(チェラージ礼拝堂)
8.キージ家礼拝堂
9.奥の部屋

1.ローヴェレ礼拝堂
正面入り口から入って右側、最初がローヴェレの礼拝堂で、1400年代の後半ピントウりッキオとその弟子たちの手になるフレスコ画で飾られている。、祭壇の「幼な子キリストの礼拝」L’adorazione del Bambinoは特にすばらしい。

2.チボの礼拝堂 
17世紀後半のカルロ・フォンターナCarlo Fontanaの設計による。

009-010SMデルポポロのオルガン3.オルガン
このキージ礼拝堂の整備計画は、ファビオ・キージか教皇に即位しアレクサンドラ7世となったことでサンタ・マリア・デル・ポポロ全体の装飾計画に発展した。主としてストウッコによるこれらの装飾は、いつものごとく弟子たちの手で行われたので、とりたてて論ずるまでもないが、ただ一つ右翼廊上部にあるオルガンの面白さが我々の注意を惹く。オルガンと樫の木が一体となったその装飾は、バロック的幻想(ファンタジー)と「転身」(メタモルフォシス)」の好例だからである。このオルガンの装飾については、ベルニーニのデッサンが残っているので、彼の脳裏に描かれたイメージがどのようなものだったかを知ることができる。

Progetto per l’organo alla Chiesa di S.M. del Popolo a Roma ヴァチカン美術館所蔵

Progetto per l’organo alla Chiesa di S.M. del Popolo a Roma
ヴァチカン美術館所蔵

すなわち、そこでは樫の木にオルガンがつつまれ、樫の木がオルガンになり、またオルガンが樫の木になっている。その樫の木は「系図の樹」のようであり、アダムとエヴァの「原罪の樹」のようでもある。だがそれと同時に、キージ家の紋章の樫の木が成長したものでもあるのだ。天上の音楽はそこから流れる、とベルニーニは言っているのである。こうした「着想」と形態の幻想はまったくもってベルニーニ的であり、バロック的である。しかし実際に制作されたオルガンの装飾は、ベルニーニのデッサンのとおりではなく、幻想がだいぶん後退したものとなっている。だがそれでも、そのアール・ヌーヴォーを思わせる装飾は、観る者を充分楽しませてくれる。
先に進んでいくと、ベルニーニが改修工事を担当した翼廊があり、オルガンの下にはいかにもベルニーニらしい天使の像を見ることができる。

009-002S.M.デル・ポポロの主祭壇4.主祭壇の装飾
1657年頃
バロック様式の主祭壇には、13世紀に遡ると思われるビサンチンの板絵『マドンナ・デル・ボボロ』(Madonna del Popolo)が飾られている。

5.後陣
内陣の後ろに延びるのがブラマンテ作のアプシスで、二人の枢機卿の墓がある。16世紀初頭のサンソヴィーノの代表作で、当時の墓の彫刻の伝統であった硬く無表晴な表現から脱して、墓の主たちは自然なポーズで横たわっている。

6.内陣天井画
内障の天井のフレスコ画はピントゥリッキオの作である。

7.カラヴァッジョ礼拝堂
一方、主祭壇のすぐ左隣には、有名なカラヴァッジョの札拝堂Cappella del Caravaggioがあり、左右の壁を飾るカラヴァッジョの2枚の作品、「聖パオロの改宗」Conversione di S.Paoloと「聖ピエトロの逆さ磔」Crocifissione di S.Pietroは、いずれも1601-02年の間に描かれ画家の円熟期の作品として名高い。

009-003キージ礼拝堂8.キージ家礼拝堂
同じく左側の壁、入口から2つ目には、ラファエロが設計したキージ家の礼拝堂Cappella Chigiがある。ラファエロは礼拝堂そのものの設計だけでなく、天井のモザイクの下絵も描いている。同礼拝堂にはさらに、ベルニーニの「預言者ハバクク」Abacucと「獅子と預言者ダニエル」Daniele col leoneの彫刻も置かれている。
アレクサンデル7世が枢機卿時代に整備を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロのキージ礼拝堂というのは、前世紀にラファエロが親交のあったアゴスティーノ・キージのために建物と装飾の設計をした、盛期ルネッサンス美術の傑作の一つに数えられる礼拝堂である。ベルニーニは、このうち空いたままになっていた2つの壁龕に納める彫刻を制作し、また床などの装飾を整えて礼拝堂を完成させる仕事を、依頼されたのである。
礼拝堂の四隅に設けられた壁龕のうち、奥の2つには、ラファエロのデッサンに基づいてロレンツェットが制作したヨナとエリアの像がすでに納められていた。けれどもベルニーニは、この、うちの一方を手前に移動して、ロレンツェットの2つの作品と彼のハバククとダニエルの像とが、それぞれ対角線上に向い合うように配置換えしている。
彼がこのような作業をした理由は、彼の二つの像があらわす物語を知った上で礼拝堂を訪れれぱすぐに納得がゆく。獅子の穴に投げ込まれたダニエルのところへ、天使に導かれたハバククが食物をとどけるという、このあまり一般的ではない物語は、ダニエル外典の『ベルと竜』の中に出てくる。

ユダヤには預言者ハバククがいた。彼はスープを煮て、裂いたパンを鉢に入れ、刈り入れをしている人びとに持ってゆくために畑に行こうとしていた。すると、主の使いがハバククに言った。「お前の持っている食物をバビロンにはこび、ライオンの穴の中にいるダニエルにやりなさい、ハバククは言った。「主よ、わたしはまだバビロンを見たことがありませんし、その穴も知りません」。すると、主の使いはハバククの頭のてっぺんをとらえ、髪の毛をつかんで引きあげ、ひと息吹くと、ハバククをバビロンの、ダニエルの穴の真上におろした。ハバククは叫んだ。「ダニエル、ダニエル、神があなたに送ってくださった食物をとりなさい」。そこで、ダニエルは言った。「神さま、あなたはわたしをおぽえていてくださった。あなたは、あなたを愛するものをお捨てになりませんでした」。(新見宏訳)

この物語からベルニーニは、まさに天使が微笑みながら、当惑するハバククの髪をつかんでバビロンに連ぽうとするところと、クーポラに描かれた父なる神に、ひざまずいて感謝と祈りの言葉を発するダニエルの像とを制作した。そして前者を礼拝堂の右奥の壁龕に、後者を左手前の壁龕に安置したのである。したがって、礼拝堂でこの作品を観る我々の注意は、礼拝堂を斜めに横ぎり、さらにクーポラへと昇ってゆくことになる。つまり礼拝堂の空間全体が物語の舞台となり、そこに立つ我々は、その物語のただ中にいるように感じるのである。

009-005予言者ハバクク「予言者ハバクク」
Abacuc e l’angelo 1655-57.6
天使が微笑みながら、当惑するハバククの髪をつかんでバビロンに運ぼうとするところ
天使の人差し指が折れて欠落している。

