Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館

208-100




208-001天使の頭部天使の頭部
Testa di Angelo




208-102自画像
Autoritratto
油絵 1640




ウフィツィ所蔵

ウフィツィ所蔵

アラレオナ礼拝堂のスケッチ
Cappella Alaleona


028-010スペイン人の墓S.M.マジョーレ教会のスペイン人の墓の構想案
Progetto per la tomba del re di Spagna in S.M.Maggiore


208-003サンタンドレア・クイリナーレの図面サンタンドレア・クイリナーレ教会の図面
pianta di S.Andrea al Quirinale




Contini Bonacossi Collection
建物が違う。裏の via Lambertesca 6とか4 に入り口がある?
だとすれば、一般公開はされていない。
よくわからない。

208-103聖ロレンツォ  St.Lorenzo
バルディヌッチの伝えるところによれば、ラウレンティウス、つまりロレンツォという同名の聖人に対する傾倒から、15歳の時(1614年頃)にベルニーニが制作した作品である。ルガーノにある「聖セバスティアヌスの殉教」は、枢機卿マッファオ・バルベリーニ(後のウルバヌス8世)の注文によって、《聖ラウレンティウスの殉教》より少し後に制作されたものと推定される。制作年代は必ずしも定かでないが、両作品とも等身大よりは小振りで、若いベルニーニの習作といった印象を与える。それでも、大理石彫刻の技術は一屑磨かれ、肉体の表現はまことに充実している。後期マニエリスムの鈍重な、あるいは「背骨のないような」(ウィットコウアー)肉体表現は完全に凌駕されているのである。そしてこれらの作品においても、ベルニーニの原点は古代彫刻の研究にあった。そのことは、ベルニーニがバルベリーニ家のために修復したといわれる《バルベリーニのファウヌス》と《聖セバスティアヌスの殉教》との類似が雄弁に物語っている。だか一層注目すべきは、この二つの《殉教》に見られるミケランジェロの影響である。これらの彫刻とミケランジェロの二つの《ピエタ》(今日フィレンッェの大聖堂附属美術館に収められている《ピエタ》も、当時はまだローマにあった)との関連は、誰の目にも明らかといえよう。当然のこととして、ベルニーニはしぱしぱミケランジェロと比較して論じられる。ベルニーニ白身がミケランジェロをどう評価していたかはおいおい言及するが、彫刻作品に関していえぱ、ベルニーニはルネッサンスの巨匠に対して意外なほど冷やかで、その影響も初期の作品に限定されている。
 ところで、この《聖ラウレンティウスの殉教》を制作する時、ベルニーニは自らの足を火にかざして、熱さにゆがむ顔を鏡で観察した、とドメニコは伝えている。この記事は、美術家にまつわる典型的なエピソードの一つ(芥川龍之介の『地獄変』ばそれを文学にまで高めた例である)とも受けとれるが、それよりも初期の作品にいろいろな形で現われる、顔の表情や人相学に対するベルニーニの非常な関心に符合する。
BERNINIp11

ラウレンティウス †258(8月10日)
E.Lawrence. L.Laurentius. S.Lorenzo.
〔伝記〕伝説ではスペインのウエスカ(またはオスカ)生まれ。サラゴッサで勉学中、博識をシクストゥス2世に見込まれ、ローマヘ伴われて助祭長に登用された。258年ウァレリアヌス帝の迫害下でシクストゥスが殉教の際、ともに殉教を願うラウレンティウスに、死を3日のばして、その間に彼が預かる教会財産を貧者に分かつよう命じた。ローマ総督は教皇の死後、教会財産の提出を強要したが、ラウレンティウスは彼が施しをした貧民を集め、教会の宝の実体を誇示した。熱した鉄灸上に生きながら横たえられて殉敦。遺骨はティヴォリヘの途上にあるカタコンベヘ埋葬。スペインではエスコリアル、イタリアではジェノヴァ、ヴィテルボ、アンコナの聖堂、ローマはじめ各地の聖堂等、欧州各国に多くの宗教建築が彼に捧げられたが、特にフィレンツェではロレンツォ・デ・メディチが同名のため、この聖人を尊崇しミケランジェロを用いて聖ロレンツォ聖堂とラウレンツィアーナ図書館の設計や装飾にあたらせた。
〔図像〕棕櫚を手にし、豪華な助祭長服(火焔の刺繍をつけた)をまとう無帽の青年像として表現される。金貨を盛った皿や財布、杯、吊り香炉、十字架、また殉教具としての鉄灸が持物。格子型の長方形鉄灸は手中または肩の上に置かれるか、稀に小型のものが首から吊されたり、助祭衣に刺繍される。《シクストゥス2世により助祭に任ぜられる》《教皇から教会財産を託される》《貧民へ財産を分かつ》《鞭打ち》《殉教》などの諸場面が描かれる。