
Campanile per San Pietro 1645
サン・ピエトロの鐘楼
マデルノが建設したファサードは、明快すぎて宮殿のようでありあまり好評ではなかった。1629年にウルバヌス8世に命じられたベルニーニは、マデルノが構想だけに終わった、ファサード両端の鐘塔を実現させた。しかしこれも評判が悪く、イノケンティウス10世により取り壊された。
2007.2、内部はコースが組まれ、自由見学不可。
大聖堂内部
1.天蓋バルダッキーノ Baldacchino
2A.聖ロンギヌスの柱と像
Statua di S.Longino
2B.聖アンデレの柱と像 Statua
2C.聖ヴェロニカの柱と像
Statua di S.Veronica
2D.聖ヘレナの柱と像 Statua
3.私の子羊を飼いなさい
Pasce oves meas
4.ウルバヌス8世の記念碑
Monumento di UrbanoⅧ
5.マティルダの墓
Monumento alla Contessa Matilde
6.玉座(聖ペテロの椅子)の祭壇
Altaere della Cattedra
7.秘蹟の礼拝堂
Cappella del Santissimo Sacramento
8.アレッサンドロ7世の記念碑
Monumento di AlessandroⅦ
9.参事会員の聖具室
Depositi della Reverevda Fabbrica
10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
11.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro
1.天蓋(バルダッキーノ) Baldacchino1624-33
枢機卿マフェーオ・バルベリーニは1613年に教皇に即位したが、すでにそれ以前に竣工した大聖堂の十字交差部の中央の聖ペテロの墓所の上に飾り大天蓋(バルダッキーノ)の建造が検討されており、実際に設計が提出されていた。ウルバヌス8世の教皇選出により、ベルニーニが依頼されることは確実となり、彼は1624年に制作を開始した。バルダッキーノの設計に関しては、旧大聖堂の天蓋の円柱と同様の、捻れ柱を使用した巨大なブロンズ製円柱の選択については、ベルニーニは他者からの提案を受け入れたらしいが、他のすべての点はベルニーニ自身の設計である。1633年に完成。パンテオンからとったブロンズを溶かして制作された。
あらゆるところに金の蜂がとまり、教皇ウルバヌス8世の紋章が刻まれ、宣伝になっている。
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マデルノのバルダッキーノに天使を配置してみたデザイン
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一番はじめのデザイン
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台座

ウルバヌスに示すベルニーニ
コンフォッシオーネ Altare Papale Chiamato della “Confessione”
クレメンス8世(1592-1605)時代に作られた、「告白」と呼ばれる教皇の祭壇。聖ペテロの墓の上に位置する。調査では、この下にさらに、カリストゥス2世(1119-1124)とグレゴリウスⅠ世(590-604)の時代に作られた二つの祭壇が存在していることが判明している。現在の祭壇は、聖ペテロを記念して4世紀にコンスタンティヌス帝が建てた記念碑の真上に造られた。祭壇自体は、ネルヴァ帝のフォルムで発見された、帝政ローマ時代の飾りのない大理石でできている。
地下にアッバティーニによるフレスコ壁画があり、ロッジアの建築案をウルバヌス8世に見せるベルニーニが描かれている。
2A.聖ロンギヌスの像 Statua di San Longino
1631-38
続いて大クーポラを支える4本の巨大なピア(太柱)をはじめとする聖堂内部の装飾も依頼された。
クーポラの支壁の装飾として制作された4体の像は聖ロンギヌスだけがベルニーニの制作で、3体はそれぞれ弟子の手による。聖人像とともに、壁龕の上部にもうけられたもう一つの壁龕には、ソロモンの霊廟の伝説の基づき造られた、コンスタンティヌス帝の時代の旧聖堂のコンフォッシオーネ(祭壇)を囲んでいたねじれ柱で飾られた、それぞれの聖遺物

聖ロンギヌスの上部壁龕
の象徴を掲げたテーマのレリーフがおさめられている。それらの聖遺物は、聖週間(復活祭前の一週間)にここから人々に示される。
「聖ロンギヌス」の完成は1638年である。バルダッキーノ制作中に原型をいくつも準備していた。台座の下はグロッタへの入り口になっている。
像の高さは4.4mもある大型のもの。衣襞の効果を最大限に利用し、その動きは自然に逆らったものになっている。22あったらしい習作粘土モデルのひとつがフォッグ美術館に現存するが、その衣襞は自然に忠実なものとなっている。現存しないが実物大の漆喰モデルも作ったとされ、この像のバランスというものにかなりこだわったと思える。
公開される聖遺物-ロンギヌスがキリストを傷つけた槍の穂先

フォグ美術館所蔵:テラコッタモデル
ロンギヌス 1世紀(10月16日、3月15日)L.Longinus,Languinus,Longius.