予言者ハバクク Abacuc e l’angelo テラコッタモデル S.M.デル・ポポロ  ヴァチカン美術館所蔵

予言者ハバクク Abacuc e l’angelo テラコッタモデル S.M.デル・ポポロ
ヴァチカン美術館所蔵



009-007ダニエル「獅子と預言者ダニエル」
Daniele 1655-61.11
クーポラに描かれた父なる神に、ひざまづいて感謝と祈りの言葉を発するダニエル
ダニエルにまとわりつく衣が暗示する神秘的な力によって、ダニエルの肉体は重力から自由になって上昇するように感じられる。そしてその無重力的な脱力状態の肉体よって、ダニエルの法悦と天に向かう祈りとが表現されている。重力を感じさせない彫刻を大理石で達成するのは至難の業であろう。しかもこの作品においては、聖女テレサの法悦のような複雑な衣の表現によるのではなく、ただポーズと一片の布だけでそれが達成されている。


前者を礼拝堂の右奥の壁龕に、後者を左手前の壁龕に安置した。すなわち、礼拝堂でこの作品を見る我々の注意は、礼拝堂を斜めに横切り、さらにクーポラへと昇ってゆくことになる。礼拝堂の空間全体が舞台となるのである。
「おそらく我々より前の時代においても、た彼の時代においても、彼ほど大理石を自在に大胆に扱った者はなかった」とバルディヌッチは記している。このことは、このキージ礼拝堂の2つの作品を見ても痛感することだ。そこには《アポロとダフネ》や《聖女テレサの法悦》のような華々しさはない。だが全体の造形には寸分の隙もなく、かつどの部分にも大理石とほ思えないニュアンスの豊かさと美しさがある。この微妙な大理石の質感の変化を理解するためには、どうしても自然光で作品を見なけれぱならない。彫刻作品一般に言えることだが、教会に備えつけられた照明はしぱしぱ作品の効果を損なう。採光をも作品の一部とみなして現場の光を注意深く考慮し、かつ大理石彫刻のあらゆるニュアンスの表現に誰よりも精通していたベルニーニの彫刻の鑑賞には、とりわけ自然光が大切である。まして強いライトを当てて撮影された図版では、とうてい原作の豊かさは望めない。このキージ礼拝堂の2つの作品をつぶさに観察すると、こうしたことを痛感させられる。この礼拝堂はルネッサンスとバロックとが共存しているため、両者の比較には好都合であるが、光の効果に対する強い関心がバロック美術の特質の一つであることは、この礼拝堂の作品の比較からも明らかであろう。

ライオンの穴の中のダニエルのための粘土習作 Daniele テラコッタモデル S.M.デル・ポポロ  ヴァチカン美術館所蔵

ライオンの穴の中のダニエルのための粘土習作 Daniele テラコッタモデル S.M.デル・ポポロ
ヴァチカン美術館所蔵

この2つの作品は1655年、つまりアレクサンデル7世が教皇の座についてから制作が始められ、ダニエルは57年6月までに完成し、ハバククは61年の11月になってようやく壁龕に納められたことが知られている。この年代から予想されるとおり、2つの像にはベルニーニの晩年の彫刻作品の特徴である神秘性が明瞭に現われてきている。ハバククと天使では物語の性格上、神秘的雰囲気はそれほどでもないが、神に祈るダニエルはほとんど法悦の状態といってよい神秘的献身を感じさせる。つまり、ダニエルにまとわりつく衣が暗示する神秘的な力によって、ダニエルの肉体は重力から自由になって上昇するように感じられるのだ。そしてその無重力的な、脱力状態の肉体によって、ダニエルの法悦と天に向かう祈りとが表現されているのである。重力を感じさせない彫刻、言葉で言うのはたやすいが、それを実際に大理石で達成するのは至難の業であろう。それは、ベルニーニ以前には探求されたことのない大理石彫刻の可能性だったのではなかろうか。しかもこの作品において、《聖女テレサの法悦》のように複雑な衣の表現によるのではなく、ただポーズと肉体と一片の布だけで、それが達成されているのは驚くべきことだと思う。
ビルデンデン美術館所蔵:デッサン

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン

そしてこれに加えて、この彫刻が古代の作品にインスピレーションを得て制作されたという事実を知る時、我々の驚きは倍加される。この作品に関しては一連の準備デッサンが残っているので、その制作過程をさかのぽることができる。
それらを見ると、ベルニーニはこの彫刻を構想するに当たって、まずラオコーン群像中の《父》のトルソのデッサンから出発したことが分かる。そして次第にそれを彼の考える表現に適合させていったのである。そうした制作過程を経て、しぱしぱ「反古典的」、あるいは「ゴシック的」とまでいわれる、ダニエルの引き伸ぱされた肉体表現が生まれたのである。再三述べたように、古代との関係、すなわち古典主義の間題はイタリア美術史の根本間題の一つである。我々にとって、ベルニーニはバロックの創造者であり、古典主義的潮流とは対極にある美術家だが、ベルニーニ自身は古代とアンニバレ・カラッチの正統な後継者を自認していた。後年パリのアカデミーで美術家の教育について講演した時にも、彼は古代の作品から学ぶことの重要性を強調し、ベルローリの古典主義的理論をほとんどそのまま繰り返している。とはいえ彼は、他のバロックの美術家たちと同じように美術理論そのものにはあまり関心を示さず、その制作も理論の実践という性格は希薄であった。彼の制作は理性を基にしながらも、本能的・感覚的に行われたのである。こうしたベルニーニとプサンをはじめとする17世紀の古典主義的傾向の美術家たちとの違いは、ウイットコウアーが論じたとおり、古代美術のモデルの用い方によく現われている。つまりプサンらは、禁欲的な道徳に価値をおき、古代の造形によって自らの想像力の過剰を抑制し、そうすることで形態を浄化して、より高貴な表現に達しようとしたといえる。これに対してベルニーニは、逆に出発点に古代の造形を用い、幻視的な想像力を奔放に働かせてそれを変形し、彼の宗教感情に適合するような形態表現に近づけていったのである。イタリアにおいて古代は「第二の自然」であった。自然に対する美術家の態度が多様であったのと同時に、古代に対しても様々な対応が可能だったのである。

009-009キージ家の一人のレリーフ9.キージ家の家族の一人のレリーフ
礼拝堂の横奥の部屋にある。
009-222ピラミッドのような形のものについている。

ブロンズのメダイヨン装飾というのは、これのことか?

