Fontana di Trevi
トレヴィの泉

fontanaditrevi

トレヴィの泉改修案
最初のトレヴィの泉は帝政ローマ時代まで遡る。蛮族の侵入で破壊され、1453年にレオン・バッティスタ・アルベルティによって再建され、その後300年に渡って13代の教皇が関わり、1623年に教皇ウルバヌス8世がベルニーニを起用してようやく実現するかに見えた本格的な工事も、周囲の家屋を整理して空間を作り、クィリナーレ宮から見えるように噴水を移動して今日のような向きに替えたところで、教皇とベルニーニの死によりまたしても棚上げとなった。1730年、クレメンス12世は工事を完成させるため、コンクールを開き、ニコラ・サルヴィが栄冠を手にする。彼の死後、ジュウゼッペ・パンニーニが引き継ぎ、1762年に完成。ベルニーニがトレヴィの泉をどのように装飾しようとしたかは定かではないが、サルヴィの設計はベルニーニの「四つの河の泉」から決定的な影響を受けているといわれる。

ベルニーニは重要な噴水の仕事に携わった。アックワ・ヴェルジネの終着点である《トレヴィの泉》を整備、装飾するというのがその仕事てある。今日ローマの最大の観光名所の一つになっている《トレヴィの泉》(その名の由来は、そこが三叉路になっているからとも、三つの流出口かあったからとも、また水源地の地名から派生したともいわれる)は、最も重要な終着の噴水だったにもかかわらず、長い間本格的な装飾がなされぬままになっていた。つまりアックワ・ヴェルジネの流出口に簡単な装飾があるきりだったのであるが、ようやく1640年になってこの噴水の整備・装飾のために36000スクーディという巨額の予算が組まれ、「アックワ・ヴェルジネの建築家」でもあったベルニーニにその仕事が任されることになった。彼はまず周囲の家屋を整理して空間をつくり、クイリナーレ宮から見えるように噴水を移動して今日のような向きに変えたのである。ところがそこまで進んだところで、工事は中断してしまう。というのは、アッピア旧街道にある古代の重要なモニュメント、チェチリア・メテルラの廟から装飾に用いる大理石を調達しようとしたことに激しい反対が起こり、加えて教皇庁の財政が悪化したことが決定的に工事の続行を妨げることになったからである。そしてこの後さまざまな紆余曲折を経るが、1762年になってようやく今日見るニコラ・サルヴィのすぱらしい《トレヴィの泉》が完成する。残念ながら、ベルニーニが《トレヴィの泉》をどのように装飾しようとしていたかは推測の域を出ず、また彼の構想とサルヴィの作品との関連も定かではない。けれども、ここでは詳しく論じないが、サルヴィの《トレヴィの泉》かベルニーニのもう一つの噴水、ナヴォナ広場にある《四つの河の泉》から決定的な影響を受けていることは確かであり、ベルニーニなくしては今日の《トレヴィの泉》は存在しえないのである。
BERNINI p99