〔伝記〕ゴルゴタの丘でキリストの処刑に立会った百人隊長。キリストの横腹に槍を突き刺した(ヨハ19:34)が、その血によって眼病を癒された兵と同一人物視される。福音書にはあげられていない百人隊長名は、ギリシア語ロンギノスが「長い槍」を意味することから生じた。神の子たることを確認した彼(マコ15:39)は、使徒に洗礼を受け、カイサリアで宣教し多数の改宗者を得た。殉教のとき彼の処刑を命じた盲目の総督に殉敦後、その眼が治されると預言した。処刑後彼の言葉通り開眼した総督は、キりスト教徒になる。遺骨はマントヴァヘ移され、12世紀以来同市の守謹聖人となった。なおキリストの聖血を受けた杯も彼が同市へもたらしたといわれる。
〔図像〕ローマの百人隊長あるいは中世の騎士の軍装で、徒歩か騎乗する。磔刑図中、徒歩では槍を腕に、馬上では兜を手に、キリストを見上げる。教義的表現としては受胎告知図や礫刑図中にそれぞれ聖母と天使、アリマタヤ出身のヨセフと対称的位置におかれる。また復活図では番兵として跪拝している。持物の長槍は、聖ゲオルギウスと異なり折れていない。彼が持つ巻物の聖句は、「本当に、(この人は)神の子だった‘Vere Fi1ius Dei erat iste’」(マコ15:39)
2B.聖アンデレの像
公開される聖遺物-聖アンデレの頭部(もとは東方教会の物で、1963年にパトラスのギリシャ正教会に返還された)
アンデレ 1世紀(11月30日)E.Andrew. L.Andreas.
〔伝記〕シモン・ペトロの弟。ガリラヤのベトサイダの漁師で、ペトロと共にキリストの最初の弟子となる。福音書刺こは詳述されないが、『黄金伝説』中の同聖人行伝によって図像表現される。それによると、キリストの死後スキティア地方をはじめ、ギリシア各地を巡り、犬に化けた7悪魔を追放、大火災の消火など奇跡を行なったのち、やがてペロポネッソス半島のパトラスに至り、市のローマ総督アイギアスの妻マクシミリアの不治の病を癒して彼女を改宗させたため、怒った総督は答刑を加え、X形十字架へ逆さに縄で縛りつけ処刑した。3日後に絶命した彼はマクシミりアにより埋葬され、一方、総督は悪魔によって殺害されたという。また死後の伝説に、美女に扮した悪魔に誘惑されようとした一司教を巡礼姿の同聖人が救う話がある。ペトロをローマに独占されたことに対抗して、東方教会で特に崇拝され、ギリシアとロシアの守謹聖人となった。4世紀に聖遺物の一部がスコットランドに移され、その守護聖人とされた。またブルゴーニュのフィリップ善良公が1433年十字架の一部をコンスタンティノープルから持ち来ったところから、彼の創設になる金羊毛騎士団の聖人とされるにいたった。
〔図像〕アンデレが磔された十字架は、中世を通じ、14世紀のイタリアの美術まではキリストと同形のラテン十宇架ないしはY形であったが、15世紀以来いわゆる「アンデレの十字架のX形十字」が表現されて彼の持物とされるようになった。手に彼の十字架と福音書を持ち、白髪白髯の老人として多く描写される。また魚のかかった漁網、十字架につけられたときの綱などを持物とする。
2C.聖ヴェロニカの像 Veronica
1635-39 Franchesco Mochi作
公開される聖遺物-ヴェロニカがゴルゴダの丘に向かうイエスの顔を拭いたベール

聖ヴェロニカの上部壁龕
ウェロニカ 1世紀(7月12日)LVeronica,
〔伝記〕ニコデモの外典福昔書によって、キリストの十字架運びの場面に現れるシリアの架空の聖女で、Vera icona(真実の画像)の人格化と考えられる。彼女がキリストの血と汗の顔を手布で拭ったところが、その布にキリストの顔が写し出されたという。ローマの聖ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)はそれといわれる。この伝説にもとづいて15世紀における布商人の神秘劇のキリスト受難場面では、彼女は盲目であったが、この布に目を触れると治ったという奇跡としてとり入れられた。のちガリアに行き、メドックのスーヤック・シュル・メールの砂丘にこもる。布商人、下着(製造)商人、洗濯業者の聖女。臨終の秘跡を受けずに死んだ人の護符や免罪にも関わる。今日では写真家の聖女。
〔図像〕トリエント公会議後は崇拝が衰えるが、中世末は盛んで、そのころはシリアの人を表わすターバンを巻いた中年婦人が、両手で胸の前にキリストの顔の写った布をかかげる。若い女として描かれることも多い。布で血と汗を拭きとる場面や、裸で上半身を木の盥から現わしているものもある。時にはローマの守護聖人ペトロとパウロの間に立つ図像がある。
2D.聖ヘレナの像
Bolgi制作
公開される聖遺物-ヘレナが発見した聖十字架の断片

聖ヘレナの上部壁龕
ヘレナ 255頃~330頃(8月18日)I.Elena. L.Helena.