Vatican-4.Basilica di San Pietro
サン・ピエトロ寺院

Campanile per San Pietro 1645

Campanile per San Pietro 1645

サン・ピエトロの鐘楼
マデルノが建設したファサードは、明快すぎて宮殿のようでありあまり好評ではなかった。1629年にウルバヌス8世に命じられたベルニーニは、マデルノが構想だけに終わった、ファサード両端の鐘塔を実現させた。しかしこれも評判が悪く、イノケンティウス10世により取り壊された。

2007.2、内部はコースが組まれ、自由見学不可。

 

004-002サンピエトロ内部訂正大聖堂内部
1.天蓋バルダッキーノ Baldacchino
2A.聖ロンギヌスの柱と像
   Statua di S.Longino
2B.聖アンデレの柱と像 Statua
2C.聖ヴェロニカの柱と像
   Statua di S.Veronica
2D.聖ヘレナの柱と像 Statua
3.私の子羊を飼いなさい
  Pasce oves meas
4.ウルバヌス8世の記念碑
  Monumento di UrbanoⅧ
5.マティルダの墓
  Monumento alla Contessa Matilde
6.玉座(聖ペテロの椅子)の祭壇
  Altaere della Cattedra
7.秘蹟の礼拝堂
  Cappella del Santissimo Sacramento
8.アレッサンドロ7世の記念碑
  Monumento di AlessandroⅦ
9.参事会員の聖具室
  Depositi della Reverevda Fabbrica
10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
11.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro

004-004バルダッキーノ1.天蓋(バルダッキーノ) Baldacchino1624-33
枢機卿マフェーオ・バルベリーニは1613年に教皇に即位したが、すでにそれ以前に竣工した大聖堂の十字交差部の中央の聖ペテロの墓所の上に飾り大天蓋(バルダッキーノ)の建造が検討されており、実際に設計が提出されていた。ウルバヌス8世の教皇選出により、ベルニーニが依頼されることは確実となり、彼は1624年に制作を開始した。バルダッキーノの設計に関しては、旧大聖堂の天蓋の円柱と同様の、捻れ柱を使用した巨大なブロンズ製円柱の選択については、ベルニーニは他者からの提案を受け入れたらしいが、他のすべての点はベルニーニ自身の設計である。1633年に完成。パンテオンからとったブロンズを溶かして制作された。
あらゆるところに金の蜂がとまり、教皇ウルバヌス8世の紋章が刻まれ、宣伝になっている。




ウルバヌスに示すベルニーニ

ウルバヌスに示すベルニーニ

コンフォッシオーネ Altare Papale Chiamato della “Confessione”
クレメンス8世(1592-1605)時代に作られた、「告白」と呼ばれる教皇の祭壇。聖ペテロの墓の上に位置する。調査では、この下にさらに、カリストゥス2世(1119-1124)とグレゴリウスⅠ世(590-604)の時代に作られた二つの祭壇が存在していることが判明している。現在の祭壇は、聖ペテロを記念して4世紀にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑の真上に造られた。祭壇自体は、ネルヴァ帝のフォルムで発見された、帝政ローマ時代の飾りのない大理石でできている。
地下にアッバティーニによるフレスコ壁画があり、ロッジアの建築案をウルバヌス8世に見せるベルニーニが描かれている。

 

004-008聖ロンギヌスの像2A.聖ロンギヌスの像 Statua di San Longino
1631-38
続いて大クーポラを支える4本の巨大なピア(太柱)をはじめとする聖堂内部の装飾も依頼された。
クーポラの支壁の装飾として制作された4体の像は聖ロンギヌスだけがベルニーニの制作で、3体はそれぞれ弟子の手による。聖人像とともに、壁龕の上部にもうけられたもう一つの壁龕には、ソロモンの霊廟の伝説の基づき造られた、コンスタンティヌス帝の時代の旧聖堂のコンフォッシオーネ(祭壇)を囲んでいたねじれ柱で飾られた、それぞれの聖遺物

聖ロンギヌスの上部壁龕

聖ロンギヌスの上部壁龕

の象徴を掲げたテーマのレリーフがおさめられている。それらの聖遺物は、聖週間(復活祭前の一週間)にここから人々に示される。
「聖ロンギヌス」の完成は1638年である。バルダッキーノ制作中に原型をいくつも準備していた。台座の下はグロッタへの入り口になっている。
像の高さは4.4mもある大型のもの。衣襞の効果を最大限に利用し、その動きは自然に逆らったものになっている。22あったらしい習作粘土モデルのひとつがフォッグ美術館に現存するが、その衣襞は自然に忠実なものとなっている。現存しないが実物大の漆喰モデルも作ったとされ、この像のバランスというものにかなりこだわったと思える。
公開される聖遺物-ロンギヌスがキリストを傷つけた槍の穂先


フォグ美術館所蔵:テラコッタモデル

フォグ美術館所蔵:テラコッタモデル

ロンギヌス 1世紀(10月16日、3月15日)L.Longinus,Languinus,Longius.
〔伝記〕ゴルゴタの丘でキリストの処刑に立会った百人隊長。キリストの横腹に槍を突き刺した(ヨハ19:34)が、その血によって眼病を癒された兵と同一人物視される。福音書にはあげられていない百人隊長名は、ギリシア語ロンギノスが「長い槍」を意味することから生じた。神の子たることを確認した彼(マコ15:39)は、使徒に洗礼を受け、カイサリアで宣教し多数の改宗者を得た。殉教のとき彼の処刑を命じた盲目の総督に殉敦後、その眼が治されると預言した。処刑後彼の言葉通り開眼した総督は、キりスト教徒になる。遺骨はマントヴァヘ移され、12世紀以来同市の守謹聖人となった。なおキリストの聖血を受けた杯も彼が同市へもたらしたといわれる。
〔図像〕ローマの百人隊長あるいは中世の騎士の軍装で、徒歩か騎乗する。磔刑図中、徒歩では槍を腕に、馬上では兜を手に、キリストを見上げる。教義的表現としては受胎告知図や礫刑図中にそれぞれ聖母と天使、アリマタヤ出身のヨセフと対称的位置におかれる。また復活図では番兵として跪拝している。持物の長槍は、聖ゲオルギウスと異なり折れていない。彼が持つ巻物の聖句は、「本当に、(この人は)神の子だった‘Vere Fi1ius Dei erat iste’」(マコ15:39)

004-011聖アンデレ2B.聖アンデレの像
公開される聖遺物-聖アンデレの頭部(もとは東方教会の物で、1963年にパトラスのギリシャ正教会に返還された)

アンデレ 1世紀(11月30日)E.Andrew. L.Andreas.
伝記〕シモン・ペトロの弟。ガリラヤのベトサイダの漁師で、ペトロと共にキリストの最初の弟子となる。福音書刺こは詳述されないが、『黄金伝説』中の同聖人行伝によって図像表現される。それによると、キリストの死後スキティア地方をはじめ、ギリシア各地を巡り、犬に化けた7悪魔を追放、大火災の消火など奇跡を行なったのち、やがてペロポネッソス半島のパトラスに至り、市のローマ総督アイギアスの妻マクシミリアの不治の病を癒して彼女を改宗させたため、怒った総督は答刑を加え、X形十字架へ逆さに縄で縛りつけ処刑した。3日後に絶命した彼はマクシミりアにより埋葬され、一方、総督は悪魔によって殺害されたという。また死後の伝説に、美女に扮した悪魔に誘惑されようとした一司教を巡礼姿の同聖人が救う話がある。ペトロをローマに独占されたことに対抗して、東方教会で特に崇拝され、ギリシアとロシアの守謹聖人となった。4世紀に聖遺物の一部がスコットランドに移され、その守護聖人とされた。またブルゴーニュのフィリップ善良公が1433年十字架の一部をコンスタンティノープルから持ち来ったところから、彼の創設になる金羊毛騎士団の聖人とされるにいたった。
〔図像〕アンデレが磔された十字架は、中世を通じ、14世紀のイタリアの美術まではキリストと同形のラテン十宇架ないしはY形であったが、15世紀以来いわゆる「アンデレの十字架のX形十字」が表現されて彼の持物とされるようになった。手に彼の十字架と福音書を持ち、白髪白髯の老人として多く描写される。また魚のかかった漁網、十字架につけられたときの綱などを持物とする。

