Palazzo Barberini – Galleria d’Art Antica
バルベリーニ宮-国立絵画館

023-1009:00~19:00
日 9:00~13:00
月曜休み、5€

マッフェオ・バルベリーニはフィレンツェの富裕な商家に生まれたが、教皇庁書記長をしていた伯父の招きで、16歳の時にローマに出た。そして伯父の庇護のもとにイエズス会の学校で基礎的素養を身につけ、それからピサで法律を修めた。その後の彼は、持ち前の優れた能力と魅力的な人柄によって着実に出世し、1604年には教皇の大使としてパリに赴任することになる。そしてそのパリでもアンリ4世の信頼を得、結局王の推薦で枢機卿に叙せられ、ローマに戻ったのである。その後はスポレートの司教やボローニャの特使をつとめ、さらに1617年から教皇の座につくまではローマに落ち着いて教皇庁で活躍していた。彼は若い時から文学に惹かれ、自身イタリア語やラテン語、時にはギリシア語で詩を書き、詩集も数篇出版している。
1670年代の沈滞した空気の中て『美術家列伝』を著わしたパッセリは、『アンドレア・サッキ伝』で次のように述べている。「彼(サッキ)が23歳を迎えた時、ウルバヌス8世が教皇の座についた。その時には、ほんとうに絵画の黄金時代が再来したように思われた。ウルバヌス8世は愛すべき性格で寛大な心をもち、また気品のある、才能に恵まれた教皇であり、その甥たちも皆美術を擁穫したからである」。事実、建築家フランチェスコ・ボルロミーニ、画家・建築家ピェトロ・ダ・コルトーナ、彫刻家アレッサンドロ・アルガルディ、画家アンドレア・サッキ、ブリュッセル生まれの彫刻家フランソワ・デュケノワ、フランス人画家ニコラ・プサンとクロード・ロラン、そしてジャン・ロレンッオ・ベルニーニと、ウルバヌス8世時代のローマは傑出した美術家にこと欠かなかった。また美術だけでなく、人文諸科学や波劇・オペラにも注目すべき発展がみられた。パッセリの言葉どおり、こうした隆盛はウルバヌス8世と甥のフランチェスコ、アントーニオ、そしてタッデオといったバルベリーニ家の人々が、惜し気もなく文化に金を注ぎ込んた結果であった。皮肉なことに、教皇ウルバヌス8世の出現は、より大きな勢力をふるっていた枢機卿たちの妥協の産物であり、ある意味では偶然の腸物であった。けれどもローマは、この偶然によって盛期バロック美術を開花させ、再びヨーロッパの指導者となったのである。
 ウルバヌス8世は教皇に選ばれると、その日のうちにベルニーニを呼び、「騎士よ、枢機卿マッフェオ・バルベリーニが教皇に選ぱれたのは、おまえにとって大きな幸運だ。だがそれよりも大きな幸運は、騎士ベルニーニが我々の治世に生きているということだ」と言ったと伝えられる。ずっと以前から彼は、ベルニーニの才能と才知に惚れ込んでいたが、権勢をふるっていたシピオーネ・ボルゲーゼがその才能を独占していたので、小さな作品を依頼したり、時折アトリエを訪れて、詩を捧げたり鏡をもってやったりするだけて満足しなければならなかった。だが今や事態は一変した。ペテロの後継者、そして一国の主となった彼は、ベルニーニの才能を意のままに用いることができるようになったのである。その時、ウルバヌス8世は「彼の治世のうちに、彼の尽力で、ローマにもう一人のミケランジエロを生みださせようという、称讃すべき野望を抱いた」(バルディヌッチ)のである。
 実際ウルバヌス8世とベルニーニは、単なるパトロンと美術家という以上に親しく交わった。それはスペインのフィリッペ4世とベラスケスとの関係を思わせるところがある。枢機卿時代と変わらぬ好意を寄せるウルバヌス8世は、ベルニーニに自由に出人りすることを許したのみならず、しぱしぱ彼と夕食を共にした。そうした時ベルニーニは、教皇が横になるまで話相手をして、教皇が寝入ると窓を閉めて帰宅した、と伝記作者は伝えている。またある時には、16人の枢機卿を従えて教皇自らがベルニーニのアトリエを訪れ、異例のこととして人々を驚かせた。ベルニーニもこれには非常に感ずるところがあったとみえ、彼の家には後に彼がリヨンで市の要人から鍵を託された場面と、このウルバヌス8世訪間の場面を描いた壁画が残っている。またベルニーニが若気のあやまちで間題を起こした時にも、教皇は特赦を与えて無罪放免にしてやったばかリでなく、説得して彼を結婚させている。
 このように教皇の寵愛をえたベルニーニは、ウルバヌス8世時代の重要な美術企画のほとんどすべてを任され、教皇庁の美術担当大臣の観を呈していた。ウルバヌス8世はいろいろな仕事を与えて、ベルニーニの才能を独り占めしようとしたのである。こうした状況はウルバヌス8世時代の後も統き、次のイノケンティウス10世の最初の幾年かを除いて、ベルニーニはローマの美術会において絶大な影響力を持ち続ける。「∵∵50年以上にわたって、ローマの美術家たちは、好むと好まざるにかかわらず、彼の卓越性に敬意を表さざるをえなかった」(ウィットコウァー)のである。当然、彼の存在を快く思わない者も多かった。そうした者たちは、ベルニーニの仲介なしには重要な仕事の注文がもらえない状況を繰り返し嘆き、機会を捉えてはいろいろな形で彼を攻撃したのである。
 さて、ウルバヌス8世がベルニーニを「もう一人のミケランジェロ」に育てようとしたことは、即位すると間もなく彼に建築と絵画を学ぶよう命じたことからも分かる。ベルニーニはさっそく古代建築の研究にとリかかると同時に、2年の間絵画に専心した、とドメニコは伝えている。バルディヌッチの言葉を信ずるならば、ベルニーニの絵画作品は150(ドメニコによれば200)点以上にのぽったが、今日確認できる作品は非常に少ない。しかもそれらは個人的な楽しみのために描かれたものであり、彼が公の注文に応じたことは一度もなかった。したがって、ベルニーニの活動における絵画作品の重要性は比較的小さいといえる。これに対して建築の分野では、ボルロミーニと並ぶ非凡な建築家に成長し、サン・ピエトロ広場をはじめとする重要な作品を残すことになるのである。