〔伝記〕コンスタンティヌス大帝の母。イングランド生まれという。帝の対マクセンティウス戦勝利(312年)後に改宗して、多数の教会堂を建設。326年エルサレムヘ巡礼、特に磔刑の行われたカルウァリア丘で数度の発掘を行い、三つの十字架(キリストの磔された真の十字架は、その上に病女を横たえて、彼女が治されたことによって擁認された)と、キリストの十宇架上につけられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見。ついでキリストを打ちつけた釘も発掘され、その二つは帝に捧げられ、彼は馬頭の飾り紐と兜にこれをつけたという。
〔図像〕王妃として冠をかぷり、豪華な衣裳をまとう。特徴ある持物はキリストの受難具で十字架、槌、茨の冠、3本の釘、時には聖墳墓の模型。ヘレナの見た、天使が十字架を持って現われる幻想の表現は16世紀以後
3.私の子羊を飼いなさい Pasce oves meas 1633-47
設計 制作は弟子

ビルデンデン美術館所蔵:デッサン
4.ウルバヌス8世の墓 Monumento di UrbanoⅧ
1628-47
パウルス3世のそれと対をなすように構成されている。記念碑的性格が主ではあるが、死の象徴である棺をミケランジェロ以来復活させた。
左の慈悲の像は胸をあらわにして子供に乳を与えるポーズだったが、後に漆喰で覆われてしまった。
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「慈愛」Carita テラコッタ 39cm ウルバヌス8世の墓のものと思われる
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ウィンザー城所蔵:デッサン
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ビルデンデン美術館所蔵:スケルトンのデッサン
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ビルデンデン美術館所蔵:スケルトンのデッサン
5.マティルダの墓 Monumento alla Contessa Matilda di Canossa 1633-37
彼女は教皇と皇帝が抗争した11世紀にローマ教皇の保護者として活躍した。そのため、左手には聖ペテロの鍵を、右手には指揮杖を持った姿で表されている。この気性の激しい伯爵夫人の遺骨を納めた石棺の上には、

所蔵不明:最終モデル
1077年1月28日のカノッサ城におけるドイツ皇帝ハインリッヒ4世が描かれており、皇帝は彼を破門したグレゴリウス7世の足下にひざまずいている。
ベルニーニのモデルに従って弟子が制作。
石棺の彫刻はStefano Speranza
6.玉座の祭壇 Altaere della Cattedra
1658-66
大聖堂の入口から身廊沿いに眺めると、バルダッキーノの捻り柱がいわば額縁のようになって得られる偉観を、ベルニーニは後陣の祭壇の上に創造した。アレクサンデル7世の時代に1658年から1666年にかけて制作された。
すなわち大聖堂の貴重な聖遺物である聖ペテロの司教座であり、伝承によると聖ペテロが最初にローマに到着してプデンスの家に泊まったときにこれに座して説教を行ったという。けれども、実際にはこれは875年に禿頭王シャルルが教皇ヨハネス8世に寄贈した物である。象牙装飾の木造椅子で、この椅子は1217年の記録に初めて現れており、おそらく8世紀または9世紀の作品であろう。この聖遺物を納めている金箔張りの浮き彫りのあるブロンズの玉座の周囲には、4人の教会大博士、聖アウグスティヌス、聖アンブロシウス、聖アタナシウス、聖ヨアンネス・クリュソストモスの大きなブロンズ像があり、玉座の上方には無数の天使たち、雲と光の渦の中に実際のステンドグラスの光により浮かび上がる聖霊がいる。 この巨大な装飾には、121t以上の青銅が使用された。
テラコッタ制作の時点では、背もたれと座部の下の部分のデザインが実際と違っている。
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Detoroito Institute of Arts所蔵
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Windsor Castle所蔵
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Crisostomo 1661-62 Modello della testa di Sant’Atanasio 1661-63
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天使たちの立像 1667-68
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中央祭壇の十字架
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中央祭壇の燭台
博士 四人の(1月30日)I.IDottori della Chiesa.L.Doctores Ecclesiae.