004-012聖ヴェロニカ2C.聖ヴェロニカの像 Veronica
1635-39 Franchesco Mochi作
公開される聖遺物-ヴェロニカがゴルゴダの丘に向かうイエスの顔を拭いたベール


聖ヴェロニカの上部壁龕

聖ヴェロニカの上部壁龕

ウェロニカ 1世紀(7月12日)LVeronica,
〔伝記〕ニコデモの外典福昔書によって、キリストの十字架運びの場面に現れるシリアの架空の聖女で、Vera icona(真実の画像)の人格化と考えられる。彼女がキリストの血と汗の顔を手布で拭ったところが、その布にキリストの顔が写し出されたという。ローマの聖ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)はそれといわれる。この伝説にもとづいて15世紀における布商人の神秘劇のキリスト受難場面では、彼女は盲目であったが、この布に目を触れると治ったという奇跡としてとり入れられた。のちガリアに行き、メドックのスーヤック・シュル・メールの砂丘にこもる。布商人、下着(製造)商人、洗濯業者の聖女。臨終の秘跡を受けずに死んだ人の護符や免罪にも関わる。今日では写真家の聖女。
〔図像〕トリエント公会議後は崇拝が衰えるが、中世末は盛んで、そのころはシリアの人を表わすターバンを巻いた中年婦人が、両手で胸の前にキリストの顔の写った布をかかげる。若い女として描かれることも多い。布で血と汗を拭きとる場面や、裸で上半身を木の盥から現わしているものもある。時にはローマの守護聖人ペトロとパウロの間に立つ図像がある。

 

004-014聖ヘレナ2D.聖ヘレナの像
Bolgi制作
公開される聖遺物-ヘレナが発見した聖十字架の断片


聖ヘレナの上部壁龕

聖ヘレナの上部壁龕

ヘレナ 255頃~330頃(8月18日)I.Elena. L.Helena.
〔伝記〕コンスタンティヌス大帝の母。イングランド生まれという。帝の対マクセンティウス戦勝利(312年)後に改宗して、多数の教会堂を建設。326年エルサレムヘ巡礼、特に磔刑の行われたカルウァリア丘で数度の発掘を行い、三つの十字架(キリストの磔された真の十字架は、その上に病女を横たえて、彼女が治されたことによって擁認された)と、キリストの十宇架上につけられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見。ついでキリストを打ちつけた釘も発掘され、その二つは帝に捧げられ、彼は馬頭の飾り紐と兜にこれをつけたという。
〔図像〕王妃として冠をかぷり、豪華な衣裳をまとう。特徴ある持物はキリストの受難具で十字架、槌、茨の冠、3本の釘、時には聖墳墓の模型。ヘレナの見た、天使が十字架を持って現われる幻想の表現は16世紀以後

 

004-013私の子羊を飼いなさい3.私の子羊を飼いなさい Pasce oves meas 1633-47
設計 制作は弟子

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン



004-018ウルバヌス8世の記念碑4.ウルバヌス8世の墓 Monumento di UrbanoⅧ
1628-47
パウルス3世のそれと対をなすように構成されている。記念碑的性格が主ではあるが、死の象徴である棺をミケランジェロ以来復活させた。
左の慈悲の像は胸をあらわにして子供に乳を与えるポーズだったが、後に漆喰で覆われてしまった。





004-024マティルダの墓5.マティルダの墓 Monumento alla Contessa Matilda di Canossa 1633-37
彼女は教皇と皇帝が抗争した11世紀にローマ教皇の保護者として活躍した。そのため、左手には聖ペテロの鍵を、右手には指揮杖を持った姿で表されている。この気性の激しい伯爵夫人の遺骨を納めた石棺の上には、

所蔵不明:最終モデル

所蔵不明:最終モデル

1077年1月28日のカノッサ城におけるドイツ皇帝ハインリッヒ4世が描かれており、皇帝は彼を破門したグレゴリウス7世の足下にひざまずいている。
ベルニーニのモデルに従って弟子が制作。
石棺の彫刻はStefano Speranza


004-026聖ペテロの司教座の祭壇6.玉座の祭壇 Altaere della Cattedra
1658-66
大聖堂の入口から身廊沿いに眺めると、バルダッキーノの捻り柱がいわば額縁のようになって得られる偉観を、ベルニーニは後陣の祭壇の上に創造した。アレクサンデル7世の時代に1658年から1666年にかけて制作された。
すなわち大聖堂の貴重な聖遺物である聖ペテロの司教座であり、伝承によると聖ペテロが最初にローマに到着してプデンスの家に泊まったときにこれに座して説教を行ったという。けれども、実際にはこれは875年に禿頭王シャルルが教皇ヨハネス8世に寄贈した物である。象牙装飾の木造椅子で、この椅子は1217年の記録に初めて現れており、おそらく8世紀または9世紀の作品であろう。この聖遺物を納めている金箔張りの浮き彫りのあるブロンズの玉座の周囲には、4人の教会大博士、聖アウグスティヌス、聖アンブロシウス、聖アタナシウス、聖ヨアンネス・クリュソストモスの大きなブロンズ像があり、玉座の上方には無数の天使たち、雲と光の渦の中に実際のステンドグラスの光により浮かび上がる聖霊がいる。 この巨大な装飾には、121t以上の青銅が使用された。
テラコッタ制作の時点では、背もたれと座部の下の部分のデザインが実際と違っている。




博士 四人の(1月30日)I.IDottori della Chiesa.L.Doctores Ecclesiae.

〔解説〕ギリシアおよびラテン教会で最も有名な4人の神学者をいう。後世神学の精神的な祖として尊敬され、教会の父ともよばれる。福昔書に対応して4人は、ギリシア教会ではアタナシウス、バシリウス、ナツィアンツのグレゴリウス、ヨアンネス・クリソストムスで、アレクサンドリアのキリルスが加えられ5博士になることがある。ラテン教会はアンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスおよび大グレゴリウス。
〔図像〕ギリシア敦会では区別して表現することは少ない。聖所のモザイク、フレスコ画で描写され、像は無帽、十字架を散らした法衣をつけ聖書を携え、右手でギリシア教会の礼式に従い祝福する。ラテン教会では主として被りもので個人別を表わす。教皇グレゴリウスは教皇の三重冠、ヒエロニムスは枢機卿帽、アンブロシウスとアウグスティヌスには司教冠というように。また東西を通じて4博士が単独で表現されることがある。特にルネサンスとバロック期に説教壇の装飾にこのテーマが用いられ、トリエント公会議後は高位聖職者の墓装飾として従釆の四美徳にとって代わった。15世紀に両教会の合同が企てられたとき、東西の四大博士が一緒に表現されたこともある。


