Chiesa di San Pietro in Montorio
サン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会

053-100via di S.Pietro in Montorio
9:00~12:00、16:00~18:30

9世紀頃に創建され、15世紀の後半にスペイン王フェルディナンドと王妃イザベラによって立て直された。
内部は単廊式。ライモンディ礼拝堂は左側。
中庭にはブラマンテのテンピエット。





053-010ライモンディ礼拝堂ライモンディ礼拝堂 Cappella Raimondi
1638-48
サン・ピエトロ・イン・モントーリオにある小さなライモンディ礼拝堂は、《聖フランチェスコの法悦》を表わす浮彫を納める祭壇と、両脇の壁につけられた2つの墓、そして《聖フランチェスコの昇天》を中心とするフレスコ画とストウッコによる天井装飾とから成っている。こうした礼拝堂装飾の実際の仕事は、この種の他の仕事と同様に弟子の手でなされており、そのため個々の作品の質はまちまちである。しかしながら、全体は完壁に調和して、ベルニーニのアイディアを見事に実現している。ベルニーニがここで意図したのは、礼拝堂全体をあらゆる意味で調和のとれた統一体にすること、そしてそれを聖フランチェスコの神秘劇の劇場にすることだったといえる。彼は注意深く各部と全体のバランスを考え、我々の注意が祭壇の《聖フランチェスコの法悦》を表わす053-016SPモントリオ12浮彫に無埋なく集中するように礼拝堂を設計している。そしてその浮彫を壁龕に入れるとともに、その左上方に窓を切って、浮彫を照らす光源としている。ベルニーニはすでに聖女ビビアーナの祭壇において同じような試みをしているが、ここでは隠された光源から入る光は完全に統御され、前者の場合よりも直接的に、そしてより効果的に用いられている。なお浮彫が初めから左上方の光を前提として制作されたことは、その構図を見れぱ明らかである。またこの左上方からの光は、浮彫全体に凸型のゆるいカーヴをつけるという独創的な試みによって、一層その効果を高めている。つまりこうした試みの結果、この浮彫は彫刻というよりも光と陰から成る類稀な絵画のように見えるのである。いいかえれぱ、この礼拝堂の主役は光そのものだということだ。当時聖フランチェスコの法悦は彼の聖痕と同一視され、その聖痕は神の光によって顕現したと信じられていた。したがってベルニーニが隠された窓から招じ入れた光は、この礼拝堂における視覚上の主役であると同時に、聖フランチェスコの神秘劇の真の主役たる神の光でもあったわけである。
053-015SPモントリオ11このライモンディ礼拝堂について、パッセリは「彼はいつもどおりの特異な才能によって、奇妙な新しさを建築に導入した」と述べている。反ベルニーニ感情の強いパッセリも、この礼拝堂の「新しさ」を認めているわけである。その「新しさ」とは、一言でいえぱ、彫刻と絵画を建築に融和させた点にあるといえる。いいかえるならば、建築空間を一つの劇場とみなし、その中で建築と彫刻と絵画とを融合させて演劇に比せられるような総合的作品を作ろうとしたのである。こうした意図をベルニーニ自身が述べた言葉は伝わっていないが、次のバルディヌッチの言葉は、ベルニーニのそれを反映しているとみてよいであろう。すなわち、「彼は全体が一つの美しい融合体をなすように建築を彫刻と絵画とに結びつけた最初の美術家である、と広く信じられている」。このように、ベルニーニは建築と彫刻と絵画とから成る一つの総合的作品をめざしたが、それはさまざまな素材や形態、そして光と色彩とが互いに響き合い、融け合うイリュージョンの世界である。こうした総合的視覚芸術の世界が、ベルニーニの演劇への傾倒と深く関係し、また彼の時代のスペクタクルと演劇の体験に根ざしていることは、誰の目にも明らかであろう。ライモンディ礼拝堂は、ベルニーニのこうした意図を実現した最初の作品なのである。