〔解説〕ギリシアおよびラテン教会で最も有名な4人の神学者をいう。後世神学の精神的な祖として尊敬され、教会の父ともよばれる。福昔書に対応して4人は、ギリシア教会ではアタナシウス、バシリウス、ナツィアンツのグレゴリウス、ヨアンネス・クリソストムスで、アレクサンドリアのキリルスが加えられ5博士になることがある。ラテン教会はアンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムスおよび大グレゴリウス。
〔図像〕ギリシア敦会では区別して表現することは少ない。聖所のモザイク、フレスコ画で描写され、像は無帽、十字架を散らした法衣をつけ聖書を携え、右手でギリシア教会の礼式に従い祝福する。ラテン教会では主として被りもので個人別を表わす。教皇グレゴリウスは教皇の三重冠、ヒエロニムスは枢機卿帽、アンブロシウスとアウグスティヌスには司教冠というように。また東西を通じて4博士が単独で表現されることがある。特にルネサンスとバロック期に説教壇の装飾にこのテーマが用いられ、トリエント公会議後は高位聖職者の墓装飾として従釆の四美徳にとって代わった。15世紀に両教会の合同が企てられたとき、東西の四大博士が一緒に表現されたこともある。
7.秘蹟の礼拝堂 Cappella del Santissimo Sacramento
1673-75
ボッロミーニによる優美なバロック様式の鉄の門で仕切られた、秘蹟の礼拝堂がある。これは聖餐に捧げられた礼拝堂であるが、この秘蹟は、イエスが死と復活の前に使徒たちに語った言葉に基づいて、司祭によって聖別されたパンとワインに、主ご自身がおられるとするものである。中央の祭壇の上には、ベルニーニによる非常に高価な、小神殿の形をした櫃(Tabernacolo a forma di tempietto)がある。これはサン・ピエトロ大聖堂の最初の建築家だったブラマンテの、サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂にある小神殿を反映させたものであろう。そしてその背後には、1669年に、ピエトロ・ダ・コルトーナが描いた、三位一体(Trinita)がある(大聖堂内に絵画のまま残る唯一の祭壇画である)。これはカトリックの教義にもとづいて、唯一神が三つの同じ、しかも区別される人格として示される、という信仰の奥義を示したものである。その三つの人格とは、すなわち可視、不可視の宇宙の創造者である神、それから罪深い人類の贖いのために犠牲となり、死から甦り、最後の審判の日に再びやって来る受肉した息子、そして両者から発せられ、預言者にとっては霊感であり、教会の光と先導者である聖霊(ここでは輝く白いハトとして示されている)である。櫃の両側にいる青銅鍍金の天使像(Angeli di bronzo dorato)は、ベルニー二作。礼拝堂の丸天井と壁は、ピエトロ・ダ・コルトーナによる、聖餐に関するエピソードを表わした見事なスタッコ装飾でおおわれている。
8.アレクサンデル7世の記念碑 Monumento di AlessandroⅦ
1671-78
ベルニーニ最後の作品として知られる。1678年完成時ベルニーニは79歳であった。「祈りの概念」を表現したこの墓はアレクサンデル7世自身によって注文されたが、実際の制作は彼の死去後クレメンス10世の時代になってから。
ウルバヌス8世の墓と類似した構成ではあるが、特徴であった石棺が壁龕に出入り口(祈りの扉)があるために採用されず、出入り口を布を模した大理石でおおいあたかも暮室への入り口か冥府への扉であるかのように見せるという見事な解決法を用いている。
9.参事会員の聖具室 Depositi della Reverenda Fabbrica
サン・ピエトロの角柱を参考にした、アレッサンドロ7世のダマスカス織り
Damaschi con stemma di Alessandro VII per I pilastri della Basillica di San Pietro
ポルトガルのエリザベッタの聖列式
Addobbo di San Pietro per la canonizzazione di Elisabetta di Portogallo
サン・ピエトロの司教座の容器 Custodia della cattedra di San Pietro
9cカロリング王朝時代の司教座を納めるための容器
10.主要聖具室 Fabbrica di San Pietro
Modelli degli angeli della Sedia in scala minore
Angelo a sinistra 1659-60
Angelo a destra 1659-60
Modelli degli angeli della Sedia in scala maggiore
Angelo a sinistra 1665
Angelo a destra 1665
60.宝物館 Museo del Tesoro di San Pietro
Ⅰ.柱の部屋
Ⅱ.聖ペテロの玉座の部屋
Ⅲ.聖職禄司祭の礼拝堂
Ⅳ.シクストゥスⅣ世の部屋
Ⅴ.聖遺物器の部屋
Ⅵ.燭台の部屋
Ⅶ.天使の部屋
Ⅷ.ギャラリー
Ⅸ.ユニウス・バッススの部屋
Ⅵ.燭台の部屋-4