004-034秘蹟の礼拝堂の祭壇7.秘蹟の礼拝堂 Cappella del Santissimo Sacramento
1673-75
ボッロミーニによる優美なバロック様式の鉄の門で仕切られた、秘蹟の礼拝堂がある。これは聖餐に捧げられた礼拝堂であるが、この秘蹟は、イエスが死と復活の前に使徒たちに語った言葉に基づいて、司祭によって聖別されたパンとワインに、主ご自身がおられるとするものである。中央の祭壇の上には、ベルニーニによる非常に高価な、小神殿の形をした櫃(Tabernacolo a forma di tempietto)がある。これはサン・ピエトロ大聖堂の最初の建築家だったブラマンテの、サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂にある小神殿を反映させたものであろう。そしてその背後には、1669年に、ピエトロ・ダ・コルトーナが描いた、三位一体(Trinita)がある(大聖堂内に絵画のまま残る唯一の祭壇画である)。これはカトリックの教義にもとづいて、唯一神が三つの同じ、しかも区別される人格として示される、という信仰の奥義を示したものである。その三つの人格とは、すなわち可視、不可視の宇宙の創造者である神、それから罪深い人類の贖いのために犠牲となり、死から甦り、最後の審判の日に再びやって来る受肉した息子、そして両者から発せられ、預言者にとっては霊感であり、教会の光と先導者である聖霊(ここでは輝く白いハトとして示されている)である。櫃の両側にいる青銅鍍金の天使像(Angeli di bronzo dorato)は、ベルニー二作。礼拝堂の丸天井と壁は、ピエトロ・ダ・コルトーナによる、聖餐に関するエピソードを表わした見事なスタッコ装飾でおおわれている。




004-044アレッサンドロ7世の記念碑8.アレクサンデル7世の記念碑 Monumento di AlessandroⅦ
1671-78
ベルニーニ最後の作品として知られる。1678年完成時ベルニーニは79歳であった。「祈りの概念」を表現したこの墓はアレクサンデル7世自身によって注文されたが、実際の制作は彼の死去後クレメンス10世の時代になってから。
ウルバヌス8世の墓と類似した構成ではあるが、特徴であった石棺が壁龕に出入り口(祈りの扉)があるために採用されず、出入り口を布を模した大理石でおおいあたかも暮室への入り口か冥府への扉であるかのように見せるという見事な解決法を用いている。




9.参事会員の聖具室 Depositi della Reverenda Fabbrica
004-051アレッサンドロ7世のダマスカス織りサン・ピエトロの角柱を参考にした、アレッサンドロ7世のダマスカス織り
Damaschi con stemma di Alessandro VII per I pilastri della Basillica di San Pietro


004-052エリザベッタの列聖式ポルトガルのエリザベッタの聖列式
Addobbo di San Pietro per la canonizzazione di Elisabetta di Portogallo


004-0053司教座の容器サン・ピエトロの司教座の容器 Custodia della cattedra di San Pietro
9cカロリング王朝時代の司教座を納めるための容器



10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
004-054天使像のテラコッタModelli degli angeli della Sedia in scala minore
Angelo a sinistra 1659-60
Angelo a destra 1659-60


004-055天使たちのテラコッタModelli degli angeli della Sedia in scala maggiore
Angelo a sinistra 1665
Angelo a destra 1665



60.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro
004-056サン・ピエトロ宝物館Ⅰ.柱の部屋
Ⅱ.聖ペテロの玉座の部屋
Ⅲ.聖職禄司祭の礼拝堂
Ⅳ.シクストゥスⅣ世の部屋
Ⅴ.聖遺物器の部屋
Ⅵ.燭台の部屋
Ⅶ.天使の部屋
Ⅷ.ギャラリー
Ⅸ.ユニウス・バッススの部屋


Ⅵ.燭台の部屋-4
004-057燭台二つの大きな展示ケース3,4には、二つのグループの燭台が収めてある。これらはピウス12世の時代まで厳粛な儀式の際に、大聖堂の主祭壇で使用された。第一のグループの燭台(Primo gruppo di candelieri) は、祭壇用十字架とともに鍍金したブロンズでできており、セバスティアーノ・トッリジャーニ作である(1585年頃)。これらの燭台は、その後長い問、無数の祭壇用燭台の形式に影響を与えた。第二のグルーブの燭台(Secnd gruppo di candelieri) は、鍍金した銀製で、アントニオ・ジェンティーリ・ダ・ファエンツァの署名が入った祭壇用十字架を含んでいる(1581年)。そのそばに置かれた二つの燭台も彼の作品である。そして残りの四つの燭台はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの素描をもとに、カルロ・スパーニャが制作した。台座にはめ込まれた水晶のメダイヨンには、ヴァレリオ・ベッリが受難伝の諸場面を刻んでいる。


Ⅶ.天使の部屋-6
004-041秘蹟の礼拝堂の天使左モデルサクラメント礼拝堂の天使モデル Angelo di sinistra
1673頃

部屋不明

命ある十字架Crocefisso vivo

命ある十字架
Crocefisso vivo


十字架Crocefisso

十字架
Crocefisso



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激愛ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂

わたしたちはサン・ピエトロ大聖堂(Basillica di San Pietro) の中央身廊にいる。行きかう人びとの頭上のかなたに鳥居のようにそびえ立つ天蓋(パルダッキーノ=Baldacchino)が正面に見えるだろう。四本の柱に支えられた傘状のそれの下にはローマ法王がミサをとりしきる中央祭壇があり、そのさらに下方にはキリスト十二使徒のひとり、ローマカトリック教会の布石ともいえる聖ピエトロの遺骸をおさめた地下聖堂が位置する。月桂樹のツタが絡まった十一メートルのねじり棒のごとき四本の柱も、その先端に柔らかくかけられた法王のシンボル入りの垂れ幕も、その上に飛びかう天使もすべて黒緑色のブロンズ製だ。
ところどころにほどこされた金細工が、地の暗色とあいまってより光を放つ。天蓋全体の高さは二十メートルはど、六、七階の建物の高さに相当する。そしてその上方にはミケランジェロのつくった高さ132.5メートルの丸天井がおおいかぶさっている。近づけば近づくほど人びとの目線は上へ上へと上昇していくことだろう。さもなければ天蓋前方に大きく口を開けた聖人の地下聖堂への入口に気づき、一気に地下へともぐってしまう。ゆえに、その中間に位置する、ブロンズの柱を支える四つの大理石の台座に、あえて多大な注意を払う人は多くはない。もしいたとすればその人は、その台座に彫りこまれた謎を知っていることになる。

