旧フラミニア門がいつからあったのかは定かではないが、1099年に教皇パスカリ2世がS.M.デル・ポポロ教会を建てさせた。教皇ボニファティウス8世が1300年を聖年に定めて以来始まったカトリック教徒のローマ巡礼の習慣によって、北からやってくる巡礼者の群はフラミニア門を通って市内に入ってくるようになった。
16世紀に巡礼者の流れをよくするために、ラータ通り(現在のコルソ通り)の両側に、新たにリペッタ通りとバブイーノ通りが造られ、1589年に広場の中央に教皇シクストゥス5世のもとドメニコ・フォンターナにより、もと大競技場に建っていたオベリスクが建てられた。
広場に面した側の装飾
1655年に教皇アレクサンデル7世はスウェーデンのクリスティーナ女王がカトリックに改宗し、ローマを訪れるのを記念して、ベルニーニにポポロ門の内部ファサードの装飾を依頼した。この凱旋門の屋上階には「幸いにして吉なる入城のために、1655年」という教皇自身の案分による銘が刻まれている。六つの山と星からなるアレクサンデル7世の紋章と、先に麦のついた花飾り(麦はクリスティーナ女王の紋章)の装飾が認められる。ローマ入城は照明、建築など贅を凝らして熱狂的に歓迎された。
その後、1662年に教皇アレクサンデル7世がカルロ・ライナルディに広場全体の再計画をさせ、双子の教会が建てられた。
19世紀初頭、ナポレオンの軍隊の駐屯がもたらしたフランス革命に大きな影響を受け、大規模な改造が始まった。1810年にジュゼッペ・ヴァラディエがピンチョの丘の公園計画を引き受け、丘とその下に広がるポポロ広場を含めた広い範囲に渡って配置し、現在の姿になった。
このように熱狂的な歓迎を受けたクリスティーナ女王は、翌年7月にはペストで汚染されたローマを発って帰国の途についた。しかし、それからほぽ1年後の57年5月に再びローマに戻ると、89年4月19日に63歳で世を去るまで、27年間という長い期間をローマのヴィラ・リアーリオ(後のヴィラ・コルシーニ)で過ごすことになる。彼女はその間、文人・芸術家らと広く交わり、またアッカデミア・レアーレを創設するなどして、ローマの文化活動に大きな役割を果たした。女王と接した数多い芸術家の中でも、ベルニーニは女王が最も敬愛した芸術家であった。バルディヌッチの『ベルニーニ伝』が女王の依頼によって執筆されたことが、それをよく物語っている。また女王のこうした敬愛ぷりを示すエピソードも伝えられている。ある日、多くの供を連れてクリスティーナ女王がベルニーニの家を訪れたことがあったが、その時仕事中だったベルニーニは、身仕舞いする時間があったにもかかわらず、これこそ芸術を理解して下さる女王にふさわしいと言って、仕事着のままで女王の御前に出た。女王はこれがいたく気に入り、自らベルニーニの仕事着に触れてみた、という。一方、ベルニーニの方も女王に対して非常な敬意を抱いていたことは、いろいろな事実から明らかである。