ローマの噴水について研究していたチェザレ・ドノーフリオが、ベルニーニが手がけたトレヴィの泉の工事に関する台帳のマイクロフィルムをパリの国立図書館からとり寄せたところ、その最後の余白にコメデイーの台本とおぽしきものが記されているのに気づいた。これは未完で、しかも書記の手で書かれたものだが、あらゆる状況からみてベルニーニのコメディーの台本に間違いない。そこでドノーフリオは、1962年に『フオンターナ・ディ・トレヴィ(トレヴィの泉)』という仮題をつけて、これを出版したのである。俗語と方言を駆使したこのコメディーは、正直のところ、筆者には分からないところが多い。そこでラヴァンの要約を参照しながら、その筋を紹介しようと思う。
 話はこうである。ある君主に仕える若い紳士チンッィオは、舞台美術の老大家で、自らもコメディーを書いて演ずるグラッィアーノ博士の娘アンジェリカと恋におちる。チンッィオは無一文だが、冗談好きで魅力的なナポリ人の従者コヴィエルロが、彼に小金を得る方策を入れ知恵する。グラッィアーノのすぱらしい舞台効果を見たがっている、不思議な外国人アリドーロから1000スクーディ巻き上げようというのだ。そこでチンッィオはグラッィアーノに、君主がコメディーを作るよう命ぜられた、という。グラッィアーノはこれを拒むが、しまいに女中のロゼッタに説き伏せられる(彼はロゼッタと浮気している)。グラッィアーノはロゼッタに考えた筋書きを話す。すなわち、グラッィアーノという博上がロゼッタという女中を愛する。彼は結婚しているが、妻は「悪臭を放つすえた肉片」でしかない。グラッィアーノはロゼッタを利用して現状を打破し、妻が死ぬ前に子供を作ろうと企てる。こうして、実際のグラッィアーノと想像上の彼との間ですぱらしい会話が交され、その中で前者が後者の汚れた考えを声高に非難する。第二幕では、空模様があやしくなるところで装置がうまく働かなくなるという場面が登場する。グラッィアーノは激しく不満を表わし、まさしく「バロック的」美学を開陳する。舞台装置は人を楽しませるものではなく、人を仰天させるものでなければならない。また、着想と考案とは人の目をもてあそんで驚かせる魔術だ、と彼は言う。アリドーロは、第三幕で判明するのだが、彼自身演じ、背景を描くコメディー作家である。グラッィアーノ博上の召使ジャンニをだき込んで、アリドーロは変装し、舞台準備の助手にやとわれて、グラッィアーノの技術を学ぽうとする。そしてフランスの舞台装飾画家コケットがまさにアリドーロを働かせようとするが、そこで写本は終っている。
 このコメデイーは1644年の謝肉祭のために書かれたと推測されるが、上演されたかどうかは不明である。少なくとも第三幕が明らかに未完である上に、誤字脱字の多いこの写本は、このままでは上演に用いることは不可能だ、とドノーフリオは述べている。ともあれ、この『フォンターナ・ディ・トレヴィ』はベルニーニのコメデイーがどのようなものだったかを教えてくれる。それは典型的な人物が登場する半ぱ即興的なコメデイーで、方言と時に卑猥な意味を込めた言葉を用いて観客を笑わせ、気の利いたせりふと風刺で感心させるといったもの、つまり登場人物も筋立ても会話の手法も、当時のコメデイーの伝統にのっとったものだということができる。しかしこのコメディーでとりわけ興味深いのは、グラッィアーノ博士というベルニーニの分身ともいえる人物が主人公になり、その卓越した技術を盗もうとする輩が登場して劇が成り立っていることである(後にベルニーニは、唖を装ってグラッィアーノの技術を盗もうとする紳士が登場するという、これと似たコメディーの筋をシャントルーに語って聞かせている。だが、これもおそらくは構想で、実際に上演されたものではないだろうといわれる)。しかもグラツィアーノはコメデイーの中でコメデイーの制作に当たるから、いわゆる「劇中劇」の様相を呈することになる。こうした特徴をもつコメデイーではあるが、先に紹介したように三幕の途中で中断しているので、結末がどのようになるのかは分からない。が、一つの可能性は、ベルニーニが構想を抱いていたとバルディヌッチが伝える、「装置の取り扱いにともなうあらゆる過ちを、その正しい使い方とともに明らかにする」コメデイーがこれかもしれないということだ。もしそうだとするならぱ、グラッィアーノの「劇中劇」は舞台装置の誤用で混乱し、最後にそれを何らかの形で収拾するという結末が考えられるわけである。実際ベルニーニは、「装置は人を驚かせるためのものだ」と考えており、いろいろな趣向をこらして観客を再三あっといわせているから、こうした結末はベルニーニの発想にそぐうといえるのではなかろうか。
BERNINI p87