台座

台座

 台座の形は四角柱で、おもに白とだいだい色の二色の大理石からなっている。各台座の外側二面には家紋の浮き彫りがなされている。上部に二匹、下部に一匹、合計三匹の蜂をあしらった盾だ。この天蓋を1624年に発注した法王ウルバーノ八世のものである。それ以外に装飾として盾の上に女性の顔があり、さらに彼女をおしつぶすかのように天国の扉をあける重々しいふたつの鍵が交差している。そしてさらにその上に丸みをおびたコーン形の法王の冠がのっている。いっぽう盾の下部には、魔物を思わせる恐ろしげな顔がついている。四つの台座に彫られた紋章は合計八つ。この八つの紋章が一連の意味をなすためには、天蓋に向かって左前方の紋章から時計まわりに、天蓋の周囲をまわりながら見ていく必要がある。注目するのはとくに三点。盾につけられた女性と魔物の表情、そして盾部のふくらみの変化だ。
ひとつめの紋章。女性の顔はわずかに眉をひそめうつむきかげん。ほのかにほはえんでいるようにも見えるがどこか哀しそうでもある。いっぽう魔物はといえば鼻をもたげ、下唇を下方に大きく開き、上機嫌な酔っぱらいのように笑っている。つぎに盾部だが、前から見ると全体的にこんもりとしているだけに見えるが、真横から見てみると意外な形が浮かび上がる。蜂二匹のついた上部が蜂一匹のついた下部に比べ、明らかに山形に盛り上がっているのだ。その上方にある女性の横顔から目線を下げていくと、盾のふくらみがじっに女性の身体のラインを描いていることに気づくであろう。上部に並んだ蜂二匹はふたつの乳房を、下部の一匹はへその位置に相当する。となると、位置関係から考えて、はたしてこの魔物はいったいなにをあらわすことになるのか。
ふたつめに進もう。彼女はさらに眉をひそめ、なにか言いたいことがあるかのように口を開いている。いっぽう魔物の下唇は消え、持ち上がった鼻の中央にあいた穴が口とつながり、顔のまんなかにみぞが開いたようになっている。そして盾はというと、下部、いやその腹部が乳房の高さと等しいほどに盛り上がってきているではないか。
さて三つめである。微妙な違いではあるが、いまや腹部は乳房よりも突き出ている。いっぽう彼女の表情といえば見るにたえない。眉の間には深い苦悩のしわが刻みこまれ、無言の絶叫をあげているのだ。こころなしか一気に老けこんだようにも見えるのは、ロが大きくあけられ、頼の筋肉がひきつったせいであらわれた深いしわのせいであろう。魔物の頼も同じようにひきつっている。みぞ状に変化した彼の口はその中央部が引き締められ、下のほうが広くなっている。そしてここにきて気づくことがひとつ。彼の頬がまるで骨盤のように見えることである。
つぎへ進もう。魔物のロはさらに縦に長く伸び、まるで脊髄の一部のようにも見える。彼女は疲れ切った顔ではあるが、もはや叫んではいない。ただ目の下がげっそりとくぼんでいる。腹部と乳房の高さは同じくらいに戻ってきたようであるが、微妙な変化で見てとりにくい。
五つめの彼女はふし目がちではあるが、すこしばかりほほえんでいるようにも見える。いっぽう魔物の変化が大きい。大きく伸びていた口(みぞ)が閉まりはじめ、鼻部が再度あらわれている。頬と思わしきふくらみも戻っているが奇妙に縦長のかたちだ。言い切っていいだろう。これは女性の性器にあまりに似ている。
六つめ、腹部も胸部もふくらみをほとんどなくしている。彼女はやっと顔を上げるが、やはりまだ苦しそうである。いっぽう魔物の細く吊り上がった目はきつく閉じられ、女性性器に酷似していた彼の頬の盛り上がりは消え、口は顔の下のほうに遠慮がちに小さく閉じられている。
七つめの浮き彫りのなかで、彼女はようやっと明らかにわたしたちに顔を向ける。髪はざんばらに乱れ、眉を苦しげに寄せてはいるがまなざしは強い。小さく開けられた口はやはりここでもなにかを語りたがっているようだ。呆然としているようにも見えるし、なにかをあきらめざるをえない悔しさを押し殺している表情にも見える。哀しい顔だ。彼女の身体、盾からは、女性特有の丸みは消え、味気のないただの盾となりつつある。いっぽう魔物はまぶたを閉じ、深いしわの刻みこまれ
た静かな表情をしている。
最後の台座に進もう。その変化は劇的だ。まず魔物の顔ほすっかり老人の顔となり、女性性器の大陰唇に酷似していた頬のふくらみは、いまや口の両側に伸びる長いヒゲに変化してしまった。古い森に住む物知りな魔法使いといった感じで、父性すらかもしだしている。いっぽう盾部はといえばすっかりふくらみをなくし、いまやほぼ平坦といっていいほどの浅いカーブを描いているばかりである。そして「彼女」は、もういない。彼女のいた場所にはかわりに小さな丸っこい顔がのぞいている。リンゴの頬。くるくるの巻き毛。下を向いてはいるがはっきりとわかる。それはほほえんでいる子どもの顔である。
苦痛に叫ぶ女性の顔。大きく開いては閉じていく生殖器。そして最後にあらわれる子どもの顔。この一連の浮き彫りが出産シーンをあらわしていることはまずまちがいない。ただ法王がミサをとりおこなう場所にもかかわらず、あまりにも女性性器の描写が細やかだったり、切るように痛々しい女性の表情がちりばめられているものだから、この浮き彫りの意味するところをめぐり、数世紀にわたって人びとの想像力に火をつけるところとなったのである。
作者の名はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。わずか二十五歳でこの天蓋の製作を任され、以後法王の芸術家としてサン・ピエトロ大聖堂の内装から、284本の柱からなる回廊をもった聖堂前の広場の製作まで指捧をとったのが彼である。また有名なトレビの泉も彼の作品だ。古代ローマの遺跡群とともに、ローマの街に特異な表情を与えている、豪華さと人を驚かすエンターテインメント性がきわだつバロック芸術の生みの親だ。
さて、例の出産シーンにかんしての伝説や仮定はいくつかある。ひとつめの伝説は、当時妊娠していた法王ウルバーノ八世の姪が寄進したというもの。無事出産を終えることができたら、ベルニーニがその吉事を台座に刻むことになっていたというものだ。しかし、出産の最後の瞬間までつづくあの苦しそうな表情は、吉事の記念としてどうかとも思うし、なにより性器をリアルに措かれることを名家の姫が承知したとは思えない。
宗教的な意味合いからの仮説もある。新約聖書のジョバンニ(ヨハネ) の福音書にある、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることばできない」 や、「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時がきたからである。しかし子どもが生まれると、ひとりの人間が世に出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」などのフレーズからインスピレーションを受けたとするものだ。宗教的な再生も生き物としての誕生も、どちらも楽なものではなく苦痛を伴うものと解釈すれば、あの彼女の苦しげな表情は説明がつくかもしれない。