ビルデンデン美術館所蔵

ビルデンデン美術館所蔵

053-014SPモントリオ10  


053-012聖フランチェスコの法悦聖フランチェスコの法悦

フランチェスコ アッシジの 1182頃~1226(10月4日)I.Francesco d’Assisi. L.Franciscus Assiensis.
〔伝記〕聖フランシスコ会の創設者。アッシジの富商の息子。洗礼名ジョヴァンニ、母がフランス人であったためとか、彼がフランス語のバラードをとくに好んだところからフランチェスコとよばれたという。はじめのうち放蕩生活を送る。1202年アッシジとペルージアとの境界争いの戦闘に敗れて捕えられ、1年後帰国、数か月病床にある間に霊的方面に関心をもつ。全快後、同じ貴族のおちぷれた者に会い、着物を交換して帰った翌晩キリストが夢枕に立ち、修道を志すことに決意し、私財を貧者に分かつ。1206年廃嫡され、以後はもっぱら隠者生活を送り、アッシジ周辺の聖堂の修繕に当たり、質素な衣食住生活に甘んじた。コルデリア(Corde1ier)とよばれる同派の帯はその1例。1212年キアラが弟子となり、彼の指導のもとに聖キアラ会創立。1215年頃、シエナヘの旅中で貧しい3人の娘が現われ、挨拶が終わるや消えてしまった。これは神が下した純潔と服従と清貧の象徴であるとされ、〈清貧との結婚〉というテーマで芸術上表現された。聖フランシスコ会は1210年ローマでインノケンティウス3世から公認された。教皇が謁見した当夜、倒壊するラテラノ大聖堂を支える人を夢見て、それが昼間のフランチェスコであることを知り、翌日彼の修道会を公認したといわれる。清貧の他に彼の特性に「涙の贈物」がある。彼が自分の罪と全世界の罪のため絶えず祈り落涙したことに由来。1219年エジプトとシリアに宣教。1223年ホノリウス3世から教団の新会則を公認され、彼はアルヴェルナ山へ退いて隠棲生活するうちに、キリストの幻視や脱魂を得た。チェラーノのトンマゾによれば、1224年50日間の断食後脱魂のうちに6翼のセラフィムを通じてキリストと同じ聖痕を得た。このため13世紀初めの《聖痕拝受》では十字架が省かれているが、同世紀末の絵画ではボナヴェントゥラの伝記にもとづいてこれを磔刑のキリスト、またはこれに多翼をつけた十字架像と直している。没後2年で列聖された。
〔図像〕以上の伝記の他に、ろぱに乗った一農夫のため岩から清水を湧出させた奇跡、金曜日に鶏を送った悪魔に対して、これを魚に代えて報いた奇跡、回教徒の王を改宗させるため火の試練を提案した話など画題として採用されたが、フランチェスコの表現には、13世紀から宗教改革期までのジョット型とトリエント公会議に始まるトリエント型が考えられる。前者はもっぱらイタリア特にウンブリアとトスカナに多く中世的表現であり、後者は17世紀以降のもので国際性を帯び、スペインとフランスに見られる。持物はほとんど変わらず三つの結び目をもつ帯で、これは清貧、純潔、従順を象徴。また十宇架像を携えるが、特にキリストにならった両手甲、両足甲、横腹(右のその部分が時に卵型にくりぬいた修道衣によって明示される)の聖痕は独特。真の肖像は乏しく、初期の伝記作家チェラーノのトンマゾが描いたといわれる肖像や、スビアコの聖スペコ聖堂のフレスコ画がそれとされるが不確か。色黒く目を患う小男で風采のあがらない容貌の持主だったらしい。ジョットは無髯の理想形を伝説の場面に描いたが、17世紀以降ヴェネツィア派、ボローニャ派、スペイン派は有髯の写実形として、茨の茂みに転び、その血で赤ばらを生じた奇跡の場面(罪人救済を意昧する)、聖母から聖児を受け取る場面、十宇架のキリストを抱く場面など神秘的、象徴的な場面に、むしろ苦行者のフランチェスコを描写した。聖痕の他に百合(純潔)、どくろ(反宗教改草期に人間の可死性を象徴して特に表現された)を持物とする。彼の説話画としては《フランチェスコの前に外套を広げて将来を祝す人》《貧しい兵士へ外套を与えるフランチェスコ》《軍旗で飾られた邸の幻想》《アッシジの聖ダミアーノ聖堂で十字架像を礼拝》《父の前で美服を脱ぎすて、裸身となって敦会へ入る〉《ラテラノ大聖堂を支える夢》《清貧との結婚》《火の試練》《鳥獣への説教》《グレッチョのクリスマス・ミサで幼子イエスを抱く奇跡》《聖痕拝受》《死》などがある。