二つの大きな展示ケース3,4には、二つのグループの燭台が収めてある。これらはピウス12世の時代まで厳粛な儀式の際に、大聖堂の主祭壇で使用された。第一のグループの燭台(Primo gruppo di candelieri) は、祭壇用十字架とともに鍍金したブロンズでできており、セバスティアーノ・トッリジャーニ作である(1585年頃)。これらの燭台は、その後長い問、無数の祭壇用燭台の形式に影響を与えた。第二のグルーブの燭台(Secnd gruppo di candelieri) は、鍍金した銀製で、アントニオ・ジェンティーリ・ダ・ファエンツァの署名が入った祭壇用十字架を含んでいる(1581年)。そのそばに置かれた二つの燭台も彼の作品である。そして残りの四つの燭台はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの素描をもとに、カルロ・スパーニャが制作した。台座にはめ込まれた水晶のメダイヨンには、ヴァレリオ・ベッリが受難伝の諸場面を刻んでいる。
Ⅶ.天使の部屋-6
サクラメント礼拝堂の天使モデル Angelo di sinistra
1673頃
部屋不明

命ある十字架Crocefisso vivo

十字架Crocefisso
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激愛ベルニーニ サン・ピエトロ大聖堂
わたしたちはサン・ピエトロ大聖堂(Basillica di San Pietro) の中央身廊にいる。行きかう人びとの頭上のかなたに鳥居のようにそびえ立つ天蓋(パルダッキーノ=Baldacchino)が正面に見えるだろう。四本の柱に支えられた傘状のそれの下にはローマ法王がミサをとりしきる中央祭壇があり、そのさらに下方にはキリスト十二使徒のひとり、ローマカトリック教会の布石ともいえる聖ピエトロの遺骸をおさめた地下聖堂が位置する。月桂樹のツタが絡まった十一メートルのねじり棒のごとき四本の柱も、その先端に柔らかくかけられた法王のシンボル入りの垂れ幕も、その上に飛びかう天使もすべて黒緑色のブロンズ製だ。
ところどころにほどこされた金細工が、地の暗色とあいまってより光を放つ。天蓋全体の高さは二十メートルはど、六、七階の建物の高さに相当する。そしてその上方にはミケランジェロのつくった高さ132.5メートルの丸天井がおおいかぶさっている。近づけば近づくほど人びとの目線は上へ上へと上昇していくことだろう。さもなければ天蓋前方に大きく口を開けた聖人の地下聖堂への入口に気づき、一気に地下へともぐってしまう。ゆえに、その中間に位置する、ブロンズの柱を支える四つの大理石の台座に、あえて多大な注意を払う人は多くはない。もしいたとすればその人は、その台座に彫りこまれた謎を知っていることになる。

台座
台座の形は四角柱で、おもに白とだいだい色の二色の大理石からなっている。各台座の外側二面には家紋の浮き彫りがなされている。上部に二匹、下部に一匹、合計三匹の蜂をあしらった盾だ。この天蓋を1624年に発注した法王ウルバーノ八世のものである。それ以外に装飾として盾の上に女性の顔があり、さらに彼女をおしつぶすかのように天国の扉をあける重々しいふたつの鍵が交差している。そしてさらにその上に丸みをおびたコーン形の法王の冠がのっている。いっぽう盾の下部には、魔物を思わせる恐ろしげな顔がついている。四つの台座に彫られた紋章は合計八つ。この八つの紋章が一連の意味をなすためには、天蓋に向かって左前方の紋章から時計まわりに、天蓋の周囲をまわりながら見ていく必要がある。注目するのはとくに三点。盾につけられた女性と魔物の表情、そして盾部のふくらみの変化だ。
ひとつめの紋章。女性の顔はわずかに眉をひそめうつむきかげん。ほのかにほはえんでいるようにも見えるがどこか哀しそうでもある。いっぽう魔物はといえば鼻をもたげ、下唇を下方に大きく開き、上機嫌な酔っぱらいのように笑っている。つぎに盾部だが、前から見ると全体的にこんもりとしているだけに見えるが、真横から見てみると意外な形が浮かび上がる。蜂二匹のついた上部が蜂一匹のついた下部に比べ、明らかに山形に盛り上がっているのだ。その上方にある女性の横顔から目線を下げていくと、盾のふくらみがじっに女性の身体のラインを描いていることに気づくであろう。上部に並んだ蜂二匹はふたつの乳房を、下部の一匹はへその位置に相当する。となると、位置関係から考えて、はたしてこの魔物はいったいなにをあらわすことになるのか。
ふたつめに進もう。彼女はさらに眉をひそめ、なにか言いたいことがあるかのように口を開いている。いっぽう魔物の下唇は消え、持ち上がった鼻の中央にあいた穴が口とつながり、顔のまんなかにみぞが開いたようになっている。そして盾はというと、下部、いやその腹部が乳房の高さと等しいほどに盛り上がってきているではないか。
さて三つめである。微妙な違いではあるが、いまや腹部は乳房よりも突き出ている。いっぽう彼女の表情といえば見るにたえない。眉の間には深い苦悩のしわが刻みこまれ、無言の絶叫をあげているのだ。こころなしか一気に老けこんだようにも見えるのは、ロが大きくあけられ、頼の筋肉がひきつったせいであらわれた深いしわのせいであろう。魔物の頼も同じようにひきつっている。みぞ状に変化した彼の口はその中央部が引き締められ、下のほうが広くなっている。そしてここにきて気づくことがひとつ。彼の頬がまるで骨盤のように見えることである。