023-101バルベリーニ宮の建築
1625年に教皇ウルバヌス8世の命でカルロ・マデルノが最初の設計を始めるが、彼の死後1628年ベルニーニが後を引き継ぎ完成させる。
ボッロミーニはマデルノの弟子であったが、引き続きベルニーニのアシスタントとして参加。マデルノの設計に基づく工事はかなり進んでいたので、あまり大規模な修復は行わなかったと思われる。庭側のファサードと絵画館へ通じる左翼の階段を設計した。右翼の楕円形階段とファサード3階のだまし絵の窓はボッロミーニの構想。また、ピエトロ・ダ・コルトーナのフレスコ画「神の摂理の勝利」で飾られた2階の大サロンもベルニーニの設計。
バルベリーニ宮は1949年、国家の所有となった。その後19世紀末に創設された国立絵画館がここに入り現在に至り、宮殿の2階部分のほとんどと3階を占めている。






Salone di Pietro da Cortona
023-106「ウルバヌス8世の肖像」 Ritratto del papa UrbanoⅧ
油絵 1623-44
1623年頃、教皇即位の頃の像
ミケランジェロとは対照的に、肖像彫刻に特別の愛着を抱いていたベルニーニは、ウルバヌス8世時代にも多くの肖像彫刻を制作した。しかし1624年にバルダッキーノの制作に着手してからは、肖像は弟子の手にまかされることが多くなり、そのため出来映えが一定しなくなる。が、それでも、それらの肖像の中には、傑出した作品が少なからず含まれている。バロック時代のローマの美術家は、パトロンと深く交わることを余儀なくされたが、そうした中にあって、ベルニーニはパトロンとの間に個人的な関係を結び、むしろそれを糧にして生きたようにみえる。その点で彼は、ミケランジェロがかたくなに自らの理念の世界に生きようとしたのとは正反対であった。そうしたいわぱ人間への強い関心が、ベルニーニの肖像彫刻の豊かな実りを生んだのである。そこで次は、ウルバヌス8世時代に制作されたベルニーニの肖像彫刻について考察することにしよう。
 ちょうどベラスケスがフィリッペ4世の肖像を数多く描いたように、ベルニーニも大埋石とブロンズでウルバヌス8世の胸像を幾点も制作している。これらの一連の作品は教皇の治世全般にわたっており、ウルバヌス8世の容貌とその心理状態の優れた記録となっている。56歳で即位した頃の教良はふさふさした髭を自慢にし、明るい青色の目は大きく、血色もよかった。このように美男として鳴らす一方で、乗馬を得意とした彼は、時折胃痛におそわれる他は健康そのものだった。またすぐに立腹するきらいはあったが、陰湿なところはなく、概して率直で、広い教養を誇ると同時に深く宗教的な人であった。こうした教皇の性格はベルニーニのそれと相通ずるところがあり、二人が意気投合したのも故のないことではない。ベルニーニはこのような教皇に対し敬意と親しみを込めて、まず即位したぱかりの頃の、活力に充ちた胸像を制作している。この像に見られるウルバヌス8世は、帽子をやや後ろに被って、血色のよさそうな額をあらわにし、ベルニーニにサン・ピエトロの遠大な装飾計画を情熱を込めて語っているといった風である。彼の青い目は輝き、豊かな髭は笑い、そしてふっくらした頬は中年の生気に色づいている。後年ベルニーニはパリで、もしある人の髪や髭や眉、そして目やくちびるが真白になったとしたら、毎日見慣れた者でもその人だとは分からなくなる、だから失神した人を見ると、しぱしぱ「同じ人には見えなかった」というのだ、「それゆえ、たった一色からなる大理石の肖像をモデルに似せて作るのは非常にむずかしい」と語っている。そしてこれに続けて、「大理石の肖像においては、時折、自然をよく模倣するために、自然にはないものを付け加える必要がある」といって、たとえぱ目に色彩の効果を与えるためにくぽみを穿って、「色彩を施すことのできない彫刻芸術の欠陥」を補わなけれぱならない、と説明している。このまことに示唆に富んた話は、肖像に生命を与えることにベルニーニがいかに腐心していたかを伝えるとともに、彼が彫刻における色彩の間題を真剣に考えていたことを教えてくれる。色彩がないことを「彫刻の欠陥」といっているように、彼にとってこれは単に肖像だけでなく、彫刻作品全体にかかわる間題であった。そしてそれに対し、彼はさまざまな形で解決策を見出そうとするのである。ちなみに、大理石像の目の彫り方については、以来二つの方法、つまり瞳の部分を彫り込む方法と、逆に瞳の部分を残すよう周囲を彫り込む方法とが用いられてきた。ミケランジェロも両方を試みているが、ベルニーニもこの二つの方法を適宜使い分けている。