053-019SPモントリオ4053-021SPモントリオ6053-013SPモントリオ1

S.M.トラステヴェレ教会所蔵

S.M.トラステヴェレ教会所蔵


053-022SPモントリオ7053-023SPモントリオ8

Chiesa di San Francesco a Ripa
サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会

051-1007:00~12:00、16:00~19:00
日・祝 7:00~13:00、16:00~19:30
http://www.sanfrancescoaripa.com/

1231年創建。17世紀後半にM.デ・ロッシによって再建された教会。



051-101アルベルトーニ礼拝堂 Chapella Albertoni
左の側廊の入口から4番目のアルベルトーニ礼拝堂に「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」がある。
ルドヴィカ・アルベルトーニ(1473~1533年)は、生前貧しい人々の救済に献身し、1671年に福者に列せられた。これを記念して福者の同族であるパルッツィ・デリ・アルベルトーニ枢機卿が、この教会にあった同家の礼拝堂に聖女の像を造るようにベルニーニに依頼したもの。神との一致という法悦状態を表しているかのような顔の表情、衣のひだの乱れ、さらにこの像が飾られている祭壇の奥行きを深く見せようとする工夫、採光の方法、全体的な色彩感覚はベルニーニならではの造形。
このアルベルトーニ礼拝堂は16世紀に作られたもので、この教会の左翼廊部にある。ベルニーニはこの礼拝堂の奥に祭壇を設け、その両脇に窓を切って光を採り、祭壇には自ら刻んだ横たわる福者の像とバチッチヨの《聖アンナと聖母子》の絵とを飾っている。身廊の方から見ると、この祭壇装飾は暗い礼拝堂の奥に、あたかもそこだけが神秘の光に包まれているかのように照り映えている。ことに大理石のルドヴィーカの像はやわらかな光を漂わせ、まことに神秘的だ(この礼拝堂におけるほど教会の照明が作品の効果を慣う例はない。もしライトがついていたら、消してもらうべきである)。その効果はライモンディ礼拝堂やコルナーロ礼拝堂の場合に似ているが、前者よりは一層集中感があリ、また後者とは比較にならないほど構想が単純である。それゆえ、我々はそこによリ深い宗教性と神秘を感じるのである。そしてこうした効果に、ベルニーニ一流の色彩に対する配慮が貢献している点も見逃すわけにはゆかない。つまリ彼は背景に絵を据え、台座の布に色大埋石を用いて、白い大理石の像がよく映えるように工夫しているのである。そしてルドヴィーカの像自体も、衣襞を大きく深く刻むことによって、その石の肌を透けてとおったリ、あるいは表面に漂ったリする光の効果を有効に引き出し、それによって、この像の神秘的表現を達成しようとしているのだ。

051-102福者ルドヴィカ・アルベルトーニ Beata Ludovica Albertoni
晩年 1670-74
ベルニーニは今や70歳を過ぎ、1673年には妻に先立たれた。にもかかわらず、彼の創造力は衰えを見せなかった。あまり気勢の上がらなかったクレメンス10世時代にも、彼はいくつかの優れた作品を制作している。その筆頭にあげるべきは、福者ルドヴィーカ・アルベルトーニの像であろう。この作品は、ローマのトラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパという目立たない教会にある。そのため一般にはほとんど知られていないが、この時期のベルニーニの代表作ともいえる傑作である。この作品は、クレメンス10世が即位すると間もなく、パルッツィ・デルリ・アルベルトーニ枢機卿から依頼され、1671年から74年にかけて制作されたと考えられる。このアルベルトーニ枢機卿は、教皇の実家アルティエーリ家と姻戚関係にあリ、教皇が最も頼りにしていた人物であった。

一方福者ルドヴィーカは、1473年に生まれ、20歳の時にトラステヴェレ地区の貴族と結婚するが、13年間の結婚生活の後に夫を失い、苦労しながら3人の子供を育て上げると、宗教生活に入って、その貧者に対する献身で人々に福者として崇められた女性である。彼女は1533年に亡くなったが、その時作られた墓碑にはすでに福者ルドヴィーカと記されている。しかしながら、教皇庁がこの民間信仰を正式に認めて福者に列したのは、1671年1月、つまりクレメンス10世の時代になってからであった。