つぎへ進もう。魔物のロはさらに縦に長く伸び、まるで脊髄の一部のようにも見える。彼女は疲れ切った顔ではあるが、もはや叫んではいない。ただ目の下がげっそりとくぼんでいる。腹部と乳房の高さは同じくらいに戻ってきたようであるが、微妙な変化で見てとりにくい。
五つめの彼女はふし目がちではあるが、すこしばかりほほえんでいるようにも見える。いっぽう魔物の変化が大きい。大きく伸びていた口(みぞ)が閉まりはじめ、鼻部が再度あらわれている。頬と思わしきふくらみも戻っているが奇妙に縦長のかたちだ。言い切っていいだろう。これは女性の性器にあまりに似ている。
六つめ、腹部も胸部もふくらみをほとんどなくしている。彼女はやっと顔を上げるが、やはりまだ苦しそうである。いっぽう魔物の細く吊り上がった目はきつく閉じられ、女性性器に酷似していた彼の頬の盛り上がりは消え、口は顔の下のほうに遠慮がちに小さく閉じられている。
七つめの浮き彫りのなかで、彼女はようやっと明らかにわたしたちに顔を向ける。髪はざんばらに乱れ、眉を苦しげに寄せてはいるがまなざしは強い。小さく開けられた口はやはりここでもなにかを語りたがっているようだ。呆然としているようにも見えるし、なにかをあきらめざるをえない悔しさを押し殺している表情にも見える。哀しい顔だ。彼女の身体、盾からは、女性特有の丸みは消え、味気のないただの盾となりつつある。いっぽう魔物はまぶたを閉じ、深いしわの刻みこまれ
た静かな表情をしている。
最後の台座に進もう。その変化は劇的だ。まず魔物の顔ほすっかり老人の顔となり、女性性器の大陰唇に酷似していた頬のふくらみは、いまや口の両側に伸びる長いヒゲに変化してしまった。古い森に住む物知りな魔法使いといった感じで、父性すらかもしだしている。いっぽう盾部はといえばすっかりふくらみをなくし、いまやほぼ平坦といっていいほどの浅いカーブを描いているばかりである。そして「彼女」は、もういない。彼女のいた場所にはかわりに小さな丸っこい顔がのぞいている。リンゴの頬。くるくるの巻き毛。下を向いてはいるがはっきりとわかる。それはほほえんでいる子どもの顔である。
苦痛に叫ぶ女性の顔。大きく開いては閉じていく生殖器。そして最後にあらわれる子どもの顔。この一連の浮き彫りが出産シーンをあらわしていることはまずまちがいない。ただ法王がミサをとりおこなう場所にもかかわらず、あまりにも女性性器の描写が細やかだったり、切るように痛々しい女性の表情がちりばめられているものだから、この浮き彫りの意味するところをめぐり、数世紀にわたって人びとの想像力に火をつけるところとなったのである。
作者の名はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。わずか二十五歳でこの天蓋の製作を任され、以後法王の芸術家としてサン・ピエトロ大聖堂の内装から、284本の柱からなる回廊をもった聖堂前の広場の製作まで指捧をとったのが彼である。また有名なトレビの泉も彼の作品だ。古代ローマの遺跡群とともに、ローマの街に特異な表情を与えている、豪華さと人を驚かすエンターテインメント性がきわだつバロック芸術の生みの親だ。
さて、例の出産シーンにかんしての伝説や仮定はいくつかある。ひとつめの伝説は、当時妊娠していた法王ウルバーノ八世の姪が寄進したというもの。無事出産を終えることができたら、ベルニーニがその吉事を台座に刻むことになっていたというものだ。しかし、出産の最後の瞬間までつづくあの苦しそうな表情は、吉事の記念としてどうかとも思うし、なにより性器をリアルに措かれることを名家の姫が承知したとは思えない。
宗教的な意味合いからの仮説もある。新約聖書のジョバンニ(ヨハネ) の福音書にある、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることばできない」 や、「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時がきたからである。しかし子どもが生まれると、ひとりの人間が世に出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」などのフレーズからインスピレーションを受けたとするものだ。宗教的な再生も生き物としての誕生も、どちらも楽なものではなく苦痛を伴うものと解釈すれば、あの彼女の苦しげな表情は説明がつくかもしれない。
ほかに、苦節9年間をかけた天蓋の製作期間を妊娠期間になぞらえ、天蓋完成後に記念としてこの浮き彫りを刻んだとする説もある。しかし、万が一その作業段階で台座にヒビでも入ったときには取り返しがつかない。めったにだれも気づかないであろうヒビが、完成後のある胸像に入っているのを発見したベルニーニは、丸ごとその胸像をつくりなおしたという。11メートルのブロンズの柱をまた立て直さなければならなくなる、そんなリスクをベルニーニが犯したろうか。
さて、数ある伝説のなかでもっとも有名なのがつぎのものである。 若きベルニーニは、時の法王ウルバーノ八世の姪と恋仲になり、ふたりは結婚を考えるまでにいたった。しかしいくら天才的とはいってもしょせん生まれの低いベルニーニと、ローマでもっとも権力をもっていた家族出身の姪っことの結婚を、法王はけっして許そうとはしなかった。しかし法王の反対にもかかわらず、彼女はついに身ごもり、ベルニーニの子どもを産み落とす。しかしこのことがさらに法王のいら立ちをあおることとなってしまい、ふたりは結局、法王によって引き裂かれるのである。ベルニーニはこの若き日の苦い経験と報われなかった愛を、天蓋の台座の石のなかに永遠に封じこめたという。