023-107「ウルバヌス8世の胸像」 Busto di Urbano Ⅷ
1632年、
老境にさしかかった教皇の像
さて、さすがのウルバヌス8世も60の坂を下ると、心なしか頬がこけ、髭も薄くなり、即位した頃のはつらつとした生気は後退して、かわりに老いの兆しがはっきりしてくる。この様子は、ベルニーニが1631年に教皇の詩集のために描いた肖像画(銅版画のもとになったデッサンは失われた)にうかがうことができる。このデッサンを描いた翌年に、ようやくバルダッキーノの仕事を終えたベルニーニは、再びのみを執って、教皇の胸像を制作したと推測される。この胸像はウルバヌス8世の肖像として傑出しているぱかりでなく、ベルニーニの数多い肖像彫刻の中でも最高傑作に数えられる作品である。先の像とは異なって帽子をきちんと被った教皇は、時折考えにふけりながら、静かに何かを語っているように見える。老境にさしかかった教皇は一層思慮深さを加え、ベルニーニはそうした教皇にある種の畏敬の念を抱いたのであろう。




023-008ベルニーニの肖像ベルニーニの肖像
Giovanni Battista Gaulli, detto Il Baciccio作
キャンバスに油彩、1666年頃
72×61cm
Inv.1451



部屋不明
058-101クレメンス10世の半身像Mezza figura di ClementeⅩ
アルティエリ宮にあったもの。




023-200ウルバウス8世の胸像 BUSTO DI PAPA URBANO VIII
1650年
由来不明
araldodeluca.com




Imacon Color Scannerアントニオ・バルベリーニの胸像 BUSTO DEL CARDINALE ANTONIO BARBERINI
1624年
由来不明
araldodeluca.com



023-006ゴリアテの首を持つダヴィデゴリアテの首を持つダヴィデ David
油絵 1623
Marchese Incisa della Rocchetta にあるという説→イエローブック p15
NTT P192にあるダヴィデのような自画像というのはこれのことか?




023-007聖ベルナルド聖ベルナルド San Bernardo
cartone 素描

ベルナルドゥス 1090~1153(8月20日)F.Bernard de Clairvaux. L.Bernardus Claravallensis.
〔伝記〕ブルゴーニュの貴族出身。パリ大学で勉学し、母の死後23歳でシトー会に入った。誘惑を退けて修道に専念し、2年後12名の弟子を連れて新修道院の建設地を求めて、ヴィル・スー・ラ・フェルテ村の渓谷に修道院を建て、ここを「明朗の谷」(Clairvaux)と改めた。間もなく同修道院の名声は欧州各地に広まった。宗教面、神学面でも多大の影響力を与え、ことに第2回十字軍の結成に努力し、これを実現させた(1133~37)。アベラールと諭争して、理性が信仰の領域を侵すことに反対し、神との観念による感覚的一致を説いた。彼が聖母の賛美の書を執筆中に、聖母が2度現われ、彼のために乳を与えたといわれる。反宗教改革期のカトリック絵画に多く表現されたが、彼自身は修道生活と貧困の誓いにもとるからと、教会堂に華美な装飾や写実的な彫刻を禁じた。過労と断食のため63歳で没。
〔図像〕異教を征服したしるしとして、彼の背後に鎖につながれた悪魔を従え、著書の上あるいは彼の足元に司教就任を拒んだことを表わす三つの司教冠が置かれる。蜜蜂の巣が描かれるのは雄弁の象徴。シトー会の白衣をまとい、本とペンを手にする無髯の青年が、クレルヴォーの司教の身分を示して司教冠と杖を持つこともある。また十字架や受難具が、彼の主著といわれる『黙想録』に関連して表翼される。