ヴィクトリア&アルバート所蔵

ヴィクトリア&アルバート所蔵

かくして自家が生んだ福者を記念すべく、アルベルトーニ枢機卿はサン・フランチェスコ・リーパにある自家の礼拝堂の祭壇装飾をべルニーニに依頼したのである。ベルニーニはルイージの事件の余波で、この仕事を無償で引き受けている。 ルドヴィーカは胸に手をあてて横たわり、至福を表情に浮かべている。この像の解釈には、福者の死の姿を表わしているとする説と、神との神秘的合一の状態を表現しているとする説とがあり、どちらともにわかには判じ難い。そのポーズは死の姿を表わしたマリア・ラッジを思わせるが、十字架をかき抱いたという、伝記作者の伝えるルドヴィーカの死の様とは符合しないから、後者の説を正しいとすべきかもしれない。ともあれ、この像に近づいて手の表現などの細部を観察すると、衰えざるベルニーニののみの力に心を打たれないわけにはゆかない。けれども、そうした表現力やドラマテイックな形態にもかかわらず、全体の印象には不思議なほど静かで深いものがある。イタリア彫刻に関する3巻の著書で名高いポープ・ヘネシーは、ベルニーニとパロック彫刻にはむしろ冷淡だが、彼のこの時期の作品には大へん好意的だ。たとえぱサン・タンドレア・デルレ・フラッテの天使像について、彼は「これらは我々に、劇作家や設計者の無神経な自惚れではなく、献身的な大理石彫刻家の控え目な声で語りかける」と記し、一方このルドヴイーカの像について、「これまでの時期には考えられなかったような、円熟味と見栄に対する蔑視とをもって作られている。彼がイタリアの最も偉大な美術家の一員として受け入れられるとしたら、それは最終的には聖女テレサでなく、この至高の像によるにちがいないのである」と述べている。筆者はベルニーニの作品に対するポープ・ヘネシーの評価には必ずしも同意できないし、この論述にも賛成しかねるが、それは確かに一つの見識だといわざるをえない。福者ルドヴィーカの像には、70代半ばの作とは信じ難い創造性とともに、その年齢にふさわしい精神的な深さがあるからである。
BERNINIp202

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

ルーブル所蔵

Basilica di Sant’Agostino in Campo Marzio
サンタ・アゴスティーノ教会

042-100
Piazza di Sant’Agostino Roma, Italia
+39 06 6880 1962
8:30~12:00、16:00~18:30
アンジェリーカ図書館は裏にある?

聖アウグスティヌスに捧げられたこの教会は、1483年に後期わずか4年でG.ダ・ピエトロサンタが完成したもので、ローマにおける初期ルネッサンス様式の教会建築の好例である。内部は18,19世紀の改修でルネッサンスの雰囲気はあまり残っていない。内部の側廊の天井だけが、青星でミネルヴァのよう。20の柱の「出産の聖母」ヤコポ・サンソヴィーノの像と「預言者イザヤ」ラファエッロのフレスコ画、18の礼拝堂の「巡礼の聖母」カラヴァッジョは有名。



042-004Sアゴスティーノ見取り図3.Chapel of St.Catherine
4.Chapel of St.Joseph
5.Chapel of St.Rita
6.Chapel of St.Peter
7.Chapel of St.the Crucifix
8.Chapel of St.Augustine
9.Chapel of St.Nicholas of Tolentine
10.Main aitar
11.Chapel of St.Monica
12.Chapel of St.William
13.Chapel of St.Thomas of Villanova
14.Chapel of St.John and St.Fecundus
15.Chapel of St.Apollonia
16.Chapel of St.Claire of Montefalco
17.Pius’ Chapel
18.Chapel of Our Lady of Loreto
19.Our Lady of Stone(or of Childbirth)

20.St.Anne and Isaiah the Profhet
21.Sacristy
22.Organ



042-10110.主祭壇
天使像のデザイン
トッリアーニの主祭壇は、ベルニーニの素描に基づく1628年制作の天使像2体と、ビザンティン様式の聖母子画を戴く。
042-005Sアゴスティーノ天使像042-003ピオ礼拝堂の祭壇の天使




17.ピオ礼拝堂
042-011アゴスティーノ6042-010アゴスティーノ5

042-008アゴスティーノ3042-106

Basilica di San Lorenzo in Lucina
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会

