Chiesa di San Pietro in Montorio
サン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会

053-100via di S.Pietro in Montorio
9:00~12:00、16:00~18:30

9世紀頃に創建され、15世紀の後半にスペイン王フェルディナンドと王妃イザベラによって立て直された。
内部は単廊式。ライモンディ礼拝堂は左側。
中庭にはブラマンテのテンピエット。





053-010ライモンディ礼拝堂ライモンディ礼拝堂 Cappella Raimondi
1638-48
サン・ピエトロ・イン・モントーリオにある小さなライモンディ礼拝堂は、《聖フランチェスコの法悦》を表わす浮彫を納める祭壇と、両脇の壁につけられた2つの墓、そして《聖フランチェスコの昇天》を中心とするフレスコ画とストウッコによる天井装飾とから成っている。こうした礼拝堂装飾の実際の仕事は、この種の他の仕事と同様に弟子の手でなされており、そのため個々の作品の質はまちまちである。しかしながら、全体は完壁に調和して、ベルニーニのアイディアを見事に実現している。ベルニーニがここで意図したのは、礼拝堂全体をあらゆる意味で調和のとれた統一体にすること、そしてそれを聖フランチェスコの神秘劇の劇場にすることだったといえる。彼は注意深く各部と全体のバランスを考え、我々の注意が祭壇の《聖フランチェスコの法悦》を表わす053-016SPモントリオ12浮彫に無埋なく集中するように礼拝堂を設計している。そしてその浮彫を壁龕に入れるとともに、その左上方に窓を切って、浮彫を照らす光源としている。ベルニーニはすでに聖女ビビアーナの祭壇において同じような試みをしているが、ここでは隠された光源から入る光は完全に統御され、前者の場合よりも直接的に、そしてより効果的に用いられている。なお浮彫が初めから左上方の光を前提として制作されたことは、その構図を見れぱ明らかである。またこの左上方からの光は、浮彫全体に凸型のゆるいカーヴをつけるという独創的な試みによって、一層その効果を高めている。つまりこうした試みの結果、この浮彫は彫刻というよりも光と陰から成る類稀な絵画のように見えるのである。いいかえれぱ、この礼拝堂の主役は光そのものだということだ。当時聖フランチェスコの法悦は彼の聖痕と同一視され、その聖痕は神の光によって顕現したと信じられていた。したがってベルニーニが隠された窓から招じ入れた光は、この礼拝堂における視覚上の主役であると同時に、聖フランチェスコの神秘劇の真の主役たる神の光でもあったわけである。
053-015SPモントリオ11このライモンディ礼拝堂について、パッセリは「彼はいつもどおりの特異な才能によって、奇妙な新しさを建築に導入した」と述べている。反ベルニーニ感情の強いパッセリも、この礼拝堂の「新しさ」を認めているわけである。その「新しさ」とは、一言でいえぱ、彫刻と絵画を建築に融和させた点にあるといえる。いいかえるならば、建築空間を一つの劇場とみなし、その中で建築と彫刻と絵画とを融合させて演劇に比せられるような総合的作品を作ろうとしたのである。こうした意図をベルニーニ自身が述べた言葉は伝わっていないが、次のバルディヌッチの言葉は、ベルニーニのそれを反映しているとみてよいであろう。すなわち、「彼は全体が一つの美しい融合体をなすように建築を彫刻と絵画とに結びつけた最初の美術家である、と広く信じられている」。このように、ベルニーニは建築と彫刻と絵画とから成る一つの総合的作品をめざしたが、それはさまざまな素材や形態、そして光と色彩とが互いに響き合い、融け合うイリュージョンの世界である。こうした総合的視覚芸術の世界が、ベルニーニの演劇への傾倒と深く関係し、また彼の時代のスペクタクルと演劇の体験に根ざしていることは、誰の目にも明らかであろう。ライモンディ礼拝堂は、ベルニーニのこうした意図を実現した最初の作品なのである。

ビルデンデン美術館所蔵

ビルデンデン美術館所蔵

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053-012聖フランチェスコの法悦聖フランチェスコの法悦