いかにも人びとが好みそうなメロドラマである。しかし、もしもこれが事実であれば、今も昔も大のうわさ好きのローマっ子たちが黙っていたわけがない。しかしそういった資料はいまのところみつかっていないのだ。いっぽうベルニーニの後援者であった法王ウルバーノ八世とベルニーニの関係については、時のローマっ子たちはこううわさしていた。
「法王は起きている間ベルニーニを片時もはなさず、やれ新しい教会だ、やれ新しい式典の準備だと設計図をのぞきこんでいる。ベルニーニがシーツをかけてやらぬかぎり寝床にもつかぬ」
法王という絶対的な権力者を後援者としてもつことで、この法王の在位した二十年間というもの、ベルニーニは各地からローマに集まってきた芸術家たちの実質的独裁者でありつづけた。彫刻や絵画という一点ものの作品をつくる芸術家というより、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋や広場など、とてつもなく規模の大きな芸術的建設事業の監督となったベルニーニは、そこで必要とされる労働力としての芸術家の選択権をもっていた。
法王の発注した仕事につくことは、芸術家にとっては人生のチャンスにほかならない。給料が安かろうが自分の名前が表に出まいが、いつか法王にお目通りがかなうはず、と願って働きつづけた無名の芸術家が何人もいたことであろう。しかしベルニーニは法王の寵愛をほかのどの芸術家にも分け与える気などさらさらなかったようだ。「彼が金を手にするのに腹は立たない。しかしわたしの労苦をおのれのものとして誇っていることが口惜しい」。ベルニーニとともにバロック芸術の旗手といわれたボッロミーニの言葉である。うわさ好きのローマっ子の目を盗み、これほどの 「おいしい立場」と引き換えにしてもよいと思えるドラマティックな恋を、ベルニーニがしていたと考えるには、やはり多少の無理がある。
ではこの伝説は事実無根のまったくの想像なのか、といえばそうではない。法王が「待った」をかけた若き日のベルニーニの恋は、たしかにあったのである。
1628年、天蓋のブロンズの柱が大理石の台座にようやっと立てられた翌年、ベルニーニはミケランジェロの丸天井を支える四つの巨大な柱の装飾にかかわる新プロジェクトを始動させた。そのプロジェクトのチームにマッテーオ・ボヌチェッリ(もしくはボナレッリ)というトスカーナ地方出身の三十代の男が加わった。彼もひとかどの芸術家ではあったのだが、なによりも彼の恵まれていた点はその妻であったという。生気に満ちた強さと甘さをかねそなえた顔、頭の上で束ねられたカラスの羽のように真っ黒な髪、胸元からこぼれるはじけんばかりの胸。その名をコスタンツァといった。
ベルニーニとこの人妻の問にいつ特別な感情が生まれたのかを限定するのはむずかしい。夫人が、夫の彫った天使の像が見たい、あっちの天使の像の試作品が見たい、と言いながら、夫とベルニーニの働くサン・ピエトロ大聖堂の工事現場に足しげく通いはじめたころは、ふたりの関係はまだただのうわさでしかなかった。しかし1635年(一説によると1636年から1638年の間)、ベルニーニがフィレンツェのパルジュッロ美術館にいまも残るコスタンツァの胸像をつくったころには、ふたりの関係は決定的なものとなっていた。
胸像のコスタンツァは乱れ髪を軽くまとめ、かすかに眉をひそめ眼光鋭く、おちょぼ口ではれぼったい唇を、これからほほえもうとするその直前の瞬間といった感じで薄くあけている。寝巻きのような薄もののシャツの胸元のボタンは外されており、胸の盛り上がりが見え、あごの下にも十分に肉のついたその顔は、彼女の肉体がかなり豊満であったことを想像させる。貴族の女性のつくり上げられた美しさというより、太陽の下で汗をかき、服装の乱れも気にせずに働く農婦か洗濯女の色香(事実、彼女の父親は馬丁であった)。ベルニーニはこの胸像をみずからのために製作し自宅に飾っていたのだ。
恐れるものをもたない独裁芸術家と、彼のアシスタントの「妻」との関係は、貞操観念と男性にたいする劣勢、従順のみが女性に求められていた時代ではあったが、結局のところ夫のふがいなさの反映でもあり、ローマの南国的な開放感も手伝って、それを表立って批判する向きはあまりなかったようだ。ベルニーニが1628年からたずさわっていた法王の墓碑の製作にあたり、その一部をなす「慈愛」の像、乳房を赤子に含ませている女性像のモデルにコスタンツァを選んだときも、法王はあえて反対はしなかった。自分のお気に入りの芸術家の愛人(しかも人妻)の半裸の姿がみずからの墓に後世も残ることに同意したのである。そのころに製作されたと思われる一枚の油絵がベルニーニの家にあった。画面にはふたりの肖像が描かれている。鏡に映ったコスタンツァを見つめるベルニーニの自画像であった。
ともあれふたりの蜜月は1638年までつづき、三文芝居的終局を迎える。コスタンツァがベルニーニの十三歳年下の弟ルイージとも関係をもっていたことが発覚したのだ。ふたりにかんするあらぬうわさを耳にしたベルニーニはある晩、翌日は郊外に出かけると嘘をつき、翌朝大聖堂の裏にある自分の工房に向かった。工房とコスタンツァの家とは目と鼻の先である。そしてそこで、着衣の乱れたコスタンツァに見送られ、彼女の家から出てくる弟の姿を目撃したのだ。