036-1009:00~12:00、16:30~19:30
遺跡見学は、毎月最終土曜。

5世紀創建の教会で、ローマの貴婦人ルチーナが殉教者の供養をするために屋敷を提供して建てられたと伝えられる。12世紀始めに教皇パスカリ2世が再建し、柱廊玄関と鐘塔は今も残っている。その後1650年にコジモ・ファンツァーゴにより全面的な改築が行われ、側面の礼拝堂が加わった。金箔を張った格子天井は教皇ピウス9世が修復。1660年代前半にベルニーニがフォンセカ礼拝堂を設計する。主祭壇は1675年のカルロ・ライナルディ設計で、グイード・レーニ作の「磔刑図」がある。画家ニコラ・プーサンの胸像はルモワーヌの作で、シャトーブリアンがプーサンの墓を建てた。

10 8か9か、記憶が定かではない。


036-010サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ21.フォンセカ礼拝堂の設計装飾Cappella Fonseca
ポルトガル人でイノケンティウス10世の外科医だったこの人物の肖像を、フォンセカ礼拝堂の装飾の一部として制作した。礼拝堂はベルニーニの設計によって1660年代の前半に装飾されたが、肖像だけはずっと後になるまで完成しなかった。1668年に世を去ったフォンセカの生前にデッサンなどの準備がされたことは確かだが、大理石にかかってからなかなか進まなかったらしい。墓の記念像として壁に付けられたこのフォンセカの肖像は、祭壇の方を見つめ、左手を胸に当てて、右手でロザリオを握りしめるという礼拝の姿で表されている。それは切実な、全霊を込めた祈りの姿である。ベルニーニは自らモデルと同じポーズをとり、あたかも自分がデッサンされているように感じることによって036-007フォンセカ礼拝堂肖像に表情を与える、と語ったと伝えられるが、このフォンセカのポーズをベルニーニが自らとって、そのイメージに感情移入しようとする姿を想像することは容易であろう。そしてその時込み上げたであろう神への渇望を、彼はロザリオを握りしめる手に託したように見える。ルドヴィーカの像でも手は重要な役割を担っていたが、この肖像ではそれより直接的にモデルの内面を表現する手段となっているのだ。ベルニーニ晩年の肖像の特徴を端的に示すこの作品は、フォンセカという人物の存在感や人間性よりも、祈りという行為そのものを強く印象づけられる。しかもそこには、晩年のベルニーニの境地がにじみ出て、深い精神性があらわれている。先に述べたように、肖像彫刻はベルニーニがとりわけ得意とし、特別の愛着を抱いた分野であった。このフォンセカの肖像は、この分野におけるベルニーニの長く、そして実り豊かな制作活動を締めくくるにふさわしい充実した作品だといえよう。
036-013サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ5036-103036-105




036-106ガブリエーレ・フォンセカの肖像 Gabriele Fonseca
1668-73
礼拝堂、左手。
逆版のカードもある。右図が正解。036-008ガブリエーレ・フォンセカの肖像


036-011サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ3036-014サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ6

Chiesa dei Santi Domenico e Sisto
サンティ・ドメニコ・エ・シスト教会

030-100予約が必要。tel0667021

急な階段の上に縦長のバロック様式の正面がそびえ、さらに続く階段は左右に分かれて、テラスに上る2本の半円状になる。正面の三角破風は、炎を上げる8本のろうそくを戴いており、内部のヴォールト天井を飾るのは、ドメニコ・カヌーティ事な大フレスコ画だ。右手最初の礼拝堂はベルニーニが装飾を担当した。聖マグダレーナがゲッセマネの園でキリストに会う場面を描く彫刻も彼のデザインで、その後を引き継いだアントニオ・ラッジが完成させた。祭壇上には、聖母子を描く15世紀のテラコッタの額があり、さらに脇祭壇の左手には、フラ・アンジェリコの弟子の作といわれる同時代の聖母の絵が飾られている。