ほかに、苦節9年間をかけた天蓋の製作期間を妊娠期間になぞらえ、天蓋完成後に記念としてこの浮き彫りを刻んだとする説もある。しかし、万が一その作業段階で台座にヒビでも入ったときには取り返しがつかない。めったにだれも気づかないであろうヒビが、完成後のある胸像に入っているのを発見したベルニーニは、丸ごとその胸像をつくりなおしたという。11メートルのブロンズの柱をまた立て直さなければならなくなる、そんなリスクをベルニーニが犯したろうか。
さて、数ある伝説のなかでもっとも有名なのがつぎのものである。 若きベルニーニは、時の法王ウルバーノ八世の姪と恋仲になり、ふたりは結婚を考えるまでにいたった。しかしいくら天才的とはいってもしょせん生まれの低いベルニーニと、ローマでもっとも権力をもっていた家族出身の姪っことの結婚を、法王はけっして許そうとはしなかった。しかし法王の反対にもかかわらず、彼女はついに身ごもり、ベルニーニの子どもを産み落とす。しかしこのことがさらに法王のいら立ちをあおることとなってしまい、ふたりは結局、法王によって引き裂かれるのである。ベルニーニはこの若き日の苦い経験と報われなかった愛を、天蓋の台座の石のなかに永遠に封じこめたという。
いかにも人びとが好みそうなメロドラマである。しかし、もしもこれが事実であれば、今も昔も大のうわさ好きのローマっ子たちが黙っていたわけがない。しかしそういった資料はいまのところみつかっていないのだ。いっぽうベルニーニの後援者であった法王ウルバーノ八世とベルニーニの関係については、時のローマっ子たちはこううわさしていた。
「法王は起きている間ベルニーニを片時もはなさず、やれ新しい教会だ、やれ新しい式典の準備だと設計図をのぞきこんでいる。ベルニーニがシーツをかけてやらぬかぎり寝床にもつかぬ」
法王という絶対的な権力者を後援者としてもつことで、この法王の在位した二十年間というもの、ベルニーニは各地からローマに集まってきた芸術家たちの実質的独裁者でありつづけた。彫刻や絵画という一点ものの作品をつくる芸術家というより、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋や広場など、とてつもなく規模の大きな芸術的建設事業の監督となったベルニーニは、そこで必要とされる労働力としての芸術家の選択権をもっていた。
法王の発注した仕事につくことは、芸術家にとっては人生のチャンスにほかならない。給料が安かろうが自分の名前が表に出まいが、いつか法王にお目通りがかなうはず、と願って働きつづけた無名の芸術家が何人もいたことであろう。しかしベルニーニは法王の寵愛をほかのどの芸術家にも分け与える気などさらさらなかったようだ。「彼が金を手にするのに腹は立たない。しかしわたしの労苦をおのれのものとして誇っていることが口惜しい」。ベルニーニとともにバロック芸術の旗手といわれたボッロミーニの言葉である。うわさ好きのローマっ子の目を盗み、これほどの 「おいしい立場」と引き換えにしてもよいと思えるドラマティックな恋を、ベルニーニがしていたと考えるには、やはり多少の無理がある。
ではこの伝説は事実無根のまったくの想像なのか、といえばそうではない。法王が「待った」をかけた若き日のベルニーニの恋は、たしかにあったのである。
1628年、天蓋のブロンズの柱が大理石の台座にようやっと立てられた翌年、ベルニーニはミケランジェロの丸天井を支える四つの巨大な柱の装飾にかかわる新プロジェクトを始動させた。そのプロジェクトのチームにマッテーオ・ボヌチェッリ(もしくはボナレッリ)というトスカーナ地方出身の三十代の男が加わった。彼もひとかどの芸術家ではあったのだが、なによりも彼の恵まれていた点はその妻であったという。生気に満ちた強さと甘さをかねそなえた顔、頭の上で束ねられたカラスの羽のように真っ黒な髪、胸元からこぼれるはじけんばかりの胸。その名をコスタンツァといった。
ベルニーニとこの人妻の問にいつ特別な感情が生まれたのかを限定するのはむずかしい。夫人が、夫の彫った天使の像が見たい、あっちの天使の像の試作品が見たい、と言いながら、夫とベルニーニの働くサン・ピエトロ大聖堂の工事現場に足しげく通いはじめたころは、ふたりの関係はまだただのうわさでしかなかった。しかし1635年(一説によると1636年から1638年の間)、ベルニーニがフィレンツェのパルジュッロ美術館にいまも残るコスタンツァの胸像をつくったころには、ふたりの関係は決定的なものとなっていた。
胸像のコスタンツァは乱れ髪を軽くまとめ、かすかに眉をひそめ眼光鋭く、おちょぼ口ではれぼったい唇を、これからほほえもうとするその直前の瞬間といった感じで薄くあけている。寝巻きのような薄もののシャツの胸元のボタンは外されており、胸の盛り上がりが見え、あごの下にも十分に肉のついたその顔は、彼女の肉体がかなり豊満であったことを想像させる。貴族の女性のつくり上げられた美しさというより、太陽の下で汗をかき、服装の乱れも気にせずに働く農婦か洗濯女の色香(事実、彼女の父親は馬丁であった)。ベルニーニはこの胸像をみずからのために製作し自宅に飾っていたのだ。
恐れるものをもたない独裁芸術家と、彼のアシスタントの「妻」との関係は、貞操観念と男性にたいする劣勢、従順のみが女性に求められていた時代ではあったが、結局のところ夫のふがいなさの反映でもあり、ローマの南国的な開放感も手伝って、それを表立って批判する向きはあまりなかったようだ。ベルニーニが1628年からたずさわっていた法王の墓碑の製作にあたり、その一部をなす「慈愛」の像、乳房を赤子に含ませている女性像のモデルにコスタンツァを選んだときも、法王はあえて反対はしなかった。自分のお気に入りの芸術家の愛人(しかも人妻)の半裸の姿がみずからの墓に後世も残ることに同意したのである。そのころに製作されたと思われる一枚の油絵がベルニーニの家にあった。画面にはふたりの肖像が描かれている。鏡に映ったコスタンツァを見つめるベルニーニの自画像であった。
ともあれふたりの蜜月は1638年までつづき、三文芝居的終局を迎える。コスタンツァがベルニーニの十三歳年下の弟ルイージとも関係をもっていたことが発覚したのだ。ふたりにかんするあらぬうわさを耳にしたベルニーニはある晩、翌日は郊外に出かけると嘘をつき、翌朝大聖堂の裏にある自分の工房に向かった。工房とコスタンツァの家とは目と鼻の先である。そしてそこで、着衣の乱れたコスタンツァに見送られ、彼女の家から出てくる弟の姿を目撃したのだ。
その後のベルニーニの行動は、感情的というにはあまりに凶暴なものであった。弟のあとをつけたベルニーニは、サン・ピエトロ大聖堂で鉄の棒片手に弟に追いつくと、肋骨を二本折るほどの勢いで殴りつけた。もしも通りがかりの人間がベルニーニを押さえなければ、きっと実の弟をたたき殺していたことだろう。しかしそれだけではない。家に戻ったベルニーニは、使用人にギリシャワインの大ビン二本と剃刀を用意させるとこう言ったのだ。「わたしからの贈り物だといってコスタンツァのもとへこのワインを持っていき、チャンスをみはからって彼女の顔を切り刻め」主人の命令にとりあえず使用人は従うが、彼女には運のよかったことに、この使用人には女の顔を切り刻む勇気がなかった。結果、傷害未遂のためこの使用人は追放となり、ベルニーニには罰金がかせられた。しかし「芸術の才すばらしく、まれなる人材で、ローマに栄光の光をさずける」という理由で、法王はベルニーニに無罪放免を言い渡した。
しかし、まだ終わりではなかった。無罪放免を言い渡されたベルニーニは、再度弟の命をねらったのだ。むき身の剣を持って家に入ったベルニーニは、泣いてとりすがる母に見向きもせずに弟を追いまわし、弟が表に飛び出すと、そのうしろを剣を振りかざしながらサンタ・マリア・マッジョーレ(Santa Maria Maggiore)教会まで追いかけ、ベルニーニの剣幕と権威にしりごみする聖職者たちをしりめに、悪言雑言をはきちらしながら教会内で弟を殺そうとしたのだ。ルイージはほとほと運の強い男とみえて、このときにも命は助かっている。哀れなのは、兄弟で殺しあう息子たちを見てしまった母親であろう。「まるで自分がこの世の支配者であるかのようにふるまう」この偉大だが尊大な息子を、なんとかしてやってくれ、と法王に直々の嘆願書を送ったのだった。
法王みずからがベルニーニを「更生」させるためにのりだし、ベルニーニがその説得に屈したのは1639年5月のことである。法王推薦の司教区弁護士の娘カテリーナ・テーツィオと結婚式をあげたのだ。ベルニーニ四十歳、カテリーナ二十歳。この親子ほども年のちがう妻との間に、ベルニーニはじつに十一人の子どもをもうけることになる。結婚の翌年、ベルニーニが昼に夜に愛でていたであろうコスタンツァの胸像が、フィレンツェのメディチ家にひきとられた。新妻がその存在をよかれとしなかったのは想像のつくところである。ベルニーニは快諾したのだろうか。おそらく妻の手前そうであったろう。いや、彼がみずからそうしたのかもしれない。実の弟との裏切りという形で彼との関係を踏みにじった女だ。しかももともと人妻ではないか。三人の男を手玉にとった悪女の顔など見たくないのが当然だ。
しかし、実のところ、彼の心中はいかばかりのものだったのか。
コスタンツァの胸像がベルニーニ家から消え、長男ピエトロが誕生した1640年、ウルバーノ法王の墓碑の一部である「慈愛」 の像の製作がはじまる。コスタンツァをモデルにしたあの半裸の女性像だ。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋の後方、聖堂のもっとも奥まったところに、精霊のシンポルである鳩が陽光を背に光っている。そのすぐ右手にあるのが法王ウルバーノ八世の墓碑である。礼拝用の木製の長椅子がつねに並べられているため、残念ながら近づくことばできないが、双眼鏡でならなんとか見えるかもしれない。最上段で祝福のポーズをとる法王の両脇に女性がひとりずつ立っている。奥が「慈愛」だ。製作された当時はむきだしになっていた左の乳房は、後世になって検閲にひっかかり、しつくいの布で隠されてしまった。その布越しの乳房に男の赤子が頬と唇をよせている。いっぽう彼女の右側には、子どもが泣きべそをかきながら彼女の衣服にしがみついており、彼女はその子どものほうに頭をかたむけ、それを優しく見下ろしている。ふくふくとした手の甲や丸みを帯びたあごのラインから、どちらかというと肉づきのよい女性像であることがわかる。低いところでゆるくまとめられた髪。そしてちょっとすねたように突き出された唇の厚いおちょぼ口。
コスタンツァだ。
モデルを変えることはいくらでもできたろうに、いちどはその顔を剃刀で切り刻もうとまでした女の顔と身体を、ベルニーニは慈愛像に彫りこんだのである。それだけではない。四年にわたるこの像の製作期間中、長男ピエトロは働く父の周りにちょこちょことまとわりついていた。また完成の年までに、ベルニーニにはさらにふたりの子どもが生まれている。つまり慈愛を象徴するコスタンツァが抱いている子どもは、ベルニーニの子どもたちがモデルである可能性が高いのだ。ベルニーニはこの像のなかに、コスタンツァが自分の子どもを産み、それを法王が祝福するという実現できなかった彼の夢を彫り込んだのか。それともあの伝説のように、コスタンツァはベルニーニの子どもを身ごもっていたのだろうか。彼がよく知っていたコスタンツァの像はもう彼の家にはない。同じ顔の、しかし魔性をすっかりとりのぞかれた美しいコスタンツァの姿だけが、大聖堂に残った。
妻に遅れること七年、ベルニーニが八十二歳に十日足らずで息をひきとったとき、主のいなくなった彼の部屋から半分に引き裂かれたあの油絵が見つかった。残っていたのはベルニーニの自画像の部分のみである。鏡のなかのコスタンツァがいつ、どこへいったのかはだれも知らない。
あの天蓋の台座の謎は、伝説と理論の間できっといつまでもゆれつづけるのだろう。ベルニーニが愛と憎しみの間でゆれていたように。