その後のベルニーニの行動は、感情的というにはあまりに凶暴なものであった。弟のあとをつけたベルニーニは、サン・ピエトロ大聖堂で鉄の棒片手に弟に追いつくと、肋骨を二本折るほどの勢いで殴りつけた。もしも通りがかりの人間がベルニーニを押さえなければ、きっと実の弟をたたき殺していたことだろう。しかしそれだけではない。家に戻ったベルニーニは、使用人にギリシャワインの大ビン二本と剃刀を用意させるとこう言ったのだ。「わたしからの贈り物だといってコスタンツァのもとへこのワインを持っていき、チャンスをみはからって彼女の顔を切り刻め」主人の命令にとりあえず使用人は従うが、彼女には運のよかったことに、この使用人には女の顔を切り刻む勇気がなかった。結果、傷害未遂のためこの使用人は追放となり、ベルニーニには罰金がかせられた。しかし「芸術の才すばらしく、まれなる人材で、ローマに栄光の光をさずける」という理由で、法王はベルニーニに無罪放免を言い渡した。
しかし、まだ終わりではなかった。無罪放免を言い渡されたベルニーニは、再度弟の命をねらったのだ。むき身の剣を持って家に入ったベルニーニは、泣いてとりすがる母に見向きもせずに弟を追いまわし、弟が表に飛び出すと、そのうしろを剣を振りかざしながらサンタ・マリア・マッジョーレ(Santa Maria Maggiore)教会まで追いかけ、ベルニーニの剣幕と権威にしりごみする聖職者たちをしりめに、悪言雑言をはきちらしながら教会内で弟を殺そうとしたのだ。ルイージはほとほと運の強い男とみえて、このときにも命は助かっている。哀れなのは、兄弟で殺しあう息子たちを見てしまった母親であろう。「まるで自分がこの世の支配者であるかのようにふるまう」この偉大だが尊大な息子を、なんとかしてやってくれ、と法王に直々の嘆願書を送ったのだった。
法王みずからがベルニーニを「更生」させるためにのりだし、ベルニーニがその説得に屈したのは1639年5月のことである。法王推薦の司教区弁護士の娘カテリーナ・テーツィオと結婚式をあげたのだ。ベルニーニ四十歳、カテリーナ二十歳。この親子ほども年のちがう妻との間に、ベルニーニはじつに十一人の子どもをもうけることになる。結婚の翌年、ベルニーニが昼に夜に愛でていたであろうコスタンツァの胸像が、フィレンツェのメディチ家にひきとられた。新妻がその存在をよかれとしなかったのは想像のつくところである。ベルニーニは快諾したのだろうか。おそらく妻の手前そうであったろう。いや、彼がみずからそうしたのかもしれない。実の弟との裏切りという形で彼との関係を踏みにじった女だ。しかももともと人妻ではないか。三人の男を手玉にとった悪女の顔など見たくないのが当然だ。
しかし、実のところ、彼の心中はいかばかりのものだったのか。
コスタンツァの胸像がベルニーニ家から消え、長男ピエトロが誕生した1640年、ウルバーノ法王の墓碑の一部である「慈愛」 の像の製作がはじまる。コスタンツァをモデルにしたあの半裸の女性像だ。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋の後方、聖堂のもっとも奥まったところに、精霊のシンポルである鳩が陽光を背に光っている。そのすぐ右手にあるのが法王ウルバーノ八世の墓碑である。礼拝用の木製の長椅子がつねに並べられているため、残念ながら近づくことばできないが、双眼鏡でならなんとか見えるかもしれない。最上段で祝福のポーズをとる法王の両脇に女性がひとりずつ立っている。奥が「慈愛」だ。製作された当時はむきだしになっていた左の乳房は、後世になって検閲にひっかかり、しつくいの布で隠されてしまった。その布越しの乳房に男の赤子が頬と唇をよせている。いっぽう彼女の右側には、子どもが泣きべそをかきながら彼女の衣服にしがみついており、彼女はその子どものほうに頭をかたむけ、それを優しく見下ろしている。ふくふくとした手の甲や丸みを帯びたあごのラインから、どちらかというと肉づきのよい女性像であることがわかる。低いところでゆるくまとめられた髪。そしてちょっとすねたように突き出された唇の厚いおちょぼ口。
コスタンツァだ。
モデルを変えることはいくらでもできたろうに、いちどはその顔を剃刀で切り刻もうとまでした女の顔と身体を、ベルニーニは慈愛像に彫りこんだのである。それだけではない。四年にわたるこの像の製作期間中、長男ピエトロは働く父の周りにちょこちょことまとわりついていた。また完成の年までに、ベルニーニにはさらにふたりの子どもが生まれている。つまり慈愛を象徴するコスタンツァが抱いている子どもは、ベルニーニの子どもたちがモデルである可能性が高いのだ。ベルニーニはこの像のなかに、コスタンツァが自分の子どもを産み、それを法王が祝福するという実現できなかった彼の夢を彫り込んだのか。それともあの伝説のように、コスタンツァはベルニーニの子どもを身ごもっていたのだろうか。彼がよく知っていたコスタンツァの像はもう彼の家にはない。同じ顔の、しかし魔性をすっかりとりのぞかれた美しいコスタンツァの姿だけが、大聖堂に残った。
妻に遅れること七年、ベルニーニが八十二歳に十日足らずで息をひきとったとき、主のいなくなった彼の部屋から半分に引き裂かれたあの油絵が見つかった。残っていたのはベルニーニの自画像の部分のみである。鏡のなかのコスタンツァがいつ、どこへいったのかはだれも知らない。
あの天蓋の台座の謎は、伝説と理論の間できっといつまでもゆれつづけるのだろう。ベルニーニが愛と憎しみの間でゆれていたように。
ローマ・ミステリーガイド
市口桂子