ドミンゴ(ドミニクス)1170頃~1221(8月8日)
L.Dominicus. S.Domingo de Guzmam.
〔伝記〕聖ドミニコ修道会の創設者。スペインのカスティリャ地方貴族出身。フランスやイタリアに布教。トゥールーズでアルビ派の異端者を改宗させたのち、1216年説教団の創設を裁可され、以後同修道会の指導に当たる。ロザリオによる祈祷を創始した。誕生のとき、生母が額に星をいただく子供と黒白のまだらの犬が口に松明をくわえて現われる夢を見る。この伝説は神の犬Domini canisの語呂合わせにもとづく。1203年頃トゥールーズで布教のとき、異教の書と聖書とを火中に投じて聖書の不朽性を証明。教皇インノケンティウス3世の夢に、崩壌寸前のラテラノ大聖堂を支える聖人として出現。その他ガロンヌ川で難破した巡礼団を救う話。落馬して死んだ青年ナポレオーネ・オルシニ(枢機卿ステファノ・ディ・フォッサヌオヴァの甥〉を蘇らせた話。猿に化けて誘惑する悪魔を懲らしめた話。ローマで3本の矢を持つキリストの幻影を見、それを自負と貧欲と色欲への警告と解した話。食物不足に苦しむローマの聖シクストゥスの修道士たちのために祈ると、二つの寵一杯に食物を詰めた2天使が現われた話。1530年ソリアーノの聖ドミニコ会の一修道士が、マグダラのマリアとシエナのカテリナを伴った聖母を夢に見、彼女からドミンゴの肖像を授けられ、目覚めて現実にその肖像画をもっていることを知ったという話など、多くの奇跡が彼に関して存する。ボローニャで没したが、臨終の時キリストと聖母が二つの梯子を支えて、彼の霊を天国へ迎えた。死後10年で列聖。聖マルティヌスとアッシジの聖フランチェスコと共に、中世末以来最も人気があった。
〔図像〕苦行と清浄の象徴として黒の外套に白衣をまとう。頭髪は周縁のみを冠状に残してあとは剃り落し、有髯である。手に一書を携え、アッシジの聖フランチェスコやパドヴァの聖アントニウスのように白百合の枝(純潔)を持つ。独特な持物は額に光る赤い星と、黒白まだらの犬で、これに中世末以来、聖母から授けられたというロザリオが加えられた。聖フランチェスコとの会見は、対立関係にある両修道会の親交を示すため、聖母とエリサベトの《御訪門》図とならんでしばしば表現された。



030-002アラレオナ礼拝堂アラレオナ礼拝堂  Cappella Alaleona
1649-50

所蔵不明

所蔵不明




030-101「我に触れるな」

030-004我に触れるな

Basilica di Santa Maria Maggiore
サンタ・マリア・マッジョーレ教会

028-101028-1009:00~18:50(12:30~16:30は礼拝堂は閉館かもしれない)
無休

S.ピエトロ、S.ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ、S.パオロ・フオーリ・レ・ムーラとともにローマの4大聖堂の一つで、敷き地はヴァティカン市国に属している。431年エフェソスの公会議で「聖母信仰」を公認したのを記念して、法皇シクストゥス3世が建立を命じた。
たび重なる修復や改築で、15世紀の鐘楼、18世紀のファサード(正面)、バロック様式のアプシス(後陣)、13世紀のモザイク、と部分によってできた時代も様式も様々だが全体としてのバランスをよく保っている。内部はクラッシックなバジリカ様式を残し、類まれな調和と荘厳さに満ちている。





所蔵不明

所蔵不明

後陣の改修 
クレメンス9世の短い治世の間に、サンタ・マリア・マッジョーレの後陣を拡張して、そこに教皇の廟を作るという企画も検討された。このためにベルニーニはいくつかのプランを立てて教皇と協議しているが、幸か不幸か、この企画は教皇の死によって中止されてしまう。
クレメンス9世の写真集に詳しくp278


028-005S.M.マジョーレ教会の後陣338-01SMマジョーレの改修案



028-012SMマジョーレ見取り図2.ポーチ
6.スフォルツア礼拝堂 Sforza chapel
7.ボルゲーゼ礼拝堂 Borghese chapel
 (パオリーナ礼拝堂)
8.ベルニーニの墓
10.システィーナ礼拝堂 Sistine chapel
12.洗礼堂 battistero
16.教会美術館


028-103内部
中央廊は36本の大理石の柱で仕切られ列注上部の5世紀のモザイクは、身廊の前方端祭壇上方のアーチに描かれたモザイクとともに同教会の貴重な宝だ。一方、アプシスのモザイクば13世紀末の、当時ローマで名高かったヤコポ・トッリティの作で、ビザンチン様式を離れ、より優美で色彩に満ちたローマ・モザイクの代表作の一つといってよい。モザイクの下のレリーフはルネッサンス時代のものである。主祭壇はフェルディナンド・フーガ作の天蓋で覆われ、祭壇下には同教会の最も貴重な聖遺物、キリスト誕生の際の、かいば桶の木片が収められている。