ローマ・ミステリーガイド
市口桂子

Vatican-6.Vatican
その他

 ???クリスティーナ女王滞在の時に、??? この項未確認
  教皇との単独謁見の際の特別の椅子
  ベルヴェデーレの中庭を見下ろすヴェンティ塔に部屋を提供される。その部屋の調度、ベッド

  空色の布張りと銀の台座を持つ駕籠椅子
  宴会に招待されたときのテーブル

003-001ヴァチカンの蜂の噴水「蜂の噴水」Fontana delle Api in Vaticano
1625-
ボッロミーニの作

Vatican-3.Pallazo Pontificio
教皇宮殿(非公開)

002-001教皇宮殿1.王の間 Sala Regia
9.君主(公爵)の間 Sala Ducale
10.パオリーナ礼拝堂
Capella Paolina
18.王の階段 Scala Regia
19.大聖堂のアトリウム
Atrio della Basilica di San Pietro
20.コンスタンティヌスの騎馬像
Statua di Constantino
21.コンスタンティヌスの前廊
Portico di constantino
22.青銅の扉、教皇宮殿の入口
Portone di Bronzo

1.王の間 Sala Regia

 

9.君主の間 Sala Ducale
002-002君主の間002-006君主の間2アーチ装飾 1656-57 漆喰

2007.2確認不可


10.パオリーナ礼拝堂 Capella Paolina

 

18.スカラ・レージア
002-003スカラ・レージア1663-66
スカラ・レージアは、ヴァチカン宮殿の儀礼用玄関(アトリウム)から教皇居室(王の間)まで通じている。ベルニーニが1666年にこの堂々たる階段を完成する以前は、教皇はパオリーナ礼拝堂からシスティーナ礼拝堂を通ってサン・ピエトロ大聖堂のポルティコまで、暗く狭い階段を下りて行かなければならなかった。限られたスペースしか利用できず、光が入らないために生ずる課題を解決するために、ベルニーニは自分の主要な技術的業績というほどの工夫を凝らした。
002-004スカラ・レージアのデッサンこの階段は昇るに従って幅や高さが狭められているため、透視図的な効果が一段と強調されて、実際以上に長大な階段であるかのような錯覚を起こさせる。通路の両側に列柱が適当の間隔を置いて並ぶのは、列柱美を発揮するとともに透視的効果を倍加させる。

19.大聖堂のアトリウム

 

20.コンスタンティヌスの騎馬像
002-004コンスタンティヌスの騎馬像1662-68
非公開ではあるが、大聖堂アトリウム(玄関)の右手からガラスの扉越しにみることができる。
皇帝の前に不意に十字架があらわれ、お告げを受けた皇帝の驚きと信頼を表現している。壁に付けられているために、後ろ脚で立つ騎馬像という課題が難なく解決されている。

21.コンスタンティヌスの前廊

 

22.青銅の扉、教皇宮殿の入り口