フランチェスコ アッシジの 1182頃~1226(10月4日)I.Francesco d’Assisi. L.Franciscus Assiensis.
〔伝記〕聖フランシスコ会の創設者。アッシジの富商の息子。洗礼名ジョヴァンニ、母がフランス人であったためとか、彼がフランス語のバラードをとくに好んだところからフランチェスコとよばれたという。はじめのうち放蕩生活を送る。1202年アッシジとペルージアとの境界争いの戦闘に敗れて捕えられ、1年後帰国、数か月病床にある間に霊的方面に関心をもつ。全快後、同じ貴族のおちぷれた者に会い、着物を交換して帰った翌晩キリストが夢枕に立ち、修道を志すことに決意し、私財を貧者に分かつ。1206年廃嫡され、以後はもっぱら隠者生活を送り、アッシジ周辺の聖堂の修繕に当たり、質素な衣食住生活に甘んじた。コルデリア(Corde1ier)とよばれる同派の帯はその1例。1212年キアラが弟子となり、彼の指導のもとに聖キアラ会創立。1215年頃、シエナヘの旅中で貧しい3人の娘が現われ、挨拶が終わるや消えてしまった。これは神が下した純潔と服従と清貧の象徴であるとされ、〈清貧との結婚〉というテーマで芸術上表現された。聖フランシスコ会は1210年ローマでインノケンティウス3世から公認された。教皇が謁見した当夜、倒壊するラテラノ大聖堂を支える人を夢見て、それが昼間のフランチェスコであることを知り、翌日彼の修道会を公認したといわれる。清貧の他に彼の特性に「涙の贈物」がある。彼が自分の罪と全世界の罪のため絶えず祈り落涙したことに由来。1219年エジプトとシリアに宣教。1223年ホノリウス3世から教団の新会則を公認され、彼はアルヴェルナ山へ退いて隠棲生活するうちに、キリストの幻視や脱魂を得た。チェラーノのトンマゾによれば、1224年50日間の断食後脱魂のうちに6翼のセラフィムを通じてキリストと同じ聖痕を得た。このため13世紀初めの《聖痕拝受》では十字架が省かれているが、同世紀末の絵画ではボナヴェントゥラの伝記にもとづいてこれを磔刑のキリスト、またはこれに多翼をつけた十字架像と直している。没後2年で列聖された。
〔図像〕以上の伝記の他に、ろぱに乗った一農夫のため岩から清水を湧出させた奇跡、金曜日に鶏を送った悪魔に対して、これを魚に代えて報いた奇跡、回教徒の王を改宗させるため火の試練を提案した話など画題として採用されたが、フランチェスコの表現には、13世紀から宗教改革期までのジョット型とトリエント公会議に始まるトリエント型が考えられる。前者はもっぱらイタリア特にウンブリアとトスカナに多く中世的表現であり、後者は17世紀以降のもので国際性を帯び、スペインとフランスに見られる。持物はほとんど変わらず三つの結び目をもつ帯で、これは清貧、純潔、従順を象徴。また十宇架像を携えるが、特にキリストにならった両手甲、両足甲、横腹(右のその部分が時に卵型にくりぬいた修道衣によって明示される)の聖痕は独特。真の肖像は乏しく、初期の伝記作家チェラーノのトンマゾが描いたといわれる肖像や、スビアコの聖スペコ聖堂のフレスコ画がそれとされるが不確か。色黒く目を患う小男で風采のあがらない容貌の持主だったらしい。ジョットは無髯の理想形を伝説の場面に描いたが、17世紀以降ヴェネツィア派、ボローニャ派、スペイン派は有髯の写実形として、茨の茂みに転び、その血で赤ばらを生じた奇跡の場面(罪人救済を意昧する)、聖母から聖児を受け取る場面、十宇架のキリストを抱く場面など神秘的、象徴的な場面に、むしろ苦行者のフランチェスコを描写した。聖痕の他に百合(純潔)、どくろ(反宗教改草期に人間の可死性を象徴して特に表現された)を持物とする。彼の説話画としては《フランチェスコの前に外套を広げて将来を祝す人》《貧しい兵士へ外套を与えるフランチェスコ》《軍旗で飾られた邸の幻想》《アッシジの聖ダミアーノ聖堂で十字架像を礼拝》《父の前で美服を脱ぎすて、裸身となって敦会へ入る〉《ラテラノ大聖堂を支える夢》《清貧との結婚》《火の試練》《鳥獣への説教》《グレッチョのクリスマス・ミサで幼子イエスを抱く奇跡》《聖痕拝受》《死》などがある。

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S.M.トラステヴェレ教会所蔵

S.M.トラステヴェレ教会所蔵


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