028-1042.ポーチ
入って右手にあるのは、バジリカの後援者であるスペイン人のフィリッポⅣ世の像である。
この部分の図面 ジローラモ・LUCENTIの彫刻 13世紀
これは、ベルニーニが設計し、13世紀に ことの顛末が不明。
028-010スペイン人の墓「スペイン人の墓の構想案」
これのことだろうか?
所蔵不明




028-1076.スフォルツァ礼拝堂 Chapel Sforza
また同じく左側廊のスフォルツァ礼拝堂はジャコモ・デッラ・ボルタの作だが、もとの設計はミケランジェロが手掛けたと言われる。




Santa Maria Maggiore-Sforza Chapel by Michelangelo7.ボルゲーゼ礼拝堂 パオリーナ礼拝堂 Chapel Borghese
システィーナ礼拝堂の向かい、左側の側廊にはパオリーナ礼拝堂がある。1606年、フラミニオ・ボンツォがパオロ・V.ボルゲーゼの注文に応じて作ったものだ。貴石で飾られた見事な祭壇と共に、16世紀のグイド・レーニのフレスコ画も見逃せない。祭壇の「聖母子像」は11世紀頃のものと思われる。


028-007クレメンス7世の即位式クレメンス7世の即位式Incoronazione di Clemente Ⅶ
1611 ピエトロの作
礼拝堂、入って右の壁がこの作品。
S.M.マジョーレのパンフレットでは、クレメンスⅧ となっている。
どっちだ?

左は、パオロ5世のモニュメント。

028-109028-108



028-013SMマジョーレ墓28.ベルニーニ家の墓Tomb 
主祭壇右床  
1680年11月28日、82歳の誕生日まで後9日であった。15日間病の床につき、最後に教皇の特使から教皇の祝福を受けて、9人の子供(5人の娘、4人の息子、うち一人は、S.M.マジョーレの聖職者であった)に見守られて息をひきとる。彼の遺体はサンタ・マリア・マッジョーレに安置され、多くの人々の告別の訪問を受けてから、同教会の一族の墓に納められた。この一族の墓は今日も教会に残るが、ベルニーニ個人の墓碑はない。028-012SMマジョーレ墓1主祭檀右側の、手すりのすぐ外側の床には、簡潔なデザインの大理石の墓石がはめ込まれていて、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)の名前がラテン語で記されている。バロック最大の芸術家ベルニーニの墓は、意外なほどシンプルだ。
「高貴なベルニーニ家の復活を待つ」




028-11010.システィーナ礼拝堂
主祭壇寄りの右側廊には、ドメニコ・フォンターナか教皇シクストゥス5世のために造ったシスティーナ札拝堂(1585年)がある。金色の小さな聖堂の形をした聖体用祭檀の下には、「聖霊降誕の小礼拝堂」があるのだが、これは13世紀にアルノルフォ・ディ・カンビオが新しくし、元は別の所にあったのをフォンターナがここに持ってきたのである。




12.洗礼堂 battistero028-106
 

 
028-008聖母被昇天 「聖母被昇天」Assunta
ピエトロの作 1610
洗礼堂のまっすぐ奥の壁にある。
聖女を天に導くプットーの部分にベルニーニが手を入れた




場所不明
028-014墓の紋章Tomba di Assalonne Rospigliosi
1665


パピの間 Salone dei Papi028-111
場所が不明、洗礼堂の右か?側廊2Fか? 
 

 

S.M.マジョーレ所蔵

S.M.マジョーレ所蔵

 「パオロ5世の胸像」Busto di PaoloⅤ Borghese
未確認




028-011パウロ5世のカタファルコパウロ5世のカタファルコ 
1622年に行われたパウロ5世の葬儀の様子。
ベルニーニが彫刻と建築を一体にした初めての作品。左下に立つ一群の中に、騎士の胸飾りと儀式用の剣をつけたベルニーニの姿が見える。
簡便な素材で、たった40日で建設されたこの作品は、16体の美徳像と20体の天使像で飾られていた。
所蔵不明


028マッティのカタファルコMuzio Matteiのカタファルコ
1668年
Gabinetto Comunale delle Stampe
所蔵不明


028ヴィラのカタファルコFeancesco Villaのカタファルコ
1669年
Gabinetto Comunale delle Stampe
所蔵不明